2025年5月23日金曜日

ロンドン ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery)- その4

ギルドホールアートギャラリーが所蔵 / 展示する作品のうち、特に目玉となるのが、
ボストン出身の画家である
ジョン・シングルトン・コプリーによる絵画
「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」(1783年
である。


ロンドン市長(Mayor of London)とは別に、もう一人のロンドン市長、つまり、自治権を有するシティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の市長(Lord Mayor of London)による行政の拠点となる市庁舎「ギルドホール(Guildhall)」に隣接して建つ「ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery)」は、シティー・オブ・ロンドンが所有する約4000点に及ぶ絵画や彫刻作品等を所蔵 / 展示している。


ギルドホールアートギャラリーの2階フロアから、
ジョン・シングルトン・コプリー作「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」へ向かう。

ギルドホールアートギャラリーの所蔵 / 展示作品のうち、特に目玉となるのは、ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley:1738年ー1815年)による絵画「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月(the Defeat of the Floating Batteries at Gibraltar, September 1782)」(1783年)である。


ジョン・シングルトン・コプリー作「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」は、
英国最大級の作品で、これを展示するために、
ギルドホールアートギャラリー は、吹き抜け様式に設計された。


ジョン・シングルトン・コプリーは、1738年7月3日、ボストン(Boston)に出生。

1750年頃に、母親が版画家と再婚した後、彼は義理の父親から絵画を学ぶ。そして、1766年に、ロンドンの展覧会に「少年とリス(Boy with Squirrell)」を出品して、賞賛を受けた。

アメリカ独立戦争(American War of Independence:1775年ー1783年)の開戦が近付く1774年に、ジョン・シングルトン・コプリーは英国へと渡り、その後、家族を呼び寄せて、ロンドンに定住。

ロンドンにおいて、ジョン・シングルトン・コプリーは、アメリカ出身の歴史画家であるベンジャミン・ウェスト(Benjamin West:1738年-1820年)と親しくなり、彼の影響を受けて、肖像画から歴史画への転換を図る。

1799年には王立芸術院(Royal Academy of Arts)の会員となるが、1815年9月9日に、ロンドンで没している。


ジョン・シングルトン・コプリー作「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」を
右下から見上げたところ

ジョン・シングルトン・コプリーが1783年に描いた「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」は、アメリカ独立戦争期間中に、英国とフランス / スペインの間で行われた「ジブラルタル包囲戦(Great Siege of Gibraltar:1779年6月24日ー1783年2月7日)」を題材にしている。


ジョン・シングルトン・コプリー作「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」を
左下から見上げたところ

フランスとスペインは、失った領土を取り戻すべく、アメリカ独立戦争中の英国に対して、宣戦を布告。ジブラルタルは、英国による地中海支配の要であったため、ジブラルタルの英国からの奪取を狙った。

ジブラルタル包囲戦における最大の戦いは、1782年9月13日に行われたもので、10万人の兵士と48隻の艦船から成るフランス・スペイン連合軍が英国軍を包囲して攻撃を仕掛けた。この時、スペイン軍は、筏に湿った砂を充填した新兵器「浮き砲台」を使って、ジブラルタルに接近し、正確な砲撃を行おうとしたが、ジョージ・オーガスタス・エリオット(George Augustus Eliott:1717年ー1790年)将軍が率いる英国軍は、炉で熱した砲弾を浴びせて、撃退。その結果、フランス・スペイン連合軍によるジブラルタル奪取は、不成功に終わった。

こうして、英国軍は、4年近い包囲に耐え抜き、1783年2月、フランス・スペイン連合軍による包囲は、遂に解かれることとなった。

上記の功績により、ジョージ・オーガスタス・エリオット将軍は、ジブラルタルの初代ヒースフィールド男爵(1st Baron Heathfield)に叙せられるとともに、ジブラルタルは、難攻不落の要塞として、その名を轟かせることになったのである。


2025年5月22日木曜日

ロンドン サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum)- その1

サー・ジョン・ソーンズ博物館の入口(右側)と出口(左側)


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1935年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第5作目に該る「死時計(Death-Watch → 2025年4月30日 / 5月4日付ブログで紹介済)」の場合、9月4日、風が吹くひんやりした夜の12時近く、ギディオン・フェル博士とメルスン教授(Professor Melson - 歴史学者で、ギディオン・フェル博士の友人)が、ホルボーン通り(Holborn → 2025年5月6日付ブログで紹介済)を歩いていところから、その物語が始まる。



