2015年3月14日土曜日

ロンドン ハイドパーク(Hyde Park)

ヴィクトリアゲート近くにあるハイドパーク内の案内板ー
案内板の左上にみえる赤い丸が現在位置を示している

サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。

奥にみえるのが、サーペンタイン湖

緑が芽吹き始め、春の到来を告げる

そして、セント・サイモン卿からドラン嬢の失踪直前の様子が語られる。また、ドラン嬢の父であるアロイシウス・ドラン氏(Mr Aloysius Doran)の家に突然訪ねて来て、執事と従僕に押し返されたフローラ・ミラー(Flora Millar:バレエダンサー)と恋愛関係にあったことを、セント・サイモン卿は認める。

ハイドパーク内の樹々はまだ葉をつけておらず、
冬の状態が続いている

「それでは、あなたの奥様は、結婚式に行く前よりも楽しくなさそうな御様子で、式から戻って来たということですね。奥様の父上の家かに戻って来た時、奥様は何をされましたか?」
「妻がメイドと話をしているのを見ました。」
(中略)
「メイドとの話が終わった後、奥様はどうされましたか?」
「妻は朝食が用意されている部屋へ歩いて行きました。」
「あなたの腕につかまってですか?」
「いいえ、一人です。そういうちょっとしたことに関して、妻は独立心が強いのです。それから。私達が席についてから10分程経った後、妻は急に立ち上がり、謝罪の言葉をつぶやいて、部屋を出て行きました。その後、妻は戻って来ませんでした。」
「しかし、メイドのアリスによると、奥様は部屋に戻った後、結婚式の衣装の上に長いアルスターコートを羽織り、そして帽子をかぶって外へ出て行かれたそうですね。」
「その通りです。そして、その後、妻はフローラ・ミラーと一緒に、ハイドパークへ歩いて入って行くのを目撃されています。フローラ・ミラーは現在拘留中で、その朝ドラン氏の家で既に一悶着を起こしていました。」

ハイドパーク内では、乗馬の練習が行われている

'Lady St Simon, then returned from the wedding in a less cheerful frame of mind than she had gone to it. What did she do on re-entering her father's house ?'
'I saw her in conversation with her maid.'
(中略)
'And what did your wife do when she finished speaking to her maid ?'
'She walked into the breakfast-room.'
'On your arm ?'
'No, alone. She was a very independent in little matters like that. Then, after we had sat down for ten minutes or so, she rose hurriedly, muttered sone words of apology, and left the room. She never came back.'
'But this maid, Alice, as I understand, deposes that she went to her room, covered her bride's dress with a long ulster, put on a bonnet, and went out.'
'Quite so. And she was afterwards seen walking into Hyde Park in company with Flora Millar, a woman who is now in custody, and who had already made a disturbance at Mr Doran's house that morning.'

冬の太陽のまだ弱い光の中に立つ樹々

セント・サイモン卿と結婚したハティー・ドランが、彼と恋愛関係にあったフローラ・ミラーと連れ立って入って行ったハイドパーク(Hyde Park)は、ロンドン西部のマーブルアーチ(Marble Arch)とノッティングヒル(Notting Hill)を結ぶベイズウォーターロード(Bayswater Road)の南側に広がる広大な公園である。厳密には、別の公園で隣にあるケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)を含めると、ハイドパークは全体で約2.5㎢(ハイドパーク:約1.4㎢+ケンジントンガーデンズ:約1.1㎢)の広さを誇る。

