2024年6月20日木曜日

ミック・マニング / ブリタ・グランストローム作「ダーウィンが観たもの」<グラフィックノベル版>(What Mr. Darwin Saw by Mick Manning & Brita Granstrom

英国の出版社である Frances Lincolin Limited から
2009年に出版されたグラフィックノベル版「What Mr Darwin Saw」の表紙 -
英国の測量艦ビーグル号による航海中の一コマ
(Galapagos Islands Iguanas - September 1835)


1809年2月12日、イングランド西部シュロップシャー州(Shropshire)シュルーズベリー(Shrewsbury)に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれたチャールズ・ロバート・ダーウィン(以下、チャールズ・ダーウィン / Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)は、医学エリートの家系に生まれたにもかかわらず、優等生タイプではなかったが、後に、彼の人生を劇的に変える英国海軍の測量艦ビーグル号(HMS Beagle → 2022年1月16日付ブログで紹介済)による約5年に及ぶ航海(1831年12月27日ー1836年10月2日)を経て、英国の自然科学者、地質学者、そして、生物学者として有名となる。


英国の出版社である Frances Lincolin Limited から
2009年に出版されたグラフィックノベル版「What Mr Darwin Saw」の裏表紙
 -
英国の
測量艦ビーグル号による航海中の一コマ
(Galapagos Islands Iguanas / Soldier Ants / Home to England)


子供向けではあるものの、チャールズ・ダーウィンの生涯を描いたグラフィックノベル版について、紹介したい。


本グラフィックノベル版は、ロンドンの自然史博物館(National History Museum)の協力の下、英国のフランセス・リンカーン社(Frances Lincoln Limited)から2009年に出版されている。

英国のイラストレーターであるミック・マニング(Mick Manning:1959年ー)とスウェーデンのイラストレーターであるブリタ・グランストローム(Brita Granstrom:1969年ー)によって構成されている。また、彼らは夫婦で、彼らの4人の子供達(Max / Bjorn / Frej / Charlie)に献辞されてた。


英国の出版社である Frances Lincolin Limited から
2009年に出版されたグラフィックノベル版「What Mr Darwin Saw」の内扉(その1)
 -
英国の測量艦ビーグル号による航海中の一コマ
(Andes - August 1834)

本グラフィックノベル版は、1809年2月12日に生まれたチャールズ・ダーウィンが、


*幼少期 / 少年期(1809年ー1825年)

*エディンバラ大学(University of Edinburgh)時代(1825年ー1827年)

*ケンブリッジ大学(University of Cambridge)時代(1828年-1831年)


を経て、英国海軍軍人であるロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy:1805年ー1865年)が艦長(captain)を務める英国海軍の測量艦ビーグル号に乗船し、約5年に及ぶ航海の後、「種の起源(On the Origin of Species)」(1859年)を出版するまでが、描かれている。


英国の出版社である Frances Lincolin Limited から
2009年に出版されたグラフィックノベル版「What Mr Darwin Saw」の内扉(その2)
 -
英国の測量艦ビーグル号による航海中の一コマ
(Cocos Islands Coral Lagoon - March 1836)

本グラフィックノベル版の場合、全体で45ページあるうち、30ページ分がビーグル号による航海中におけるチャールズ・ダーウィンの観察記録に費やされている。

個人的には、大人が読んでも、非常にうまくまとめられていると思う。


2024年6月19日水曜日

デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 殺しの操り人形」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Instrument of Death by David Stuart Davies)- その1

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2019年に出版された
デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 殺しの操り人形」の表紙


「殺しの操り人形(The Instrument of Death)」は、英国の作家であるデイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ(David Stuart Davies:1946年ー)が、Titan Publishing Group Ltd. から、「シャーロック・ホームズの更なる冒険(The further adventures of Sherlock Holmes)」シリーズの一つとして、2019年に発表した作品である。

作者のデイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズは、英語の教師を経て、フルタイムの編集者、作家かつ劇作家に転身している。


デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズは、ホームズシリーズとして、


(1)2004年:「欺かれた探偵(The Veiled Detective → 2021年4月21日 / 4月28日 / 5月5日付ブログで紹介済)」

(2)2009年:「死者の書(The Scroll of the Dead → 2022年5月26日 / 6月4日 / 9月23日付ブログで紹介済)」

(3)2014年:「悪魔との契約(The Devil’s Promise → 2022年3月5日 / 3月12日 / 3月19日付ブログで紹介済)」

(4)2022年:「墓場からの復讐(Revenge from the Grave → 2022年5月4日 / 5月14日 / 5月24日付ブログで紹介済)」


を発表している。


デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作「殺しの操り人形」は、ドイツの映画監督であるロベルト・ヴィーネ(Rober Wiene:1873年ー1938年)が1919年に制作して、1920年に公開したサイレント映画「カリガリ博士(Das Cabinet des Doktor Caligari)」をベースにしていると思われる。

映画「カリガリ博士」では、精神に異常を来した医者であるカリガリ博士(Dr. Caligari)と彼の忠実な下僕かつ夢遊病患者であるチェザーレ(Cesare)の2人が、ドイツ山間部の架空の村で引き起こした連続殺人が語られている。


デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作「殺しの操り人形」の場合、プラハ(Prague)から、物語が始まる。

グスタフ・カリガリ(Gustav Caligari)は、父親のエメリック・カリガリ(Emeric Caligari)と2人で暮らしていた。彼の母親は、彼が生まれてまもなく、腸チフスで亡くなっていた。