2人は、劇場で映画を観た帰りで、メルスン教授が宿泊する予定のリンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln’s Inn Fileds → 2016年7月3日付ブログで紹介済)へと向かっていた。メルスン教授は、当初、ブルームズベリー地区(Bloomsbury)に宿泊しようとしたが、生憎と、どこも満員だったため、居心地が悪そうではあったものの、リンカーンズ・イン・フィールズ15番地(15 Lincoln’s Inn Fields)に寝室兼居間を見つけていた。


リンカーンズ・イン・フィールズの北側に建つ建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館へ行くには、画面右へと進む必要がある。

その日の午後、メルスン教授は、フォイルズ書店(Foyles → 2025年5月7日 / 5月9日付ブログで紹介済)において、中世ラテン語の写本辞書を見つけており、これは正真正銘の掘り出し物のため、ギディオン・フェル博士は、メルスン教授の宿でそれを見せてもらおうと考えていたのである。


画面左側には、リンカーンズ・イン・フィールズ内の公園が広がっている。

 彼らはリンカンズ・イン・フィールズの北側へ出た。広場そのものは、昼間見るよりも広大に見える。家々の正面はひっそりと静まり返り、とざされたカーテンの奥から明りがちらほら洩れているだけで、木立ちにしても、整然とした森のようであった。かすんだ月が空にかかり、街灯のように青ざめている。

「右へ曲がるんです」メイスンが言った。「あれがソーン博物館です。この二軒むこうが……」のっぺりした家々を見上げながら、地下勝手口の湿った鉄柵に手を走らせ、「わたしの泊まっている家です。隣がジョハナスの家です。なんにもならないんじゃないでしょうか、つっ立ってあの家を見ていても……」

「はっきりしたことはわからんのだが」フェル博士が言った。「玄関のドアがあいている……」

(吉田 誠一訳)


リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


メルスン教授が宿泊する予定のリンカーンズ・イン・フィールズ15番地へ行くために、ギディオン・フェル博士とメルスン教授の2人が前を通った「ソーン博物館」とは、「サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum)」のことで、リンカーンズ・イン・フィールズに面して建っている。


リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟

リンカーンズ・イン・フィールズとは、ロンドンの特別区の一つであるロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のホルボーン地区(Holborn → 2016年9月24日 / 2025年4月22日付ブログで紹介済)内にある広場とその周辺地域を指している。

厳密に言うと、リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場、東側、北側および西側の建物はロンドン・カムデン区に属しているが、南側の建物はシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属している。また、リンカーンズ・イン・フィールズは、ロンドン・カムデン区最古の広場で、かつ、ロンドン最大の面積を誇っている。


リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟

サー・ジョン・ソーンズ博物館は、英国の古典主義を代表する建築家で、1788年にロバート・テイラー(Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の邸宅兼スタジオを使用しており、彼が手掛けた建築に関する素描、図面や建築模型、更に、彼が収集した絵画や骨董品等を所蔵している。


イングランド銀行裏手(ロスベリー通り(Lothbury)沿い)の外壁に設置されている
サー・ジョン・ソーン像(その1)


イングランド銀行裏手(ロスベリー通り(Lothbury)沿い)の外壁に設置されている
サー・ジョン・ソーン像(その2)


なお、サー・ジョン・ソーンズ博物館は、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地 / 14番地(12, 13, 14 Lincoln’s Inn Fields)の3棟を占めており、ジョン・ディクスン・カー「死時計」の物語上、


*メルスン教授が宿泊する予定の場所:リンカーンズ・イン・フィールズ15番地

*有名な時計師(clockmaker)であるジョハナス・カーヴァー(Johannus Carver)家で、事件の舞台となる場所:リンカーンズ・イン・フィールズ16番地(16 Lincoln’s Inn Fields)