冬の寒空の下、地面は蒼々としつつある

ハイドパーク一帯は、11世紀頃からウェストミンスター修道院(Westminster Abbey:現ウェストミンスター寺院)が所有していたが、1536年にチューダー朝のヘンリー8世(Henry Ⅷ:1491年ー1547年)が修道院解散令でこの土地を召し上げた以降、英国王家の狩猟場として使用された。公園として一般に開放されるようになったのは、ステュアート朝のチャールズ1世(Charles Ⅰ:1600年ー1649年)治世の1637年のことである。隣接するケンジントンガーデンズは、当時はまだハイドパークの一部であった。
ハノーヴァー朝のジョージ2世(George Ⅱ:1683年ー1760年)の妃のキャロライン王妃(Queen Caroline:1683年ー1737年)は、国情に疎く、思慮にも欠けると言われた国王の助言役となり、当時の首相ロバート・ウォルポール(Robert Walpole:1676年ー1745年)と連携して、国王に代わり、安定した統治を行ったことで知られている。彼女は、学問や芸術に加えて、造園にも造詣が深く、彼女の指示で公園内にサーペンタイン湖(The Serpentine)が設けられた。サーペンタイン湖が完成したのは、1733年である。サーペンタイン湖が設けられたことに伴い、公園の東側はハイドパークに、そして、公園の西側はケンジントンガーデンズとして、正式に分けられることとなった。また、1826年に湖の途中に橋が架けられたことに伴い、北側の湖をロングウォーター(The Long Water)に、そして、南側の湖をサーペンタイン湖として分けて呼ばれるようになった。
1851年にハイドパークは万国博覧会(The Great Exhibition)の会場となり、公園の南側にジョーゼフ・パクストン(Joseph Paxton)の設計によるクリスタルパレス(Crystal Palace)が建設された。万国博覧会終了後、クリスタルパレスが公園内に残ることを一般大衆が望まなかったため、パクストンは資金を募り、パレスをロンドン南部へ移設するという憂き目をみた。

ヴィクトリアゲートの柱

ヴィクトリアゲートの上にある像

手前にみえるのが、ハイドパーク内を南北に縦断している
ウェストキャレッジドライブ

現在、地下鉄のランカスターゲート駅(Lancaster Gate Tube Station)近くにあるヴィクトリアゲート(Victoria Gate)から公園内へ車で乗り入れることが可能で、ウェストキャレッジドライブ(West Carriage Drive)を通って、公園の北側から南側へと公園を縦断することができる。

2015年3月8日日曜日

ロンドン クレスウェルプレイス22番地(22 Cresswell Place)

クレスウェルプレイス22番地の正面全景

最初の夫アーチボルド・クリスティー(Archibald Christie:1889年ー1962年)の浮気が原因で、1928年に彼と離婚したアガサ・クリスティーは、翌年の1929年にサウスケンジントン地区(South Kensington)のクレスウェルプレイス22番地(22 Cresswell Place)の家を購入し、娘のロザリンドと秘書で友人のカーロ・フィッシャーと一緒にそこへ引っ越した。


クレスウェルプレイス22番地の最寄駅は、サークルライン(Circle Line)、ディストリクトライン(District Line)とピカデリーライン(Piccadilly Line)が通る地下鉄のサウスケンジントン駅(South Kensington Tube Station)とグロースターロード駅(Gloucester Road Tube Station)の2駅であるが、サウスケンジントン駅から南西へ延びる大通りオールドブロンプトンロード(Old Brompton Road)を進んで行った方が判り易いかと思う。

プライオリーウォーク側からみたクレスウェルプレイス
―クレスウェルプレイス22番地は、
画面の右手中央辺りに建っている

オールドブロンプトンロードをしばらく行くと、進行方向の左手にクレスウェルガーデンズ(Cresswell Gardens)という細い通りがあるので、この通りに入る。一見行き止まりの路地と思えるが、クレスウェルガーデンズは左へ折れ曲がっていて、更に進むと、クレスウェルプレイスという石畳の直線道路になる。この道をずーっと進んで行くと、クレスウェルプレイスがプライオリーウォーク(Priory Walk)に突き当たる少し手前の左手に、クレスウェルプレイス22番地は建っている。

プライオリーウォーク沿いに建つフラット群
―建物の外壁が薄紫色、ピンク色、水色や黄色等で
カラフルに塗られている
プライオリーウォークと交差した角から
クレスウェルプレイスを望む