父親のエメリック・カリガリは、大学で外科手術を教えており、非常に多忙のため、グスタフ・カリガリに割ける時間はほとんどなかった。実際のところ、妻が亡くなった後、子供には全く興味がなく、子供の面倒は、全て乳母任せであった。


グスタフ・カリガリは、幼少期より身体が非常に大きく、同世代の子供達を虐めたり、意のままに操っていた。

また、陰気でサディスティックな性格で、5歳になる前から、小動物(猫等)や虫(蜘蛛等)を殺して、楽しんでいた。

5歳になり、学校へ通い始めると、ひ弱で頭が良くない同級生達を陰で密かに虐め始めた(目を突いたり、大きな石を足の上に落としたりした)。

虐めが学校にばれて、グスタフ・カリガリは、放校される。父親のエメリック・カリガリは、息子のグスタフが人間の皮を被った「怪物」であることが判った。


フランクフルトのゲーテハウス / ゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Musem
→ 2017年11月18日 / 11月25日付ブログで紹介済)で購入した
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの絵葉書
「Goethe in Der Campagna」(1848) by Karl Bennert (1815 - 1885)


放校後、グスタフ・カリガリの家庭教師として、数名が雇われたが、皆2ー3ヶ月で辞めてしまった。その中で、唯一残った家庭教師が、ハンス・ブルーナー(Hans Bruner)だった。

ハンス・ブルーナーが部屋に入って来た途端、グスタフ・カリガリは、「彼となら、うまくやっていける。」と感じた。ハンス・ブルーナーは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)による詩「魔法使いの弟子(The Sorcerer’s Apprentice / ドイツ語:Der Zauberlehrling)」(1797年)に出てくる年老いた魔術師のようだった。


2024年6月18日火曜日

薔薇戦争(Wars of the Roses)- その1

英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
同戦争の契機となった「第1次セントオールバンズの戦い」(1455年5月22日)が
描かれている。

英国の推理作家であるジョセフィン・テイ(Josephine Tey:1896年ー1952年)が1951年に発表した「時の娘(The Daughter of Time → 2024年6月3日 / 6月6日 / 6月10日付ブログで紹介済)」に登場する英国の歴史上、「稀代の悪王」として悪名高いリチャード3世(Richard III:1452年ー1485年 在位期間:1483年ー1485年 / ヨーク朝(House of York)の第3代かつ最後のイングランド王 → 2024年6月14日付ブログで紹介済)は、1485年8月22日、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、ランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー(Henry Tudor, Earl of Richmond:1457年ー1509年)軍と相まみえ、味方の裏切りもあって、孤軍奮戦するが、戦死。その結果、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王ヘンリー7世(Henry VII:在位期間:1485年ー1509年)として即位し、ヨーク家のエリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York:1466年ー1503年)を王妃として迎える。

ボズワースの戦いは、薔薇戦争(Wars of the Roses)の中に含まれており、英国のロイヤルメール(Royal Mail)から、2021年に8種類の記念切手が発行されているので、4回に分けて、紹介したい。


薔薇戦争は、百年戦争(Hundred Years’ War:1337年ー1453年)の終結後に発生したイングランド諸侯の内乱で、百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが、最終的に、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の権力闘争へと発展したのである。

薔薇戦争は、1455年5月22日の「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans)」から1485年8月22日の「ボズワースの戦い」までの30年間とする説の他に、1487年6月16日の「ストークフィールドの戦い(Battle of Stoke Field)」までの32年間とする見方もある。

ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、現在、「薔薇戦争」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。


百年戦争中に、プランタジネット朝が倒され、エドワード3世の孫に該るヘンリー4世(Henry IV:1367年ー1413年 在位期間:1399年ー1413年)が、ランカスター朝の初代イングランド王として即位。

ランカスター朝の第2代イングランド王であるヘンリー5世(Henry V:1387年ー1422年 在位期間:1413年ー1422年)が、百年戦争において、勝利を重ねていたが、1422年に死去したため、生後9ヶ月のヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)が、ランカスター朝の第3代イングランド王として即位する。

ヘンリー6世が幼少だったこともあり、1430年代以降、大陸での戦況が次第に不利になると、フランスから嫁いだ王妃を初めとする国王側近の和平派(ランカスター派)と第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年ー1460年)を中心とする主戦派(ヨーク派)が、権力闘争を繰り広げるようになった。

百年戦争において、最終的に、イングランドは、フランスに敗北した上に、ヘンリー6世は、精神錯乱を起こしたため、ランカスター派とヨーク派の間の権力闘争を収拾することができなかった。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ランカスター家とヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。

ランカスター派とヨーク派は、更に対立を深め、百年戦争末期に軍司令官として、また、ヘンリー6世の精神錯乱期に護国卿(Lord Protector)として、ランカスター朝に仕えた第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットは、ヘンリー6世に対して、遂に反旗を翻した。

1455年5月、大評議会開催のために、ロンドンからレスター(Leicester)へと向かっていたヘンリー6世の軍勢と、ロンドンへと南下していた第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットの軍勢は、対峙することになり、同年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、両軍勢は衝突して、「薔薇戦争」の火蓋が切って、落とされた。これが、「第1次セントオールバンズの戦い」である。


「第1次セントオールバンズの戦い」は、比較的小規模な会戦で、ランカスター派であるヘンリー6世軍の敗北 / ヨーク派である第3代ヨーク公リチャード・プランタジネットの勝利に終わった。

「第1次セントオールバンズの戦い」が契機となり、以後30年間にわたって、ランカスター家とヨーク家の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられるのである。


2024年6月17日月曜日

「白昼の悪魔」に登場する各容疑者達の住所について

2024年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「白昼の悪魔」の
愛蔵版(ハードカバー版)の内扉
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. 