と言う設定になっている。


2025年5月21日水曜日

コナン・ドイル作「瀕死の探偵」<小説版>(The Dying Detective by Conan Doyle )- その2

英国で出版された「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」
1913年12月号に掲載された挿絵(その2) -
ジョン・H・ワトスンがシャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、
2年が経過していた。
ハドスン夫人から依頼を受けて、ワトスンは、ベイカーストリート221B を訪れ、
謎の病に罹って、やつれた状態のシャーロック・ホームズを見舞った。
暖炉の上に置かれた小さな白黒の象牙の箱に気付いた
ワトスンは、それを手に取って、もっとよく調べようとしたところ、
ホームズが恐ろしい叫び声をあげた。
「それを下ろせ!ワトスン、今直ぐに下ろすんだ!
今直ぐに、と言っているだろう!」と。
画面左側の人物がホームズで、画面右側の人物がワトスン。
挿絵:ウォルター・スタンレー・パジェット
(Walter Stanley Paget:1862年ー1935年)

なお、ウォルター・スタンリー・パジェットは、
シャーロック・ホームズシリーズのうち、

第1短編集の「シャーロック・ホームズの冒険

(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)、

第2短編集の「シャーロック・ホームズの回想

(The Memoirs of Sherlock Holmes)」(1893年)、

第3短編集の「シャーロック・ホームズの帰還

(The Return of Sherlock Holmes)」(1905年)および

長編第3作目の「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」

「ストランドマガジン」1901年8月号から1902年4月号にかけて連載された後、

単行本化)の挿絵を担当したシドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)の弟である。

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「瀕死の探偵(The Dying Detective)」は、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、43番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1913年12月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1913年11月22日号に掲載された。

同作品は、1917年に発行されたホームズシリーズの第4短編集「シャーロック・ホームズ最後の挨拶(His Last Bow)」に収録されている。


ジョン・H・ワトスンが結婚し、シャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、2年が経過していた。


11月の霧がかかって薄暗い午後、ベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)の家主であるハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ワトスンの家を訪れる。

ハドスン夫人曰く、ホームズが何か訳の分からない病に罹患して、「ここ3日間でどんどん衰弱して、瀕死の状態なのだ(’He’s dying, Dr Watson.’)。」と言う。更に、今朝、ハドスン夫人が「ホームズさんの許可があろうとなかろうと、今直ぐ、医者を呼びに行く。」と告げると、ホームズは、「それじゃ、ワトスンを呼んでくれ。」と答えたのだった。


ハドスン夫人からの話を聞いたワトスンは、急いでコートと帽子を身に着けると、ハドスン夫人と一緒に、馬車でベーカーストリート221B へと向かった。

ベーカーストリート221B へと向かう馬車の中で、ワトスンは、ハドスン夫人に詳しい事情を尋ねる。

ハドスン夫人によると、ホームズは、ある事件のため、テムズ河(River Thames)南岸のロザーハイズ(Rotherhithe)へ出かけ、そこで病気を移されて、帰って来たらしい。そして、ホームズは、水曜日の午後から寝たきりで、この3日間、食事も飲み物もとっていないのだった。


午後4時頃、ベーカーストリート221B に着いたワトスンは、ホームズの様子を見て、愕然とする。

ベッドに横たわるホームズの顔は、痩せ衰えており、熱で目はぎらぎらとして、頬も紅潮していた。更に、ベッドカバーの上に置かれた細い手は、ひっきりなしに痙攣していたのである。


ワトスンがベッドに近寄ろうとすると、ホームズは、「下がれ!直ぐに下がれ!(Stand back! Stand right back!)」と言って、恐ろしい形相で制止する。

ホームズによると、自分が罹患した病気は、船乗りから感染したスマトラ島(Sumatra)のクーリー病(coolie disease)で、接触感染する、とのことだった。

ホームズの制止に構わず、ワトスンは診察しようとするが、ホームズは、「君は、ただの一般開業医だ。非常に限られた経験とありふれた能力しかない。」と強く拒絶した。ワトスンは、「熱帯病に詳しい医師を連れて来る。」と提案したが、ホームズは、この提案も受け入れなかった。

更に、ホームズは、ワトスンに対して、奇妙なことを言い出す。「午後6時になったら、自分が指定する人物をここに呼んで来てほしい。」と言い張るのだ。


英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、
2022年に発行されたシャーロック・ホームズをテーマにしたトランプのうち、
3 ♠️  象牙の箱


やつれ果てたホームズの姿を見て、落ち着かないワトスンは、ホームズの部屋の中をうろつき回る。

そして、ワトスンが、暖炉の上に散らかっているガラクタの中から、横にスライドして開ける蓋が付いた小さな白黒の象牙の箱(a small black and white ivory box with a sliding lid)を手に取ったところ、ホームズが絶叫した。「それを下ろせ!ワトスン、今直ぐ下ろすんだ!今直ぐに、と言っているだろう!(Put it down! Down, this instant, Watson - this instant, I say!)」と。ホームズの叫び声を聞いたワトスンは、呆然としてしまう。