車でクレスウェルプレイス22番地へ行くには、サウスケンジントン駅からオールドブロンプトンロードを行ってもよいし、もう一本テムズ河(River Thames)寄りの大通りフルハムロード(Fulham Road)を行って、少し北上してもかまわない。
オールドブロンプトンロードもフルハムロードもバスが通る大通りなので、週末でも賑やかであるが、クレスウェルプレイスは両大通りからかなり奥まったところにあるので、大通りの喧騒はここまで届かず、人通りもほとんどないため、非常に静かでひっそりとしている。

クレスウェルプレイス22番地の1階部分近景
―植栽がうまい具合に配置されている

実際、クレスウェルプレイス22番地は3階建てのこじんまりした家で、アガサ・クリスティーが住んでいたとは思えない感じである。1階部分は白いペンキで塗られた壁で、2階部分は魚の鱗状に赤いスレートが貼られ、3階部分は赤いレンガとなっている。この建物は元々厩舎として使用されており、アガサ・クリスティーはこれを大幅に改装して住居に変えたとのこと。

「アガサ・クリスティーがここに住んでいた」ことを示す
非公認のブループラーク

緑色に塗られた玄関ドアの右上の壁には、「アガサ・クリスティーがここに住んでいた」ことを示すブループラーク(Blue Plague)が掛けられているが、これはイングリッシュヘリテージ(English Heritage)が管理している公認のものではなく、非公認のものである。公認のブループラークは、以前に紹介した「シェフィールドテラス58番地」の家に掛けられている。公認のブループラークは、一人の人物について一箇所だけ架けるという決まりがあるため、クレスウェルプレイス22番地よりも見栄えがよいシェフィールドテラス58番地が、イングリッシュヘリテージによって選ばれたものと思われる。

クレスウェルプレイスは細い道のため、
冬場は快晴の日でも、
陽は1階部分までは届かない

アガサ・クリスティーは、中東旅行の際に知り合った考古学者のサー・マックス・エドガー・ルシアン・マローワン(Sir Max Edgar Lucien Mallowan:1904年ー1978年)と1930年に再婚して、ここクレスウェルプレイス22番地で生活を始めている。ただ、1934年に二人は地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notthinghill Gate Tube Station)の近くにあるシェフィールドテラス58番地を購入して、そちらに生活の居を移してしまったが、これも前に紹介したチェルシー地区(Chelsea)にあるスワンコート(Swan Court)のフラットと同様に、クレスウェルプレイス22番地についても、アガサ・クリスティーは亡くなる1976年まで手放さなかったそうである。

2015年3月7日土曜日

ロンドン ランカスターゲート(Lancaster Gate)

ベイズウォーターロード側から見たランカスターゲート

サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。


セント・サイモン卿の来訪に先立ち、ホームズの指示を受け、新聞の山の中から本件に関する記事を探し出して、ホームズに読んで聞かせるジョン・ワトスンの作業はまだ続いていた。ワトスンは、昨日の朝刊に単独記事として掲載されているものを見つけた。見出しは、「上流階級の結婚式で起こった奇妙な出来事("Singular Occurrence at Fashionable Wedding")」。

ランカスターゲートの広場を囲む高級住宅街

ハノーヴァースクエアのセントジョージ教会で執り行われた結婚式は非常に内輪のもので、式への出席者は以下の通り。花嫁の父であるアロイシウス・ドラン氏、バルモラル公爵夫人、バックウォーター卿、花婿の弟であるユースタス卿と妹であるレディー・クララ・セント・サイモン、そして、レディー・アリシア・ウィッティントンの6名だった。結婚式の後、一行はランカスターゲートにあるアロイシウス・ドラン氏の家へと移動した。そこには朝食が用意されていた。その際、名前は明らかにされていないが、一人の女性によってちょっとしたトラブルが発生したようである。彼女はセント・サイモン卿に話があると主張して、一行に続いて家に無理矢理押し入ろうとしたのだ。長い間の押し問答の末、彼女は執事と従僕によりやっとのことで押し返されたのである。

