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シティー・オブ・ロンドン内に所在するギルドホールアートギャラリー で現在開催されている 「Evelyn De Morgan - The Modern Painter in Victorian London」展には、 イーヴリン・ド・モーガン作「ロザモンドに自決を迫る王妃」も出品されている。 Oil on canvas / Height : 756 mm x Width : 667 mm |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」において、エルキュール・ポワロとエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)の間の会話内で、アキテーヌのエレナー(Eleanor of Aquitaine → 2025年2月17日 / 2月23日付ブログで紹介済)について言及している。
なお、本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第27作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第18作目に該っている。
「杉の柩」は、「第一部:事件編」、「第二部:捜査編」と「第三部:解決編」の三部構成になっている。
上記の「第二部:捜査編」において、エルキュール・ポワロは、勾留中のエリノア・カーライルの元を訪れる。
「では、先へまいりましょう。次はなんですか?」
「私、食器室(パントリー)におりて、サンドイッチを切りました」
ポワロはやさしく言った。「そして、考えたー何を?」
エリノアの瞳がきらっと光った。「わたしの名前の由来をですわ。アキテーヌのエレアノールです。」
「よくわかりました。」
「おわかりになります?」
「わかりますとも。その話は知っています。うるわしきロザモンドに、剣か毒杯かをえらばせましたね、彼女は。ロサモンドは毒杯をとったのでした。」
エリノアは口を閉じ、蒼白になっていた。
<出展:早川書房のクリスティー文庫18「杉の柩」(恩地三保子訳)>
エルキュール・ポワロとエリノア・カーライルの間の会話内に出てくる「アキテーヌのエレアノール」とは、
フランス語:アリエノール・ダキテーヌ(Alienor d’Aquitaine)
英語:エリナー・オブ・アクイティン(Eleanor of Aquitaine)
と呼ばれる中世フランス王国の女性貴族で、アキテーヌ女公(1122年ー1204年 在位期間:1137年ー1204年)のことを指している。
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イーヴリン・ド・モーガン作「ロザモンドに自決を迫る王妃」の場合、 アリエノール・ダキテーヌ(画面左側の人物)が、右手に毒薬が入った瓶を持ち、 夫ヘンリー2世の愛妾ロザモンド・クリフォードが囲われているウッドストック宮殿へと押し掛け、 ロザモンド・クリフォードに対して、自決を迫った場面が描かれている。 |
アキテーヌ公ギヨーム10世(Guillaume X duc d’Aquitaine:1099年ー1137年 在位期間:1126年ー1137年)とシャテルロー副伯エメリー1世の娘であるアエノール・ド・シャテルロー(Aenor de Chatellerault:1103年ー1130年)の第一子長女として出生したアリエノール・ダキテーヌは、父の死去に伴い、アキテーヌ女公の地位に就く。
その後、アリエノール・ダキテーヌは、
(1)フランスのカペー朝第6第国王であるルイ7世(Louis VII:1120年ー1180年 在位期間:1137年ー1180年)の王妃(1137年8月1日ー1152年3月21日)
そして、
(2)イングランドのプランタジネット朝初代国王であるヘンリー2世(Henry II:1133年ー1189年 在位期間:1154年ー1189年)の王妃(1154年12月19日ー1189年7月6日)
となった。
彼女の子孫が欧州各地の君主や妃となったことから、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれている。
ルイ7世の王妃となったアリエノール・ダキテーヌは、1147年の第2回十字軍(1145年ー1149年)時に、アキテーヌ軍を引き連れて、夫ルイ7世と一緒に参加したが、失敗に終わったことにより、2人の間に亀裂が入る。そして、1152年3月21日に、2人は離婚。
ルイ7世との離婚後、領地へ帰還したアリエノール・ダキテーヌは、約2ヶ月後の1152年5月18日に、アンジュー伯ノルマンディー公アンリと再婚し、翌年の1153年8月17日に長男ウィリアムを出産。
1154年10月25日、アンジュー伯ノルマンディー公アンリは、イングランド王を継承して、ヘンリー2世となる。アリエノール・ダキテーヌは、夫ヘンリー2世 / 長男ウィリアムと一緒にイングランドに上陸し、同年12月19日に戴冠。アンジュー伯ノルマンディー公アンリがイングランド王のヘンリー2世として戴冠したことに伴い、フランス国土の半分以上がイングランド領となり、後の百年戦争(Hundred Years’ War:1337年ー1453年)の遠因となった。
アリエノール・ダキテーヌは、再婚したヘンリー2世との間に、以下の5男3女の8人の子を儲け、夫と一緒に、領土を統治するとともに、アンジュー帝国の拡大に務めた。
(1)ウィリアム(1153年ー1156年)
(2)ヘンリー(1155年ー1183年)
(3)マティルダ(1156年ー1189年)
(4)リチャード(1157年ー1199年)
(5)ジェフリー(1158年ー1186年)
(6)エレノア(1162年ー1214年)
(7)ジョーン(1165年ー1199年)
(8)ジョン(1166年ー1216年)
アリエノール・ダキテーヌが5男であるジョンを出産する頃から、ヘンリー2世と彼女の夫婦は不仲となる。これは、夫ヘンリー2世に愛妾であるロザモンド・クリフォード(Rosamund Clifford:1140年頃ー1176年頃)ができたことに加えて、オックスフォードシャー州(Oxfordshire)のウッドストック宮殿(Woodstock Palace)に彼女を引き入れて、堂々と囲うようになったためである。
アリエノール・ダキテーヌには、夫ヘンリー2世の愛妾ロザモンド・クリフォードが囲われているウッドストック宮殿へと押し掛け、ロザモンド・クリフォードに対して、剣、もしくは、毒杯のいずれかによる自決を迫ったとする伝承が残っている。
ただし、史実としては、アリエノール・ダキテーヌは、1174年1月、ヘンリー2世に捕らえられ、約15年にわたり、イングランドにおいて軟禁されており、ロザモンド・クリフォードが死去した時期とされる1176年の時点で、アリエノール・ダキテーヌは、ヘンリー2世により幽閉中であり、事実ではないと考えられている。
一方で、上記の伝承は芸術家を非常に刺激するようで、英国のラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の画家であるイーヴリン・ド・モーガン(Evelyn De Morgan:1855年ー1919年)が、この伝承を取り上げて、正にその場面を描いている。
その絵画は、「ロザモンドに自決を迫る王妃(Queen Eleanor and the Fair Rosamund)」(1901年ー1902年頃)で、金融街として知られるシティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)のモーゲートエリア(Moorgate area)内に所在する「ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery → 2025年5月13日付ブログで紹介済)」において現在開催されている「Evelyn De Morgan - The Modern Painter in Victorian London」展で公開されている。
なお、「Evelyn De Morgan - The Modern Painter in Victorian London」展の開催期間は、「2025年4月1日ー2026年1月4日」である。
次回は、「ロザモンドに自決を迫る王妃」を制作したイーヴリン・ド・モーガンについて、紹介したい。

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