暫くすると、ホームズは、ワトスンに対して、「ロウワーバークストリート13番地(13 Lower Burke Street → 2015年5月9日付ブログで紹介済)に住むカルヴァートン・スミス(Culverton Smith)を連れて来てほしい。」と頼む。

ホームズによると、「カルヴァートン・スミスは、医者ではなく、農場主(planter)ではあるが、自分が罹患した病気に詳しい唯一の人物。」とのこと。また、「恐ろしい死に方をした甥の殺害の嫌疑をかけたため、カルヴァートン・スミスは、自分をひどく恨んでいるが、どんな手段を使っても構わないので、彼をここに呼んで来てくれ。」と懇願するのであった。


ホームズの依頼を受けたワトスンは、カルヴァートン・スミスが住むロウワーバークストリート13番地へと向かった。


2025年5月20日火曜日

イーヴリン・ド・モーガン(Evelyn De Morgan)

シティー・オブ・ロンドン内にある
ギルドホールアートギャラリー において、現在開催されている
イーヴリン・ド・モーガン展のブローシャー

 アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」において、エルキュール・ポワロとエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)の間の会話内で言及されているアキテーヌのエレナー(Eleanor of Aquitaine → 2025年2月17日 / 2月23日付ブログで紹介済)の伝承に基づいて、「ロザモンドに自決を迫る王妃(Queen Eleanor and the Fair Rosamund)」(1901年ー1902年頃)を描いたのは、英国のラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の画家であるイーヴリン・ド・モーガン(Evelyn De Morgan:1855年ー1919年)である。

イーヴリン・ド・モーガンの旧姓は、メアリー・イーヴリン・ピカリング(Mary Evelyn Pickering)で、1855年8月30日、勅選弁護士 / 刑事法院臨時裁判官である父パーシヴァル・アンドリー・ピカリング(Percival Andree Pickering:1810年ー1876年)と母アンナ・マリア・ウィルへルミナ・スペンサー・スタンホープ(Anna Maria Wilhelmina Spencer Stanhope)の下、ロンドンのグローヴナーストリート6番地(6 Grosvenor Street)に出生。彼女は、ピカリング夫妻の最初の子供(長女)で、彼女の後に、弟2人と妹1人が生まれている。

メアリー・イーヴリン・ピカリングは、上位中流階級の両親により、自宅で教育を受け、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、古典文学や神話学等を学んだ。

彼女は、美術学校への進学を希望したが、当初、彼女の両親がこれを拒否、1873年に、両親の許しを漸く得て、スレイド美術学校(UCL Slade School of Fine Art)に入学。

彼女の叔父であるジョン・スペンサー・スタンホープ(John Spencer Stanhope:1787年ー1873年)も画家で、彼女に多大な影響を与えた。また、彼女は、当時、叔父が住んでいたフィレンツエ(Florence)を度々訪れ、ルネサンス期の巨匠達による作品群を観賞する機会も得た。その影響により、彼女は、スレイド美術学校が好む古典的なテーマから、彼女独自のスタイルへと移行していく。


イーヴリン・ド・モーガン展で展示されている
「ナクソス島のアリアドニ(Ariadne in Naxos)」(1877年)
Oil on canvas

メアリー・イーヴリン・ピカリングは、1883年8月に、陶芸家(ceramicist)/ デザイナー / 画家であるウィリアム・フレンド・ド・モーガン(William Frend De Morgan:1839年ー1917年)と出会い、約3年半後の1887年3月5日に、彼と結婚して、ロンドンに居を定めた。

1895年以降、第一次世界大戦が勃発する1914年までの間、ド・モーガン夫妻は、1年の半分をロンドンで、そして、残りの半年をフィレンツェで過ごした。


1917年1月15日に、夫のウィリアム・ド・モーガンが先立ち、その約2年半後の1919年5月2日、イーヴリン・ド・モーガンは、ロンドンで亡くなり、彼女の遺体は、サリー州(Surrey)ウォーキング(Woking)近郊のブロックウッド墓地(Brookwood Cemetery)に埋葬された。