物語とは異なり、夕闇が迫るランカスターゲート

The ceremony, which was performed at St George's, Hanover Square, was a very quiet one, no one being present save the farther of the bride, Mr Aloysius Doran, the Duchess of Balmoral, Lord Backwater, Lord Eustace and Lady Clara St Simon (the younger brother and sister of the bridegroom) and Lady Alicia Whittington. The whole party proceeded afterwards to the house of Mr Aloysius Doran, at Lancaster Gate, where breakfast had been prepared. IT appears that some little trouble was caused by a woman, whose name has not been ascertained, who endeavoured to force her way into the house after the bridal party, alleging that she had some claim upon Lord St Simon. It was only after a painful and prolonged scene that she was ejected by the butler and the frontman. …

この間に花嫁であるハティー・ドランは席を中座して、そのまま行方が判らなくなったのであった。

ケンジントンガーデンズの入口ランカスターゲート

花嫁の父のアロイシウス・ドランの家があったランカスターゲート(Lancaster Gate)は、ロンドンのベイズウォーター地区(Bayswater)内にあり、ハイドパーク(Hyde Park)とケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)の北側に位置している。
真ん中にある大きな広場と教会を囲むように建つ高級住宅街がランカスターゲートの大きな特徴である。当初、周囲の建物はアッパーハイドパークガーデンズ(Upper Hyde Park Gardens)として知られ、ランカスターゲートと呼ばれていたのは、真ん中にある広場のみであった。19世紀中頃にこの一帯が開発された際に、ベイズウォーターロード(Bayswater Road)をはさんで反対側にあるケンジントンガーデンズへの入口ランカスターゲートの名前を採って、この一帯がそう呼ばれるようになった。

尖塔を除いて、教会からフラットに生まれ変わったスパイアーハウス

真ん中の広場内にある教会は「ランカスターゲートのキリスト教会(Christ Church, Lancaster Gate)」として知られ、ロンドンでも有名な教会の一つであったが、屋根に腐食が見つかったため、1997年に尖塔(Spire)を残して取り壊されてしまった。尖塔以外の部分は建替えられて、フラットとして生まれ変わり、現在は「スパイアーハウス(Spire House)」と呼ばれている。

広場に面して建つホテル「コロンビア(Columbia)」

また、広場を取り囲む建物の多くは引き続き高級住宅街のままであるが、その他は大使館(コスタリカ大使館:Embassy of Costa Rica)、オフィスやホテル等として使用されている。

浮き島の上に建つホテル「ランカスター・ロンドン」

地下鉄の最寄駅は、セントラルライン(Central Line)が通るランカスターゲート駅(Lancaster Gate Tube Station)であるが、マーブルアーチ(Marble Arch)方面へ、つまり、東側へ少し戻ったところにある。なお、ランカスターゲート駅の入口は、周回道路で囲まれた浮き島のようなところにあり、その上には「ランカスター・ロンドン(Lancaster London)」というホテルが高い聳え建っている。ここからシティーへ地下鉄一本で行けることもあって、日本からの出張者にもよく使われている。

2015年3月1日日曜日

ロンドン スワンコート(Swan Court)

チェルシーマナーストリートに面したスワンコートの正面入口脇にある白鳥のレリーフ

スワンコート(Swan Court)は、アガサ・クリスティーがロンドンで最後に購入した一室があるチェルシー地区(Chelsea)のフラットである。地下鉄サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)が通るスローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)から南西へ延びるキングスロード(King's Road)を下り、通りの中間辺りでテムズ河(River Thames)方面、つまり、南側へ曲がって少し行ったところに、スワンコートは建っている。スワンコートは、キングスコートに垂直に交差するフラッドストリート(Flood Street)とチェルシーマナーストリート(Chelsea Manor Street)の2本の通りに挟まれている。建物の正面入口はチェルシーマナーストリートに面している側で、フラッドストリートに面している側は裏口になっていて、建物の住民以外は通り抜け不可となっている。