英国の HarperCollinsPublishers 社から、2024年に刊行されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「白昼の悪魔(Evil Under the Sun)」(1941年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2024年6月8日 / 6月12日付ブログで紹介済)では、デヴォン州(Devon)の密輸者島(Smugglers’ Island)にあるジョリーロジャーホテル(Jolly Roger Hotel)に滞在する探偵、被害者および各容疑者達の住所について、以下のように記載されている。

なお、「白昼の悪魔」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第29作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第20作目に該っている。


(1)オーデル・C・ガードナー(Odell C. Gardener - 米国人)/ キャリー・ガードナー(Carrie Gardener - オーデルの妻)

住所: New York


(2)パトリック・レッドファン(Patrick Redfern - アリーナ・マーシャルと不倫関係にある)/ クリスティーン・レッドファン(Christine Redfern - パトリックの妻で、元教師。夫の不倫のため、アリーナ・マーシャルを恨んでいる)

住所:Crossgates, Seldon, Princes Risborough


(3)バリー少佐(Major Barry - 退役将校)

住所:18 Cardon St., St James, London, SW1


(4)ホーレス・ブラット(Horace Blatt - ヨットが趣味)

住所:5 Pickersgill Street, London, EC2


(5)エルキュール・ポワロ 

住所:Whitehaven Mansions, London, W1 


チャーターハウス スクエア6-9番地 フローリンコート
(Florin Court, 6-9 Charterhouse Square → 2014年6月29日付ブログで紹介済)-
英国のTV会社 ITV1 が製作した TV ドラマ「Agatha Christie's Poirot」において、
この広場に面した日本で言うところのマンション(英国で言うところのフラット)が、
名探偵エルキュール・ポワロが住むホワイトヘイヴンマンションズ(Whitehaven Mansions)として、
その外観が撮影に使われている。
 
「チャーターハウス スクエア6-9番地 フローリンコート」は、
地下鉄バービカン駅(Barbican Tube Station)の近くにある
チャーターハウス スクエア(Charterhouse Square)という広場に面している。


(6)ロザモンド・ダーンリー(Rosamund Darnley - ドレスメーカー / 以前、ケネス・マーシャルと交際していた)

住所:8 Cardigan Court, W1


(7)エミリー・ブルースター(Emily Brewster - スポーツが趣味。以前、投資話でアリーナ・マーシャルに損害を負わされたため、彼女を恨んでいる)

住所:Southgates, Sunbury-on-Thames


(8)スティーヴン・レーン(Reverend Stephen Lane - 元牧師)

住所:London


(9)ケネス・マーシャル(Captain Kenneth Marshall - 実業家 / 以前、ロザモンド・ダーンリーと交際していたが、アリーナ・ステュアートと結婚)/ アリーナ・ステュアート・マーシャル(Arlena Stuart Marshall - 美貌の元女優)/ リンダ・マーシャル(Linda Marshall - ケネス・マーシャルの娘 / 継母のアリーナを疎ましく感じている)

住所:73 Upcott Mansions, London, SW7


上記のうち、ロンドンが住所になっているのは、(3)、(4)、(5)、(6)、(8)および(9)であるが、地図で調べてみると、現在の住所表記上、どの住所も存在していないので、全て架空の住所だと思われる。

探偵であるポワロについては、実在の通りを使用しても、問題ないのではないかと考えられるが、各容疑者達(犯人を含む)に関して、住所として、実在の通りを使用すると、差し障りがあるので、アガサ・クリスティーは、架空のものを使用したのであろう。


2024年6月16日日曜日

ガウアーストリート115番地(115 Gower Street)

ガウアーストリート115番地の建物
(現在、ユニヴァーシティー・オブ・ロンドンの生物学の建物となっている)の外壁には、
チャールズ・ダーウィンが、1838年から1842年の間、
この建物に住んでいたことを示すブループラークが架けられている。


英国の自然科学者、地質学者、そして、生物学者として、後に有名になるチャールズ・ロバート・ダーウィン(以下、チャールズ・ダーウィン / Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)は、英国海軍の測量艦ビーグル号(HMS Beagle → 2022年1月16日付ブログで紹介済)による約5年に及ぶ航海(1831年12月27日ー1836年10月2日)を終えて、英国に戻って来ると、彼の恩師で、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)の植物学教授であるジョン・スティーヴンス・ヘンズロー(John Stevens Henslow:1796年ー1861年)との再会を果たす。

その後、ロンドンへと向かったチャールズ・ダーウィンは、ビーグル号の報告書の執筆と編集を進めていたが、この頃、原因不明の体調不良(頭痛、胃炎や心臓の不調等)に悩まされ始めた。ビーグル号の航海中に南米で罹患した熱病の後遺症と言う説、標本として採集したオオサシガメを媒介にしたシャーガス病と呼ばれる感染症に罹ったと言う説、また、執筆や編集のストレスや雄大な大自然に触れた5年に及ぶ航海と人口増加や貧困が進むロンドンのギャップの神経性疾患と言う説等が、チャールズ・ダーウィンの体調不良の要因として考えられるものの、彼を生涯悩ませた体調不良の原因について、彼の存命中には、明らかにならなかった。


ユニヴァーシティー・オブ・ロンドンの生物学の建物の入口
(現在、入口は使用させておらず、別の入口が使用されている)には、
チャールズ・ダーウィンの肖像写真が2枚架けられている。