2025年5月19日月曜日

ニコラス・サーコム作「愚かな銀行家の公にできない苦境」(The Secret Predicament of the Stupid Banker)- その2

英国の Harry King Films Limited から、Eva Books として
2021年に刊行されている
 ニコラス・サーコム
作「愚かな銀行家の公にできない苦境」の挿絵(その1)
(I
llustrations by Juliet Snape)-
画面奥の人物は、ジョン・ワトスン(左側)と
シャーロック・ホームズ(右側)。
画面手前の人物は、銀行の頭取であるアレクサンダー・ホールドアップ。

作家で、映画 / テレビのプロデューサーでもあるニコラス・サーコム(Nicholas Sercombe)による第11作目「愚かな銀行家の公にできない苦境(The Secret Predicament of the Stupid Banker)」(2021年)の場合、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)による原作「緑柱石の宝冠(The Beryl Coronet → 2025年4月29日 / 5月1日 / 5月8日 / 5月12日付ブログで紹介済)」(1892年)に比べると、以下のような差異が見受けられる。


(1)

<原作>

前日に降った雪がまだ地面に厚く積もっているものの、冬の日差しに輝く、そして、明るく爽やかな2月の朝(It was a bright, crisp February morning, and the snow of the day before still lay deep on the ground, shimmering brightly in the wintry sun.)に、その物語が始まる。コナン・ドイルの原作上、年は言及されていない。

<本作品>

前日に降った季節外れの雪がまだ地面に厚く積もっているものの、冬の日差しに輝く、そして、明るく爽やかな1891年3月の朝(It was a bright, crisp March morning in 1891 and the unseasonal snow of the day before still lay deep on the ground, shimmering brightly in the wintry sun.)に、その物語が始まる。本作品の場合、1891年と具体的な年が言及されている。


(2)

<原作>

シャーロック・ホームズが出窓から通りを見下ろしていたところ、スレッドニードルストリート(Threadneedle Street → 2014年10月30日付ブログで紹介済)にあるホールダー&スティーヴンスン銀行(banking firm of Holder & Stevenson - シティー(City → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)内では2番目に大きな民間銀行)の頭取を務めているアレクサンダー・ホールダー(Alexander Holder)と名乗る紳士が、ベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のホームズの元を訪れる。

<本作品>

前日、プロの女性達による出張サービス(Fanny by Gaslight)を呼んで、楽しい一夜を過ごしたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの2人がまだガウン姿で居るところへ、スレッドニードルストリートにあるホールドアップ&スティーヴンスン銀行(banking firm of Holdup & Stevenson)の頭取であるアレクサンダー・ホールドアップ(Alexander Holdup)が駆け込んで来る。


(3)

<原作>

アレクサンダー・ホールダーは、ホームズの元を訪れたのは、「(スコットランドヤードの)警部(police inspector)から提案を受けたからだ。」と述べている。

<本作品>

アレクサンダー・ホールドアップは、ホームズの元を訪れたのは、「(スコットランドヤードの)グレッグスン警部(Inspector Gregson)から提案を受けたからだ。」と述べている。


(4)

事件の主要な関係者は、以下の4人であるが、原作と本作品の間で、異なっている。


(a)

<原作>

アレクサンダー・ホールダー(ホールダー&スティーヴンスン銀行の頭取)

<本作品>

アレクサンダー・ホールドアップ(ホールドアップ&スティーヴンスン銀行の頭取)


(b)

<原作>

アーサー・ホールダー(Arthur Holder - アレクサンダー・ホールダーの一人息子)

<本作品>

アーサー・ホールドアップ(Arthur Holdup - アレクサンダー・ホールドアップの一人息子)


(c)

<原作>

メアリー・ホールダー(Mary Holder - アレクサンダー・ホールダーの兄の娘で、父親の死後、アレクサンダー・ホールダーの養女となっている)

<本作品>

メアリー・ホールドアップ(Mary Holdup - アレクサンダー・ホールドアップの兄の娘で、父親の死後、アレクサンダー・ホールドアップの養女となっている)


(d)

<原作>

サー・ジョージ・バーンウェル(Sir George Burnwell → 2025年5月14日付ブログで紹介済 - アーサー・ホールダーの友人)

<本作品>

サー・ゲイロン・シュウィンガー(Sir Gaylon Schwinger - アーサー・ホールドアップの悪友)