スワンコートの建物正面

コの字型のスワンコートに囲まれた中庭

スワンコートの一室(483号室)をアガサ・クリスティーが購入したのは、第二次世界大戦(1939年ー1945年)が終わった後の1948年で、彼女が1976年に亡くなるまで所有していた、とのこと。

スワンコートの建物正面(右側)

スワンコートの建物正面(左側)

スワンコートは9階建てで、最上階はペントハウスになっている模様。スワンコートの周囲は普通の住宅街で、これに匹敵する高さを誇る建物がないため、スワンコートは周りを圧倒するように建っている。建物はコの字型で、中央に中庭がある。また、正面入口と裏口の門の両側には、白鳥のレリーフが「スワンコート」という名前と一緒に埋め込まれている。どのレリーフもやや薄汚れていたり、ひびがはいっていたりして、時代の流れを感じる。ただ、もう一方では、メインテナンスが行き届いておらず、残念ながら、スワンコートという建物自体のグレードを下げているという思いもある。スワンコートを訪れたのは、ある土曜日の夕方だったが、スワンコートは中庭を含めてひっそりしており、人が住んでいる雰囲気があまりしない。

フラッドストリートに面した
スワンコートの裏口脇にある白鳥のレリーフ

2015年2月28日土曜日

ロンドン ハノーヴァースクエア / セントジョージズ教会(Hanover Square / St. George's Church)

ハノーヴァースクエア内にある広場

サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。


セント・サイモン卿の来訪に先立ち、ホームズの指示に基づいて、ジョン・ワトスンは新聞の山の中から本件に関する記事を探して、ホームズに読んで聞かせるのであった。ワトスンはモーニングポスト(Morning Post)他の記事を読み上げた。

ハノーヴァースクエア側から見たセントジョージズ教会

「他にもあるかい?」と、ホームズは欠伸をしながら尋ねた。
「あるよ、大層ね。モーニングポストに別の記事が載っている。結婚は完全に内輪で行われる予定で、結婚式の場所はハノーヴァースクエアのセントジョージズ教会となっている。結婚式に招待されたのは、親しい友人が6名だけで、結婚式後、一行はアロイシウス・ドラン氏が購入したランカスターゲートにある家具付きの家へ戻る予定だったようだ。2日後ーつまり、この前の水曜日だが、結婚式が執り行われ、ハネムーンはピーターズフィールドの近くにあるバックウォーター卿の邸宅で過ごす予定という簡単な告知が出ている。これで、花嫁が失踪する前に載った記事は全部だ。」

ハノーヴァースクエア内にあるウィリアム・ピット(小ピット)
(William Pitt (the Younger):1759年ー1806年)のブロンズ像
ー彼は、1783年ー1801年と1804年ー1806年の2回、
英国首相を務めている

'Anything else ?' asked Holmes, yawning.
'Oh, yes ; plenty. Then there is another note in the Morning Post to say that the marriage would be an absolutely quiet one, that it would be at St George's, Hanover Square, that only half a dozen intimate friends would be invited, and that the party would return to the furnished house at Lancaster Gate which has been taken by Mr Aloysius Doran. Two days later - that is, on Wednesday last - there is a curt announcement that the wedding had taken place, and that the honeymoon would be passed at Lord Backwater's place, near Petersfield. These are all the notices which appeared before the disappearance of he bride.'