原因不明の体調不良に苦しみながら、独身生活を続けるチャールズ・ダーウィンは、故郷で幼馴染みの従姉妹であるエマ・ウェッジウッド(Emma Wedgwood:1808年ー1896年)に再会し、彼女との結婚を意識し始めた。

彼の姉であるキャロライン・サラ・ダーウィン(Caroline Sarah Darwin:1800年ー1888年)とエマの兄であるジョサイア・ウェッジウッド3世(Josiah Wedgwood III:1795年ー1880年)が1838年に結婚すると、チャールズ・ダーウィンは、結婚のメリットとデメリットをリストにして検討した後、同年11月にプロポーズを行い、翌年の1839年1月29日に、エマ・ウェッジウッドと結婚した。


ユニヴァーシティー・オブ・ロンドンの生物学の建物の入口
(現在、入口は使用させておらず、別の入口が使用されている)の右側には、
チャールズ・ダーウィンの胸像が置かれている。


エマへのプロポーズ後、新居探しを始めたチャールズ・ダーウィンは、ガウアーストリート115番地(115 Gower Street)に家を見つけ、1838年のクリスマスの頃、引越しを行った。

ガウアーストリート115番地は、現在、前後の番地を含めて、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)の生物学(Biological Sciences)の建物となっている。


ユニヴァーシティー・オブ・ロンドンの生物学の建物の入口
(現在、入口は使用させておらず、別の入口が使用されている)の右側には、
地球上における生命の進化の歴史図が置かれている。

1839年5月には、ビーグル号航海の記録が、艦長(captain)を務めたロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy:1805年ー1865年)の著作と合わせた3巻ほんの1冊として出版され、好評を博す。これは、1843年までにわたり、全5巻の「ビーグル号航海の動物学(Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle)」として独立して刊行された。更に、1842年から、全3巻の「ビーグル号航海の地質学(Geology of the Voyage of H.M.S. Beagle)」が出版された。


筆者がダウンハウスで購入した冊子(パンフレット)の表紙
(ダウンハウスを管理する English Heritage が販売)

1839年1月に結婚して、同年12月に長男のウィリアム・エラズマス(William Erasmus:1839年ー1914年)、そして、1841年3月に長女のアン・エリザベス(Anne Elizabeth:1841年ー1851年)の2人の子供を設けていたチャールズ・ダーウィンと妻のエマは、今後の子育てを考慮、騒音に満ちて、空気が悪いロンドン市内よりも、ロンドン郊外での生活を望んだ。資金の援助について、父親のロバート・ダーウィン(Robert Darwin:1766年ー1848年)からの了解を得たチャールズとエマの2人は家探しを始め、1842年7月後半、ダウンハウス(Down House → 2017年9月3日付ブログで紹介済)を訪れた。

ダウンハウスを訪れた最初の日は、天候が悪い上に、寒かったため、印象はあまり良くなかったものの、天候が回復した翌日、3階建ての家から見えるダウン村の景色に満足した2人は、家の状態があまり良くなかったが、長い間、家探しを続けて疲れ果てていたため、この家へ引っ越すことに決めた。実際、この頃、妻のエマは第三子を妊娠しており、これ以上家探しを続けるには、無理があったのである。

チャールズ・ダーウィンは、当初1年間賃借して住み、状況を確かめた上で、家を購入しようとしたが、持ち主であるジェームズ・ドルモンド牧師(Reverend James Drummond)は賃貸をよしとせず、売却を望んだ。牧師の要望を聞き入れて、家の購入を決めたダーウィン一家は同年9月中旬(エマと子供達:9月14日+チャールズ:9月17日)にダウンハウスへ引っ越したのである。


筆者がダウンハウスで購入したプログラム(パンフレット)の裏表紙
(ダウンハウスを管理する English Heritage が販売)


ダウンハウスへ引っ越した直後の同年9月23日、エマは次女メアリー・エレノア(Mary Eleanor)を出産したが、残念ながら、同年10月16日、彼女は亡くなってしまう。

次女メアリー・エレノアの早世の悲しみを乗り越えたチャールズ・ダーウィンは、翌年の1843年3月末から、ダウンハウスの大掛かりな改装工事に着手する。

ダーウィン一家がこの家に暮らし始めた以降、1843年から1856年にかけて、ダーウィン夫妻は、更に7人の子宝に恵まれる。 


2024年6月15日土曜日

バッキンガムシャー州(Buckinghamshire)ブレッチリーパーク(Bletchley Park)

英国のロイヤルメール(Royal Mail)から
2012年4月10日に発行された記念切手「UK A - Z Part 2」のうち、
ブレッチリーパークの切手を抜粋。


スコットランドのダンディー(Dundee)出身の学者 / 作家であるロバート・J・ハリス(Robert. J. Harris:1955年ー)は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)時に時代設定を置いたシャーロック・ホームズシリーズを刊行しており、第1作目に該る「深紅色の研究(A Study in Crimson → 2024年5月6日 / 5月12日 / 5月16日付ブログで紹介済)」(2020年)に続く第2作目である「悪魔の業火(The Devil’s Blaze → 2024年5月27日 / 5月31日 / 6月4日付ブログで紹介済)」(2022年)の場合、1943年の英国において、政府の要人達が不審な状況下で焼死する事件が連続して発生する。


英国の国家公安委員会(Intelligence Inner Council)メンバーの一人であるサー・アンソニー・ロイド(Sir Anthony Lloyd)からの指示を受けて、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンは、ロンドン北西部のバッキンガムシャー州(Buckinghamshire)内に所在する「ハンターズウッド(Hunterswood)」と呼ばれる施設へと連れて行かれる。そこで、2人は、チェスのチャンピオン、言語学者やクロスワードパズルの専門家等を見かけた。