(5)

事件の経緯については、原作も、本作品も、ほぼ同じである。


英国の Harry King Films Limited から、Eva Books として
2021年に刊行されている
 ニコラス・サーコム
作「愚かな銀行家の公にできない苦境」の挿絵(その2)
(I
llustrations by Juliet Snape)-
画面左側から、
サー・ゲイロン・シュウィンガー、
シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスン、
そして、マイクロフト・ホームズ。


(6)

<原作>

ホームズとワトスンの2人は、アレクサンダー・ホールダーの自宅があるテムズ河(River Thames)の南岸のストリーサム地区(Streatham → 2017年12月2日付ブログで紹介済)へと赴くが、どのようなルートで向かったのかについては、具体的には言及されていない。

<本作品>

ホームズとワトスンの2人が、アレクサンダー・ホールドアップの自宅があるテムズ河の南岸のストリーサム地区へと向かったルートは、以下の通り。


*馬車:ベーカーストリート221B → ウォータールー駅(Waterloo Station → 2014年10月19日付ブログで紹介済)

*列車:ウォータールー駅 → ストリーサム駅

*徒歩:ストリーサム駅 → フェアバンク(Fairbank)


(7)

<原作>

アレクサンダー・ホールダーの自宅に到着したホームズは、2階へと上がり、アレクサンダー・ホールダーから鍵を借り受けると、衣装部屋の書き物机の中から問題の緑柱石の宝冠を取り出す。ホームズが、宝冠の金具が折り取られていた部分に力を入れて曲げようとしたが、指の力が強いホームズを持ってしても、相当手間がかかりそうだった。ホームズは、「宝冠の金具を折り取ると、拳銃を撃ったような音がする筈。そうだとすると、衣装部屋の隣りの部屋で居て、眠りが浅いあなた(アレクサンダー・ホールダー)に全然聞こえなかったと言うのは、説明がつかない。」と告げた。

<本作品>

アレクサンダー・ホールドアップ邸において、ワトスンが、緑柱石の宝冠から宝石が飾られた金具を引きちぎることができるかどうかを実践したところ、本当に一部を折り取ってしまい、それを見たホームズ、アレクサンダー・ホールドアップとメアリー・ホールドアップが呆然とする。


(8)

<原作>

アレクサンダー・ホールダー邸からベーカーストリート221B への戻ったホームズは、自分の部屋へ入り、数分後に、浮浪者の身なりでに出て来ると、何処かへ出かけて行った。後に、ホームズは、サー・ジョージ・バーンウェル邸へ向かったことが判る。

<本作品>

アレクサンダー・ホールドアップ邸からベーカーストリート221B への戻ったホームズは、ワトスンを連れて、ディオゲネスクラブ(Diogenes Club)へと向かった。


(9)

<原作>

ホームズは、単独で、サー・ジョージ・バーンウェル邸において、彼に会い、奪われた緑柱石の宝冠の一部を取り戻すべく、対決する。

<本作品>

ディオゲネスクラブに着いたホームズとワトスンは、そこでマイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)に会い、サー・ゲイロン・シュウィンガーをクラブへと呼び出して、奪われた緑柱石の宝冠の一部を取り戻すべく、対決する。


2025年5月18日日曜日

ロンドン ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery)- その2

ギルドホールアートギャラリーの建物正面外壁


ロンドン市長(Mayor of London)とは別に、もう一人のロンドン市長、つまり、自治権を有するシティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の市長(Lord Mayor of London)による行政の拠点となる市庁舎「ギルドホール(Guildhall)」に隣接して建つのが、シティー・オブ・ロンドンが所有する約4000点に及ぶ絵画や彫刻作品等を所蔵 / 展示している美術館「ギルドホールアートギャラリー(Guildhall Art Gallery)」である。


ギルドホールアートギャラリー(右側の建物)に隣接して建つ市庁舎のギルドホール -
新しいギルドホールは、更に左側に隣接して建っている。


ギルドホールの起源は、12世紀前半まで遡り、行政だけではなく、政治や宗教においても、重要な役割を果たしてきた。


フランスの画家であるポール・ドラローシュ(Paul Delaroche:1797年ー1856年)作
「レディー ジェーン・グレイの処刑(The Execution of Lady Jane Grey)」の小型版(1834年頃)-
実際の処刑は、屋外で行われているが、
絵画上、視覚効果を考慮して、室内で処刑が行われたように描かれている。
なお、同作品の大型版は、ナショナルギャラリー(National Gallery)に所蔵 / 展示されている。


