2024年5月31日金曜日

ロバート・J・ハリス作「悪魔の業火」(The Devil’s Blaze by Robert. J. Harris)- その2

英国の Birlinn Ltd から、Polygon Book として
2022年に刊行されている
 ロバート・J・ハリス
作「悪魔の業火」の
ペーパーバック版裏表紙

(Cover images : Alamy Stock Photo /
Cover design by Abigail Salvesen


1943年5月19日、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)のシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの元へ、スコッとヤードのジョージ・レストレード警部(Inspector George Lestrade)が、事件の相談者であるウィンスロー・バステイブル(Mr. Winslow Bastable - ケント州(Kent)コブルストーン村(Cobblestone)に在住)とオリヴァー・ポール巡査部長(Detective Sergeant Oliver Pole - ケント州警察の警官)を連れて来たが、ホームズは、その事件を立ち所に解決してしまう。


事件の相談者2人を帰らせたレストレード警部は、そのまま居残ると、オフェーリア・フェイス(Ophelia Faith)と言う女性福音伝道者(evangelist)が配っている小冊子を、ホームズとワトスンに見せる。彼女の小冊子は、「神の審判は下された!(The Day of Judgement Has Arrived!)」と唱えていた。

レストレード警部によると、オフェーリア・フェイスが民衆のパニックを先導する危険性がることから、スコットランドの上層部から、彼女の言動を注視するよう、指示を受けていたのである。


丁度その時、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ホームズの元へ電報を急いで持って来る。

電報は、英国政府からで、その電報によると、


*マイクロフト・ホームズ(Mycroft Holmes)は、現在、英国首相に帯同して、米国へ出張中。

*彼に代わり、シャーロック・ホームズを明日の朝に開催される国家公安委員会(Intelligence Inner Council)の会議に招待したい。


とのことだった。


翌朝、ホームズとワトスンの2人は、国家公安委員会の会議に出席するべく、アドミラルティーアーチ(Admiralty Arch → 2015年12月27日付ブログで紹介済)へと向かう。

そこで、2人は、驚くべく話を聞かされた。


(1)タルマン少将(Major General Talman)- スタッフとの打ち合わせ中、突然、炎に包まれて、焼死。

(2)サー・レオポルド・ダンビー(Sir Leopold Denby)- 妻と一緒に自宅に居る際、突然、炎に包まれて、焼死。

(3)ウォレス・カルー博士(Dr. Wallace Carew)- 通りを歩いている時、突然、炎に包まれて、焼死。


更に、会議に出席していたローランド・ショア大尉(Captain Roland Shore)も、突然、炎に包まれて、焼死してしまった。


会議メンバーの一人であるサー・アンソニー・ロイド(Sir Anthony Lloyd)からの指示を受けて、ホームズとワトスンは、昨年の事件で知り合った女性科学者のエルスペス・マックレディー博士(Dr. Elspeth Mac Ready - 「深紅色の研究(A Study in Crimson → 2024年5月6日 / 5月12日 / 5月16日付ブログで紹介済)」(2020年)を参照)の協力を得ることになる。


更に、サー・アンソニー・ロイドからの指示で、ホームズとワトスンは、ロンドン北西部のバッキンガムシャー州(Buckinghamshire)内に所在する「ハンターズウッド(Hunterswood)」と呼ばれる施設へと連れて行かれる。

そこで、2人は、チェスのチャンピオン、言語学者やクロスワードパズルの専門家等を見かけた。

一体、「ハンターズウッド」において、何が行われているのか?


ホームズとワトスンの2人は、「ハンターズウッド」を統括しているジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)を紹介される。

モリアーティー教授によると、「ハンターズウッド」では、ドイツ軍の暗号を解析するための機器を開発している、とのことだった。モリアーティー教授は、ホームズに対して、「ドイツ軍とヒトラーを倒す目的は、君(ホームズ)と一緒だ!」と告げるが、ホームズは、ワトスンに対して、「今起きている事件の背後には、モリアーティー教授が居る。」と囁く。


モリアーティー教授に「ハンターズウッド」を案内される途中、体育館において、ホームズとワトスンは、警備の責任者であるセバスチャン・モラン大佐(Colonel Sebastian Moran)に出会う。

ホームズのことを快く思わないモラン大佐は、ホームズに対して、フェンシングの決闘を仕掛けるのであった。


2024年5月30日木曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / アイザック・ニュートン(800th Anniversary of the University of Cambridge / Isaac Newton)- その2

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
サー・アイザック・ニュートンの肖像画の葉書
(Sir 
Godfrey Kneller Bt. / 1702年 / Oil on panel
756 mm x 622 mm) 


アイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年)は、1665年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)トリニティーカレッジ(Trinity College)を卒業した後も、大学に残ったが、ペストが大流行したため、同年から1666年にかけて、大学は閉鎖され、故郷のウールズソープ(Woolsthorpe)へと疎開した。

故郷に戻った彼は、実験や思索等、学問に専念。なお、「木の枝からリンゴが落下するのを見て、万有引力の法則を思い付いた。」と言う有名な逸話の出来事があったのは、この時期である。


サー・アイザック・ニュートンが生まれたウールズソープマナー(Woolsthorpe Manor)の解説書
<筆者が
ウールズソープマナーで購入>


ペストが終息した1667年に、アイザック・ニュートンは、大学へと戻る。

同年10月、事故等により、大学のフェロー職に欠員が生じたため、彼はフェロー職(Fellow - 研究費を得られる身分)を得た。


サー・アイザック・ニュートンが
1665年から1668年にかけて使用したノートをベースにした葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館
(Fitzwilliam Museum)で購入>


1668年に、アイザック・ニュートンは、ニュートン式望遠鏡を考案して、第一号機を完成させたことを受けて、彼の師で、ルーカス数学講座(Lucasian Chair of Mathematics)の初代教授であるアイザック・バロー(Isaac Barrow:1630年ー1677年)から、自らのポストを打診された。

一度固辞したが、最終的には、師の申し出を受けて、同年、彼は、26歳の若さで、ルーカス教授職(Lucasian Professor of Mathematics)に就く。


ルーカス教授職に就いたアイザック・ニュートンは、彼の2大著書となる「自然哲学の数学的諸原理(Principia)」(1687年刊行)と「光学(Opticks)」(1704年刊行)の執筆を精力的に行った。

また、彼が改良したニュートン式望遠鏡の第二号機が、1671年に王立協会(Royal Society)に提出され、この実績を理由に、アイザック・ニュートンは、1672年、王立協会のフェロー(Fellow of the Royal Society)に推薦された。

また、1688年には、庶民院議員(下院議員 - Member of Parliament for Cambridge)として、大学から演出もされた。


その後、研究生活に疲弊して、精神不調に陥った彼は、ケンブリッジを離れて、1696年にロンドンへ移住。

19歳年下の教え子である初代ハリファックス伯爵チャールズ・モンタギュー(Charles Montagu, 1st earl of Halifax:1661年ー1715年)が財務大臣となっており、アイザック・ニュートンは、チャールズ・モンタギューの紹介を受けて、王立造幣局監事(Warden of the Royal Mint)の職に就き、1699年には、王立造幣局長官(Master of the Royal Mint)へと昇格。

教え子のチャールズ・モンタギューとしては、研究生活に疲弊して、精神不調に陥った恩師のアイザック・ニュートンに対して、研究から離れて、時間的にも、体力的にも余裕のある地位や職を紹介したつもりであったが、アイザック・ニュートンは、就任早々、通貨偽造人を逮捕したことを皮切りにして、組織内の汚職を片っ端から摘発のうえ、処罰すると言う厳しい方針を打ち出した。

アイザック・ニュートンは、政治や行政の世界とは程遠い大学教授であったにもかかわらず、王立造幣局長官として、非常に鮮やかな手並みを発揮して、彼の在職中、通貨偽造が激減したと言われている。


アイザック・ニュートンは、1703年には、王立協会の会長(President of the Royal Society)に選出され、また、1705年には、英国のステュアート朝(House of Stuart)最後の君主であるアン女王(Queen Anne:1665年ー1714年 在位期間:1702年ー1714年)から、自然哲学の業績に対し、トリニティーカレッジにおいて、ナイトの称号(サー)を授与された。

アン女王は、1702年3月に(最後の)イングランド王国・スコットランド王国君主およびアイルランド女王(Queen of England, Scotland and Ireland)として即位し、1707年5月にスコットランドがイングランドに併合されたことに伴い、(最初の)グレートブリテン王国君主およびアイルランド女王(Queen of Great Britain and Ireland)として、1714年8月まで君臨した。

なお、自然哲学(自然科学)の分野で、ナイトの称号を授与されたのは、アイザック・ニュートンが最初である。


研究生活に疲弊して、精神不調に陥ったため、
ケンブリッジを離れて、ロンドンへ移住した
サー・アイザック・ニュートンが住んでいた
ジャーミンストリート88番地(1696年―1700年)と
同87番地(1700年―1709年)。