ハノーヴァースクエア内でも、
ロンドンの東部と西部を結ぶ地下トンネルを建設する
クロスレール工事が行われている

セント・サイモン卿とハティー・ドランの結婚式が執り行われたセントジョージ教会(St. George's)が所在するハノーヴァースクエア(Hanover Square)は、ロンドンのメイフェア地区(Mayfair)内にある。具体的に言うと、マーブルアーチ(Marble Arch)から東に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street)とピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から北へ延びるリージェントストリート(Regent Street)が交差するオックスフォードサーカス(Oxford Circus)の南西にあり、徒歩数分圏内である。

ハノーヴァースクエアの南東の角にあるヴォーグハウス(Vogue House)
ー画面右奥の角を回ったところに、雑誌「ヴォーグ(Vogue)」等を販売する店がある

初代スカボロー伯爵(1st Earl of Scarbrough)で、名誉革命(Glorious Revolution:1688年)時の政治家として名を馳せたリチャード・ルムレイ(Richard Lumley)により、1713年にハノーヴァースクエアは住宅街として開発された。1714年に英国王がステュアート朝からハノーヴァー朝に替わったことに伴い、当広場はハノーヴァースクエアと名付けられた。それ以降、約300年の間にハノーヴァースクエアを取り囲む建物の大部分は建替えられてしまい、18世紀当時の建物はほとんど残っていない。

セントジョージズ教会の入口の屋根は、コリント式の柱で支えられている

セント・サイモン卿とハティー・ドランの結婚式が行われたセントジョージズ教会は実在しているが、ハノーヴァースクエア内には所在していない。実際には、ハノーヴァースクエアから南へ少し下ったところ、セントジョージストリート(St. George Street)とマドックスストリート(Maddox Street)が交差する南東の角に、セントジョージズ教会は建っている。
1721年にウィリアム・ステュアート将軍(General William Stuart)が寄贈した土地をベースにして、ジョン・ジェイムズ(John James)が設計し、1721年から1725年にかけて、セントジョージズ教会は建設された。教会の入口の屋根はコリント式の柱で支えられている。
メイフェア地区内にあるというロケーション上、ここで上流階級の結婚式が頻繁に執り行われているそうで、有名なところでは、米国第25代副大統領で、かつ、第26代大統領のセオドア・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt:1858年ー1919年)が1886年12月2日ここで妻エディス・キャロー(Edith Carow)との結婚式を行っている。

2015年2月22日日曜日

ロンドン グローヴナースクエア(Grosvenor Square)


サー・アーサー・コナン・ドイル作「独身の貴族(The Noble Bachelor)」(出版社によっては、「花婿失踪事件(A Case of Identity)」との対比から「花嫁失踪事件」と訳しているケースあり)において、1887年10月、ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴェア・セント・サイモン卿(Lord Robert Walsingham de Vere St Simon)との結婚式の後、花嫁であるハティー・ドラン(Hatty Doran)が披露宴の席上、気分がすぐれないと言って自室に引き下がり、そのまま姿を消してしまったのである。セント・サイモン卿がベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れ、ドラン嬢の行方を捜してほしいと依頼する。
この事件は、次のようにして幕を開ける。ホームズはある手紙を手にして、ジョン・ワトスンに向かって話を始めるのであった。

米国大使館側から見たグローヴナースクエアの広場

「僕が手に持っている手紙は、セント・サイモン卿から受け取ったものだ。ワトスン、君に読んで聞かせるから、これらの新聞の山の中から、この件に関する記事であれば、どんなものでもいいので、僕に見せてくれないか。」その手紙で、セント・サイモン卿は次のように告げていた。

「シャーロック・ホームズ殿 ー バックウォーター卿から貴殿の判断と思慮には絶対の信頼を寄せられるという話を聞きました。それ故、私は貴殿を訪問の上、私の結婚に関連して発生した非常に沈痛な出来事を相談したいと思っております。スコットランドヤードのレストレイド警部が本件に関する調査に着手していますが、私が貴殿に御協力を仰ぐことに彼は反対せず、何らかの手助けになるかもしれないと考えています。そこで、私は午後4時に貴殿の元を御伺いするつもりです。本件は非常に重要なので、もしその時間貴殿に他の約束がある場合には、そちらを延期していただきたい。
敬具
               セント・サイモン