ホームズとワトスンの2人は、「ハンターズウッド」を統括しているジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)を紹介される。モリアーティー教授によると、「ハンターズウッド」では、ドイツ軍の暗号を解析するための機器を開発している、とのことだった。モリアーティー教授は、ホームズに対して、「ドイツ軍とヒトラーを倒す目的は、君(ホームズ)と一緒だ!」と告げるが、ホームズは、ワトスンに対して、「今起きている事件の背後には、モリアーティー教授が居る。」と囁くのであった。


ロバート・J・ハリス作「悪魔の業火」内に出てくる「ハンターズウッド」は、架空の施設であり、実在の施設である「ブレッチリーパーク(Bletcheley Park)」をモデルにしていると思われる。


ブレッチリーパークは、英国バッキンガムシャー州(Buckinghamshire)ミルトンキーンズ(Milton Keynes)内に所在する庭園と邸宅を指す。

なお、ミルトンキーンズは、ロンドンの北西約80㎞のところにあり、オックスフォード(Oxford)とケンブリッジ(Cambridge)のほぼ中間の丘陵地に所在する都市である。


英国のロイヤルメール(Royal Mail)から
2012年4月10日に発行された記念切手「UK A - Z Part 2」のうち、
ブレッチリーパークにかかる説明を
プレゼンテーションパック(presentation pack)から抜粋。

第二次世界大戦中、ブレッチリーパークには、英国の暗号解読センターの政府暗号学校が設置されたが、秘密裡の施設だった関係上、「ステーションX(Station X)」の暗号名で呼ばれた。

政府暗号学校では、英国の数学者、論理学者、暗号解読者兼コンピューター科学者であるアラン・マシソン・テューリング(Alan Mathison Turing:1912年ー1954年)が勤務して、ドイツ軍が使用したエニグマ暗号機(Enigma)による通信の解読に成功する等の成果を上げたことで有名である。


現在、ブレッチリーパーク内には、第二次世界大戦の暗号解読等をテーマにした国立コンピューティング博物館(The National Museum of Computing (TNMOC))が開設されている。

同博物館は、歴史的なコンピューターの収集と復元に特化した施設で、2007年に開設された。


2024年6月14日金曜日

リチャード3世(Richard III)

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
リチャード3世の肖像画の葉書
(Unknown artist / Late 16th century / Oil on panel
638 mm x 470 mm) 

 

英国の推理作家であるジョセフィン・テイ(Josephine Tey:1896年ー1952年)が1951年に発表した「時の娘(The Daughter of Time → 2024年6月3日 / 6月6日 / 6月10日付ブログで紹介済)」の場合、スコットランドヤードのアラン・グラント警部(Inspector Alan Grant)が、容疑者を追跡している際、誤って落とし穴に落ちて、足を骨折して入院中しているところから、物語が始まる。

ベッドから動くことができず、暇を持て余していたアラン・グラント警部に対して、見舞いに訪れた友人で、舞台女優であるマータ・ハラード(Marta Hallard)が、「歴史上の謎を探究すれば、入院中の退屈も紛れるのではないか?」と提案した。何故ならば、アラン・グラント警部は、人間の顔から、その性格を見抜くことに、非常に長けていたからである。

その後、マータ・ハラードは、アラン・グラント警部の元へ、歴史上の人物の肖像画を数枚持参した。その中の1枚に、アラン・グラント警部は、目を止める。それは、英国の歴史上、「稀代の悪王」として悪名高いリチャード3世(Richard III:1452年ー1485年 在位期間:1483年ー1485年)の肖像画だった。

リチャード3世の肖像画を見たアラン・グラント警部としては、世間一般に言われているように、リチャード3世が「塔の王子達(Princes in the Tower)」を殺害した極悪人であるとは、どうしても思えなかった…


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


リチャード3世は、ヨーク朝(House of York)の第3代かつ最後のイングランド王である。


リチャード3世は、第3代ヨーク公爵リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年-1460年)とセシリー・ネヴィル(Cecily Neville:1415年ー1495年)の八男で、兄には、


(1)長男 - ヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)

(2)次男 - ラトランド伯爵エドムンド・プランタジネット(Edmund Plantagenet, Earl of Rutland:1443年ー1460年)

(3)六男 - 初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネット(George Plantagenet, 1st Duke of Clarence;1449年ー1478年)


が居る。


幼少の頃に父親を失ったリチャードは、兄エドワードや母方の従兄に該る実力者であるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル(Richard Neville, Earl of Warwick:1428年-1471年)の庇護を受けた。

1461年に兄がエドワード4世として、ヨーク朝の初代イングランド王に即位すると、リチャードは、グロスター公爵(Duke of Gloucester  在位期間:1461年-1483年)に叙せられた。


政権内の勢力闘争の結果、ランカスター派に寝返ったウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルによって、兄エドワード4世が1470年に王位から追放される。グロスター公爵リチャードは、幼少期に庇護を受けた恩があるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルから誘いを受けたもの、一貫して兄に忠誠を誓い、翌年の1471年、兄の王位復位に貢献する。


その一方で、グロスター公爵リチャードは、1472年に、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの娘であるアン・ネヴィル(Anne Neville:1456年ー1485年)と結婚。

アン・ネヴィルの姉イザベル・ネヴィル(Isabel Neville:1451年ー1476年)と既に結婚していた兄の初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットとの間で、グロスター公爵リチャードは、広大なウォーリック伯爵領の相続をめぐり、対立を深めていく。