「9日間の女王(Nine-Day Queen)」として知られているジェーン・グレイ(Jane Grey:1537年ー1554年)の処刑は、このギルドホールで開かれた裁判で可決されている。ジェーン・グレイは、数奇な運命によりイングランド史上初の女王として即位したが、在位僅か9日間(1553年7月10日ー同年7月19日)で、テューダー朝(House of Tudor)の第4代イングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)により廃位されて、その7ヶ月後に大逆罪により斬首刑に処せられた。なお、ジェーン・グレイを正当なイングランド君主とは見做さない歴史学者が多いが、英国王室は、彼女をテューダー朝第4代イングランド王として、公式に認めている。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
メアリー1世の肖像画の葉書
(Master John / 1544年 / Oil on panel
711 mm x 508 mm) 


その後、ギルドホールは、15世紀に大きく改築され、1666年のロンドン大火(The Great Fire of London → 2018年9月15日 / 9月22日 / 9月29日 / 10月6日付ブログで紹介済)や第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の空爆により、一部消失したが、その都度修復されて、現在に至っている。

現在、ギルドホールアートギャラリーに隣接して建つギルドホールの更に隣りに、新ギルドホールが建っており、行政業務は、新ギルドホールにおいて行われている。従って、古いギルドホールは、式典での利用の他に、イヴェントスペースとして貸し出されているのである。


ギルドホールアートギャラリーの館内(その1)


シティー・オブ・ロンドンは、17世紀より肖像画を所蔵しており、当初は、ギルドホールに展示していたが、絵画や彫刻作品等の寄贈や購入が相次ぎ、ギルドホールだけでは手狭になってきた。

最初のギルドホールアートギャラリーの建物は、1885年に建設されたものの、第二次世界大戦中のロンドン大空襲(The Blitz:1940年ー1941年)により全壊し、その際、絵画164作品と彫刻20作品も失われた。


ギルドホールアートギャラリーの館内(その2)


1985年に、シティー・オブ・ロンドンは、ギルドホールアートギャラリーの再建を決定し、英国の建築家であるリチャード・ギルバート・スコット(Richard Gilbert Scott:1923年ー2017年)に設計を依頼。

リチャード・ギルバート・スコットによる設計案は、所蔵作品の展示スペースを増やすために、以前の地上2階建てに地下階を付け加える計画だった。


ギルドホール前の広場の地下で発掘された古代ローマ時代の円形劇場跡(その1)


ギルドホール前の広場の地下で発掘された古代ローマ時代の円形劇場跡(その2)


実際に、再建工事が始まり、1988年、地下を掘り進んだところ、ギルドホール前の広場の地下に、古代ローマ時代の遺構である円形劇場跡(The Roman Amphitheatre)があることが判り、考古学上の大発見となった。2000年程前、同地には円形劇場があり、ギルドホールは、その跡の上に建築されていたのである。


ギルドホール前の広場の地面に、円形の黒線が引かれている。
この黒線の部分の地下に、古代ローマ時代の円形劇場跡が存在している。


そのため、古代ローマ時代の円形劇場跡を取り入れる形で、新ギルドホールアートギャラリーの再設計案が練られ、当初の予定よりも大幅に遅れた1999年11月2日に、再建された新ギルドホールアートギャラリーは、英国のウィンザー朝第4代女王であるエリザベス2世(HM Queen Elizabeth II:1926年–2022年 / 在位期間:1952年–2022年)の臨席の下、再オープンを迎えた。


新ギルドホールアートギャラリーの再オープンの際に、
エリザベス2世が臨席したことを示す碑が、
ギルドホールアートギャラリーの入口と出口の間にある壁に銘じられている。

エリザベス2世の在位50周年(The Golden Jubilee / The Fiftieth Anniversary)を記念して、
2002年2月6日に英国のロイヤルメール(Royal Mail)から発行された記念切手5種類の1枚


なお、地下で発掘された古代ローマ時代の円形劇場跡は、考古学調査を終えた後、2002年に公開されている。


2025年5月17日土曜日

ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)- その2

日本の出版社である岩波書店から岩波文庫として出版されている
ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の
「第二章 カーペット・バッグ」に付されている挿絵

