2025年5月20日火曜日

イーヴリン・ド・モーガン(Evelyn De Morgan)

シティー・オブ・ロンドン内にある
ギルドホールアートギャラリー において、現在開催されている
イーヴリン・ド・モーガン展のブローシャー

 アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」において、エルキュール・ポワロとエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)の間の会話内で言及されているアキテーヌのエレナー(Eleanor of Aquitaine → 2025年2月17日 / 2月23日付ブログで紹介済)の伝承に基づいて、「ロザモンドに自決を迫る王妃(Queen Eleanor and the Fair Rosamund)」(1901年ー1902年頃)を描いたのは、英国のラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の画家であるイーヴリン・ド・モーガン(Evelyn De Morgan:1855年ー1919年)である。

イーヴリン・ド・モーガンの旧姓は、メアリー・イーヴリン・ピカリング(Mary Evelyn Pickering)で、1855年8月30日、勅選弁護士 / 刑事法院臨時裁判官である父パーシヴァル・アンドリー・ピカリング(Percival Andree Pickering:1810年ー1876年)と母アンナ・マリア・ウィルへルミナ・スペンサー・スタンホープ(Anna Maria Wilhelmina Spencer Stanhope)の下、ロンドンのグローヴナーストリート6番地(6 Grosvenor Street)に出生。彼女は、ピカリング夫妻の最初の子供(長女)で、彼女の後に、弟2人と妹1人が生まれている。

メアリー・イーヴリン・ピカリングは、上位中流階級の両親により、自宅で教育を受け、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、古典文学や神話学等を学んだ。

彼女は、美術学校への進学を希望したが、当初、彼女の両親がこれを拒否、1873年に、両親の許しを漸く得て、スレイド美術学校(UCL Slade School of Fine Art)に入学。

彼女の叔父であるジョン・スペンサー・スタンホープ(John Spencer Stanhope:1787年ー1873年)も画家で、彼女に多大な影響を与えた。また、彼女は、当時、叔父が住んでいたフィレンツエ(Florence)を度々訪れ、ルネサンス期の巨匠達による作品群を観賞する機会も得た。その影響により、彼女は、スレイド美術学校が好む古典的なテーマから、彼女独自のスタイルへと移行していく。


イーヴリン・ド・モーガン展で展示されている
「ナクソス島のアリアドニ(Ariadne in Naxos)」(1877年)
Oil on canvas

メアリー・イーヴリン・ピカリングは、1883年8月に、陶芸家(ceramicist)/ デザイナー / 画家であるウィリアム・フレンド・ド・モーガン(William Frend De Morgan:1839年ー1917年)と出会い、約3年半後の1887年3月5日に、彼と結婚して、ロンドンに居を定めた。

1895年以降、第一次世界大戦が勃発する1914年までの間、ド・モーガン夫妻は、1年の半分をロンドンで、そして、残りの半年をフィレンツェで過ごした。


1917年1月15日に、夫のウィリアム・ド・モーガンが先立ち、その約2年半後の1919年5月2日、イーヴリン・ド・モーガンは、ロンドンで亡くなり、彼女の遺体は、サリー州(Surrey)ウォーキング(Woking)近郊のブロックウッド墓地(Brookwood Cemetery)に埋葬された。


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