兄の初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットは、妻イザベルの死去(1476年)に伴い、ウォーリック伯爵領の相続争いに敗れた上に、エドワード4世への反逆疑惑を理由に、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)へと送られて、1478年に処刑された。その結果、グロスター公爵リチャードは、ウォーリック伯爵領を独占相続した。

兄のラトランド伯爵エドムンド・プランタジネットも1460年に死去していたこともあり、グロスター公爵リチャードは、兄エドワード4世に次ぐ実力者としての地位を確立したのである。


それも束の間で、兄エドワード4世の王妃であるエリザベス・ウッドヴィル(Elizabeth Woodville:1437年頃ー1492年)の一族が政権内で勢力を伸ばし始めたため、グロスター公爵リチャードは、これと敵対するようになる。


1483年4月9日、フランス討伐の準備中だったエドワード4世が死去したことに伴い、同年4月10日、彼の長男であるエドワード5世(Edward V:1470年ー1483年 在位期間:1483年4月10日ー同年6月25日 → 2023年10月4日付ブログで紹介済)が、父王の跡を継ぎ、12歳で王位を継承して、ヨーク朝の第2代イングランド王となった。エドワード5世が若かったため、彼の叔父であるグロスター公爵リチャードが、摂政(Protector)に就任。


エドワード5世がイングランドのシュロップシャー州(Shropshire)内にある居城ラドロー城(Ludlow Castle)からロンドンへと向かう中、グロスター公爵リチャードは、第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィル(Anthony Woodville, 2nd Earl of Rivers:1440年ー1483年)を初めとする王妃エリザベス・ウッドヴィル一派を逮捕して、エドワード5世に組する忠臣を排除。

更に、グロスター公爵リチャードは、エドワード5世と彼の弟である初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリー(Richard of Shrewsbury, 1st Duke of York and 1st Duke of Norfolk:1473年ー1483年 → 2023年10月4日付ブログで紹介済)をロンドン塔に幽閉した。彼ら2人は、「塔の王子達」と呼ばれるようになる。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)用ホームの壁に描かれている
リチャード3世(一番右側の人物)の肖像画


2ヶ月後の同年6月25日、グロスター公爵リチャードは、イングランド議会に、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの婚姻は無効のため、エドワード5世と弟の初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人は、エドワード4世の「嫡子」ではなく、「庶子」であると認定の上、エドワード5世の王位継承を無効と議決させた。グロスター公爵リチャードが逮捕した第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィルは、その際に処刑されている。

その結果、同年6月26日、グロスター公爵リチャードは、イングランド議会によって推挙され、リチャード3世として、ヨーク朝の第3代イングランド王に即位したのである。


リチャード3世即位に貢献した第2代バッキンガム公爵ヘンリー・スタッフォード(Henry Stafford, 2nd Duke of Buckingham:1454年ー1483年)が、1483年10月に反乱を起こす。リチャード3世は、これを鎮圧したが、他にも反乱の火種がくすぶり続け、政情は不安定な状態のままに進んだ。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ランカスター家とヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


1484年4月、リチャード3世の一人息子で、王太子(Prince of Wales)のエドワード・オブ・ミドルハム(Edward of Middleham:1473年ー1484年)が夭逝した上に、1485年3月には、王妃アン・ネヴィルも病死すると言う不幸が続く。


1485年8月、ランカスター家の分家筋に該るリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー(Henry Tudor, Earl of Richmond:1457年ー1509年)が、王位請求者として、フランスから侵入。

ヨーク派の国王リチャード3世軍とランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー軍は、同年8月22日、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、相まみえた。リチャード3世は、味方の裏切りもあって、孤軍奮戦するが、戦死した。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の
ベーカールーライン(Bakerloo Line)用ホームの壁に描かれている
ヘンリー7世(中央の人物)の肖像画

ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
ヘンリー7世の肖像画の葉書
(Unknown Netherlandish artist / 1505年 / Oil on panel
425 mm x 305 mm) 


その結果、1485年8月22日、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王ヘンリー7世(Henry VII - 在位期間:1485年ー1509年)として即位し、エリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York:1466年ー1503年)を王妃として迎える。

なお、エリザベス・オブ・ヨークは、ヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世の王女、ヨーク朝の第2代イングランド王であるエドワード5世の姉で、ヨーク朝の第3代かつ最後のイングランド王であるリチャード3世の姪である。


2024年6月13日木曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / チャールズ・ダーウィン(800th Anniversary of the University of Cambridge / Charles Darwin)- その2

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
チャールズ・ダーウィンの肖像画の葉書
(John Collier
 / 1883年 / Oil on panel
1257 mm x 965 mm)


1809年2月12日、イングランド西部シュロップシャー州(Shropshire)シュルーズベリー(Shrewsbury)に、医学エリートの家系の下、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれたチャールズ・ロバート・ダーウィン(以下、チャールズ・ダーウィン / Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)は、非常に恵まれた一家の御曹司にもかかわらず、優等生タイプではなく、幼少期より、暇を見つけては、昆虫採集 /標本作りや狩猟等に没頭しており、学業はそっちのけであった。


長男のエラズマス・アルヴェイ・ダーウィン(Erasmus Alvey Darwin:1804年ー1881年)と次男のチャールズに実家の医業をつがせようと考えていた父親のロバート・ダーウィン(Robert Darwin:1766年ー1848年)は、15歳になっても、昆虫採集や狩猟等にうつつをぬかし、学業が完全に疎かになっているチャールズ・ダーウィンの態度に業を煮やして、彼を地元の寄宿学校から引き離して、医学を勉強させるために、1825年10月、兄のエラズマスが当時学んでいたエディンバラ大学(University of Edinburgh)に入学させたのである。