「この手紙はグローヴナー邸から出されている。羽ペンで書かれているよ。惜しむらくは、セント・サイモン卿の右手小指の外側がインクで汚れているはずだ。」と、ホームズは手紙をたたみながら言った。

広場内から見たグローヴナースクエアの北側

'The letter which I hold in my hand is from Lord St Simon. I will read it to you, and in return you must turn over these papers and let me have whatever bears upon the matter.' This is what he says:

'MY DEAR MR SHERLOCK HOLMES - Lord Backwater tells me that I may place implicit reliance upon your judgement and discretion. I have determined, therefore, to call upon you and to consult you in reference to the very painful event which has occurred in connection with my wedding. Mr Lestrade, of Scotland Yard, is acting already in the matter, but he assures me that he sees no objection to your co-operation. I will call at four o'clock in the afternoon, and should you have any other engagement at that time, I hope that you will postpone it, as this matter is of paramount importance.
Yours faithfully,
               ST SIMON

'It is dated from Grosvenor Mansions, written with a quill pen, and the noble lord has had the misfortune to get a smear of ink upon the outer side of his right little finger,' remarked Holmes as he folded up the epistle.


グローヴナースクエアの広場内にある立て看板

セント・サイモン卿の邸宅があるグローヴナースクエア(Grosvenor Square)は、ロンドンのメイフェア地区(Mayfair)内にある広場で、ウェストミンスター公爵(Duke of Westminster)が所有する不動産の中心部にある。なお、広場の名前は、公爵の名字である「グローヴナー(Grosvenor)」から採られている。
1710年にリチャード・グローヴナー卿(Sir Richard Grosvenor)が(グローヴナー)スクエアと広場を囲む通り一帯を開発する許可を得て、1721年頃に開発が始まったと言われている。その後、第二次世界大戦(1939年ー1945年)時までロンドン有数の人気がある住宅街の一つで、数多くの貴族階級が住んでいた、とのこと。

グローヴナースクエアの東側ー
右側の建物をカナダ領事館が使用している

米国政府がグローヴナースクエア内の建物を使用し始めたのは、1785年まで遡る。
1960年にグローヴナースクエアの西側に米国大使館(United States Embassy)が建設された。米国大使館が1938年からそれまでの間使用していた建物(グローヴナースクエアの東側)は、カナダ政府によって購入され、マクドナルドハウス(Macdonald House)と名前を変えて、以後、カナダ領事館(Canada High Commission)が入居している。

以前は、グローヴナースクエアを周回する道路は全て一般に開放されていたが、2001年9月11日に米国内で発生した同時多発テロ事件以降、米国外に所在する大使館や領事館等へのテロ行為のリスクが飛躍的に高まったことに伴い、米国大使館前を通るグローヴナースクエア周回道路の一部が封鎖されて、現在に至っている。


グローヴナースクエアの西側ー米国大使館

2008年に入り、米国政府は、同大使館をグローヴナースクエアからテムズ河(River Thames)南岸のワンズワース区(London Borough of Wandsworth)にあるナインエルムズ地区(Nine Elms)へ移転させる方針を発表、2016年、あるいは、2017年までの移転が計画されている。
一方、2009年10月に、イングランド内にある城や邸宅等の保存を目的とするイングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)の推奨を受けて、現在、米国大使館が入居している建物は「グレードⅡ(Grade Ⅱ)」という認定を受けたことに伴い、法令上、建物の所有者は建物の外観を変更することが許されなくなった。現在の建物を建て替える場合、外観についてはそのまま残して、建物の内部のみが建替え可能となる。現在の建物の正面屋上に鷲の像が設置されているが、建替えの際には、これも撤去できないことになる。
2009年11月に、米国大使館が入居している建物は、カタール系投資グループに売却され、米国大使館の移転後にはホテルに改装されるという噂である。

グローヴナースクエアの広場内に建つ
フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトのブロンズ像

グローヴナースクエアの広場には、民主党出身の第32代米国大統領フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年ー1945年)のブロンズ像があり、広場一帯を見守っている。