 挿絵: ロックウェル・ケント
(Rockwell Kent:1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)


主にデヴォン州(Devon)を舞台にした田園小説、戯曲や詩作で既に名を成した英国の作家であるイーデン・ヘンリー・フィルポッツ(Eden Henry Phillpotts:1862年ー1960年 → 2022年2月6日 / 2月13日付ブログで紹介済)が1922年に発表した推理小説「赤毛のレドメイン家(The Red Redmaynes → 2022年6月12日+2025年4月20日 / 4月21日 / 4月23日付ブログで紹介済)」において、スコットランドヤードの刑事であるマーク・ブレンドン(Mark Brendon - 35歳)が心惹かれるジェニー・ペンディーン(Jenny Pendean)の2番目の叔父であるベンディゴー・レドメイン(Bendigo Redmayne - 貨物船の元船長 / 現在は、引退して、デヴォン州(Devon)に居住)は、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville:1819年ー1891年)作「白鯨(Moby-Dick of The Whale)」が愛読書と言う記述が見られる。


日本の出版社である岩波書店から岩波文庫として出版されている
ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の「第一章 まぼろし」に付されている挿絵
 挿絵: ロックウェル・ケント(1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)

ハーマン・メルヴィルは、1819年8月1日、父アラン・メルヴィル(Alan Melvill - 裕福な食料品輸入商)と母マリア・ガンズヴォート・メルヴィル(Maria Gansevoort Melvill)の次男として、ニューヨーク市(New York City)パール街6番地に出生。彼は、8人兄弟の3番目で、彼の上には、兄ガンズヴォート(Gansevoort:3歳)と姉ヘレン・マリア(Helen Maria:2歳)が居た。


1825年9月、6歳になったハーマン・メルヴィルは、ニューヨーク男子中学校(New York Male igh School)に入学したが、彼が11歳になった1830年、父の店が経営不振に陥ったため、メルヴィル一家はニューヨークの店を畳んで、母の実家があるオールバニー(Albany - ニューヨーク州の州都)へと引っ越す。そして、ハーマン・メルヴィルは、オールバニーアカデミー(Albany Academy)に転入。


日本の出版社である岩波書店から岩波文庫として出版されている
ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の「第二章 カーペット・バッグ」に付されている挿絵
 挿絵: ロックウェル・ケント(1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)

ハーマン・メルヴィルが13歳になった1832年1月28日、父アラン・メルヴィルが、多額の負債を残して、半狂乱のうちに死去。そのため、ハーマン・メルヴィルは、これ以上、勉学を続けることが難しくなり、オールバニーアカデミーを中退。そして、伯父であるピーター・ガンズヴォート(Peter Gansevoort)の口利きにより、ニューヨーク州立銀行(New York State Bank)の事務員として働き始めた。


1834年5月、兄ガンズヴォートが経営して居た毛皮工場が、火災により焼失。元手を失った兄ガンズヴォートは、毛皮販売店を始め、ハーマン・メルヴィルは、ニューヨーク州立銀行を退職して、兄の店を手伝うようになる。

1835年、ハーマン・メルヴィル(16歳)は、兄の店を手伝いながら、オールバニー古典学校(Albany Classical School)へと通う。


日本の出版社である岩波書店から岩波文庫として出版されている
ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の「第三章 潮吹き亭」に付されている挿絵
 挿絵: ロックウェル・ケント(1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)

1837年、兄ガンズヴォートの店が倒産したため、ハーマン・メルヴィル(18歳)は、16歳の時に取得した教員の資格を使い、短い間ではあったが、小学校の教員を務めた。

父アラン・メルヴィルが残した多額の負債の債権者達に迫られる程、メルヴィル一家の家計が逼迫したため、彼が19歳になった1838年、メルヴィル一家は、オールバニーに程近いランシンバーグ(Lansingburgh)へ夜逃げすることになった。そこで、ハーマン・メルヴィルは、測量土木技師を志して、ランシンバーグアカデミー(Lansingburgh Academy)において、勉学に励んだ。

しかしながら、夜逃げ先のランシンバーグでも、メルヴィル一家は生活が成り立たなくなり、その結果、ハーマン・メルヴィルは、1839年、止む無く、ニューヨーク市に居た兄ガンズヴォートの紹介により、船員となる。この時の経験が、後に「白鯨」を執筆するためのベースとなったと言える。