父の言い付けに従い、エディンバラ大学に入学した16歳のチャールズ・ダーウィンは、医学と地質学を学ぶが、


(1)彼自身、血を見ることが非常に苦手な上に、麻酔処置がまだ導入されていなかった外科手術に耐えることができなかったこと


(2)幼少期から昆虫採集 / 標本作り等の実体験を伴う博物学に興味を抱いているため、アカデミックな内容の講義には退屈してしまい、馴染めなかったこと


等が要因となり、1827年4月に、1年半で大学を中退することになり、父親のロバートをひどく落胆させた。


エディンバラ大学における医学の勉強は、チャールズ・ダーウィンにとって、身になることはなかったが、ジョン・エドモンストーン(John Edmonstone)から剥製術(taxidermy)を学んだことが、後に彼の人生を劇的に変えるビーグル号(HMS Beagle → 2022年1月16日付ブログで紹介済)による約5年に及ぶ航海(1831年12月27日ー1836年10月2日)において、大いに役立つのである。

なお、ジョン・エドモンストーンは、南米生まれの元黒人奴隷で、プランテーション(大規模農園)で働いていた際、農場主の義理の息子の南米の探検旅行に同行し、彼から剥製術を習得した。その後、奴隷から解放されると、ジョン・エドモンストーンは、農場主と一緒に、スコットランドへ移住し、エディンバラ大学において、剥製術を教えると言う数奇な経緯を辿っている。


また、エディンバラ大学在籍中に、チャールズ・ダーウィンは、父方の祖父で、高名な医師 / 詩人 / 自然哲学者 / 発明家でもあったエラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin:1731年ー1802年)が唱えた進化論的な説が記された著作を読んでおり、後に「種の起源(On the Origin of Species)」(1859年)を出版する礎となる。


自然史博物館(Natural History Museum)内の中央大階段の途中に設置されている
チャールズ・ダーウィン像


エディンバラ大学を中退して、実家に戻って来たチャールズ・ダーウィンに対して、彼を医者にすることを諦めた父のロバートは、彼を牧師になるように言い渡すと、1828年1月、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)クライストカレッジ(Christ College)に再入学させた。

実は、チャールズ・ダーウィン本人としては、牧師であれば、余暇を大好きな博物学の研究に費やすことができると考えて、父の提案を喜んで、受け入れたのである。

ケンブリッジ大学クライストカレッジに再入学したチャールズ・ダーウィンは、当初、神学、古典や数学等を学んだが、同カレッジに在籍していた再従兄弟のウィリアム・ダーウィン・フォックス(Willaim Darwin Fox:1805年ー1880年 → 後に、牧師になっている)と一緒に、またもや、博物学や昆虫採集等に傾倒していく。


その後、チャールズ・ダーウィンは、再従兄弟のウィリアムの紹介で、英国の植物学者 / 地質学者 / 聖職者で、ケンブリッジ大学の植物学教授(一時期は、鉱物学教授を兼任)を務めていたジョン・スティーヴンス・ヘンズロー(John Stevens Henslow:1796年ー1861年)と出会う。自然科学の知識全般に精通していたヘンズロー教授に心酔したチャールズ・ダーウィンは、彼の弟子となり、標本集めの助手を務めた。そして、そのあまりの熱心さから、チャールズ・ダーウィンは、「ヘンズローと歩く男」と揶揄される程だった。


エディンバラ大学 / 医学では挫折を味わったチャールズ・ダーウィンであったが、中の上の成績をおさめて、1831年4月にケンブリッジ大学神学部を無事卒業する。


ケンブリッジ大学卒業後、北ウェールズの地質調査に同行していたチャールズ・ダーウィンが実家に戻って来ると、恩師であるヘンズロー教授から手紙が届く。

その手紙によると、英国海軍の測量艦ビーグル号の艦長(captain)であるロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy:1805年ー1865年)が博物学者を探しており、ヘンズロー教授としては、チャールズ・ダーウィンを推薦したい、とのことだった。


英国海軍の500周年を記念して、
2019年に英国のロイヤルメールが発行した8種類の記念切手のうち、
英国の自然学者 / 生物学者であるチャールズ・ロバート・ダーウィンが乗艦したことで
有名な
「HMS ビーグル」。


当初、父のロバートは、「牧師となって、早く身を固めるべき。」と猛反対したが、叔父のジョサイア・ウェッジウッド2世(Josiah Wedgwood II:1769年ー1843年)を味方に付けて、父ロバートの説得に成功した22歳の若きチャールズ・ダーウィンは、未知の世界への切符を手に入れ、ビーグル号に乗船して、1831年12月27日、プリマス(Plymouth → 2023年9月8日付ブログで紹介済)を出港した。

ビーグル号の航海は、当初、3年の予定だったが、前述の通り、約5年に及ぶ航海となったが、これが、後に彼の人生を劇的に変える出来事となったのである。

なお、チャールズ・ダーウィンの叔父のジョサイア・ウェッジウッド2世は、彼の母親であるスザンナ・ダーウィン(Susannah Darwin:1765年ー1817年)の弟で、後に彼の妻となるエマ・ウェッジウッド(Emma Wedgwood:1808年ー1896年)の父親でもある。


2024年6月12日水曜日

アガサ・クリスティー作「白昼の悪魔」<小説版(愛蔵版)>(Evil Under the Sun by Agatha Christie )- その2

2024年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「白昼の悪魔」の
愛蔵版(ハードカバー版)に付されている
ジョリーロジャーホテルが建つ密輸者島の略図 -
8月25日の昼前に、アリーナ・マーシャルの絞殺死体が、
Pixy Cove の砂浜において、発見された。
8月25日の午前中における各容疑者のアリバイは、以下の通り。
ケネス・マーシャルは、ホテルの自分の部屋で、急ぎの手紙をタイプしていた。
Bathing Beach には、エルキュール・ポワロと一緒に、パトリック・レッドファン、
ガードナー夫妻とエミリー・ブルースターが居た。
Sunny Ledge では、
ロザモンド・ダーンリーが読書していた。
Gull Cove では、
リンダ・マーシャルは海水浴を、
クリスティーン・レッドファンは写生(スケッチ)をしていた。
バリー少佐は、St. Loo へ観光に、
また、スティーヴン・レーン牧師は、St. Petrock-in-the-Combe へウォーキングに、
そして、ホーレス・ブラットは、ヨットで出かけていた。


デヴォン州の密輸者島(Smugglers’ Island)にあるジョリーロジャーホテル(Jolly Roger Hotel)に滞在して、静かな休暇を楽しんでいた名探偵エルキュール・ポワロであったが、同ホテルには、美貌の元女優で、実業家ケネス・マーシャル(Captain Kenneth Marshall)の後妻となったアリーナ・ステュアート・マーシャル(Arlena Stuart Marshall)も宿泊しており、周囲の異性に対して、魅力を振り撒きながら、避暑地を満喫しており、ホテルの宿泊客の数名が、アリーナ・マーシャルの存在を疎ましく感じていた。ホテル内に、不穏な空気が次第に立ち込める中、ポワロは、「白昼にも、悪魔は居る。(There is evil everywhere under the sun.)」と呟かざるを得なかった。


8月25日の朝、自分の部屋で朝食を済ませたポワロは、通常よりも30分程早い午前10時に、ホテルを出ると、Bathing Beach へと下りて行った。砂浜には、ポワロを除くと、アリーナ・マーシャルしか居なかった。

ポワロに手伝ってもらい、ボートに乗ったアリーナ・マーシャルは、ポワロに対して、「自分の居場所は、誰にも言わないで。一人になりたいの。」と秘密めかして言うと、岬を右へ曲がり、Sunny Ledge 方面へと向かった。「アリーナ・マーシャルには、内密の待ち合わせがあるようだ。多分、相手は、パトリック・レッドファン(Patrick Redfern)だ。」と、ポワロは理解した。

アリーナ・マーシャルが岬の先に姿を消した時、夫のケネス・マーシャルが砂浜に現れ、ポワロに妻の居場所を尋ねるが、ポワロは、アリーナ・マーシャルに頼まれた通り、知らない振りを通す。ケネス・マーシャルは、午前中、急いで送る必要がある手紙をいくつかタイプする仕事を抱えていた。

更に、アリーナ・マーシャルの不倫相手であるパトリック・レッドファンが砂浜に下りて来る。彼の様子から、アリーナ・マーシャルを探していることは、明白だった。彼女の居場所が判らないパトリック・レッドファンは、非常にイライラしていた。それでは、内密の待ち合わせへと向かったアリーナ・マーシャルの相手は、アリーナ・マーシャルではないのか?

続いて、米国人のオーデル(Odell)とキャリー(Carrie)の ガードナー(Gardener)夫妻、そして、エミリー・ブルースター(Emily Brewster)が、砂浜に姿を見せた。


ケネス・マーシャルの娘であるリンダ・マーシャル(Linda Marshall)とパトリック・レッドファンの妻であるクリスティーン・レッドファン(Christine Redfern)の2人は連れ立って、午前10時半にホテルを出発すると、Gull Cove へと向かった。午前中、日当たりが良い Gull Cove において、リンダ・マーシャルは海水浴を、クリスティーン・レッドファンは写生(スケッチ)をする予定だった。


ロザモンド・ダーンリー(Rosamund Darnley)は、読書する本を携えて、Sunny Ledge へと出発した。


バリー少佐(Major Barry)は、セントルー(St. Loo)へ観光に、また、スティーヴン・レーン牧師(Reverend Stephen Lane)は、St. Petrock-in-the-Combe へウォーキングに、そして、ホーレス・ブラット(Horace Blatt)は、ヨットで出かけていた。


上記の通り、午前中、アリーナ・マーシャルを除くホテルの宿泊客達は、各々、自由な時間を過ごしていたのである。


昼前、エミリー・ブルースターを伴い、アリーナ・マーシャルを探しに、手漕ぎボートで出かけたパトリック・レッドファンは、Pixy Cove の浜辺に、水着の女性が倒れているのを発見する。パトリック・レッドファンを現場に残して、エミリー・ブルースターは、ボートを漕いで、ホテルへ助けを求めに戻った。

ホテルからの連絡を受けて、Pixy Cove へと駆け付けた地元警察によると、Pixy Cove の浜辺に倒れていた女性は、アリーナ・マーシャルで、男の手で絞殺されていたとの検死結果だった。


アリーナ・レッドファンに対して殺害動機を有する容疑者として、夫のケネス・マーシャルや不倫相手のパトリック・レッドファン等が浮かび上がるものの、完璧なアリバイがあるため、地元警察の捜査は難航する。

アリーナ・マーシャルを殺害した犯人を見つけ出すには、ポワロの登場が必要だった。ポワロは、州警察のウェストン警視正(Chief Constable Weston)とコルゲート警部(Inspector Colgate)に協力して、捜査を進める。