アイザック・ニュートンは、ジャーミンストリート88番地(88 Jermyn Street:1696年―1700年 → 2016年7月24日付ブログで紹介済)と同87番地(87 Jermyn Street:1700年―1709年 → 2016年7月24日付ブログで紹介済)に住んでいた。当初、ジャーミンストリート88番地に住んでいたが、1700年に同所より広いジャーミンストリート87番地が空いたため、彼は、そちらへ移った。残念ながら、当時の建物は、1908年に取り壊されてしまった。


ジャーミンストリート87番地 / 88番地の建物の壁には、
サー・アイザック・ニュートンが住んでいたことを示す
プラークが架けられている。


ナイトの称号授与から22年後の1720年3月20日に亡くなったアイザック・ニュートンは、国葬を経て、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬された。 


2024年5月29日水曜日

ロンドン セブンダイアルズ(Seven Dials)- その1


スコットランドのダンディー(Dundee)出身の学者 / 作家であるロバート・J・ハリス(Robert. J. Harris:1955年ー)が2020年に発表した「深紅色の研究(A Study in Crimson → 2024年5月6日 / 5月12日 / 5月16日付ブログで紹介済)」は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中の1942年9月7日から、物語が始まる。

まず最初に、陸軍省(War Office)からの依頼に基づき、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)を出発したシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの2人は、クロイドン(Croydon)の飛行場からスコットランドへと向かう。翌朝(9月8日)、事件をあっさりと解決してしまったホームズは、インヴァネス駅(Inverness Staton)経由、ワトスンと一緒に、ロンドンへと戻って来た。


セブンダイアルズ中央の環状交差点から
東西に延びるアーラムストリート


その翌日(9月9日)の早朝(午前5時半過ぎ)、スコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)が、ベーカーストリート221Bを訪ねて来る。「残忍な殺人事件が発生した。」とのことだった。


レストレード警部の依頼に基づき、急いで着替えたホームズとワトスンは、ベーカーストリート221Bの前で待っていた警察車輌に乗り込むと、レストレード警部と一緒に、殺害現場へと向かう。

現場に到着したホームズ達が見たのは、20代の女性の死体で、喉が切られた上に、内臓の一部が持ち攫われていた。

殺害されて居た女性の身元は、以下の通り。


名前:クララ・ベントリー(Clara Bentley)

年齢:25歳

住所:クラーケンウェルガーデンズ31番地(31 Clerkenwell Gardens)- 叔母夫婦であるベリル・ベントリー(Beryl Bentley)とチャールズ・ベントリー(Charles Bentley)と居住。

学歴:Queen Anne High School / Whittingby Secretarial College

職業:Theobald’s Road(現在の地下鉄ホルボーン駅(Holborn Tube Station)近くに所在)沿いの Rialto Cinema の女性案内係 → アシスタントマネージャーへ昇格


セブンダイアルズ中央の環状交差点から
北西と南東に延びるマーサーストリート


映画上映後、彼女は、映写技師(projectionist)のルパート・ジェイムズソン(Rupert Jameson)と一緒に、映画館を施錠すると、帰宅。

ルパート・ジェイムズソンによると、彼女は映画館を出た後、東方面へと向かったとのことだったが、彼女の死体が発見された場所は、映画館から西方面にあり、逆方向であった。

一体、彼女は、何故、帰宅方向と全く逆の場所へと向かったのか?


レストレート警部は、ポケットから懐中電灯を取り出すと、周囲の壁を照らした。なんと、煉瓦の壁には、クララ・ベントリーを殺害した犯人による署名なのか、紅いチョークで「血塗れジャック(Crimson Jack)」と書かれていた。

今回、2人の女性を惨殺した「血塗れジャック」は、「切り裂きジャック(Jack the Ripper → 2024年5月22日付ブログで紹介済)」の再来なのであろうか?


セブンダイアルズ中央の環状交差点から
南北に延びるモンマスストリート


クララ・ベントリーの死体が発見された現場は、「セブンダイアルズ(Seven Dials)」で、実在の場所である。

「セブンダイアルズ」は、ロンドンの中心部であるロンドン・カムデン特別区(London Borough of Camden)内に所在するが、シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)との境目辺りにある。地下鉄ピカデリーライン(Piccadilly Line)が停まる地下鉄レスタースクエア駅(Leicester Square Tube Station)と地下鉄コヴェントガーデン駅(Covent Garden Tube Station)の北側に位置しており、コヴェントガーデン(Covent Garden)エリア内の観光名所の一つとなっている。


セブンダイアルズ中央の環状交差点から
北東に延びるショートズガーデンズ

2024年5月28日火曜日

ビートルズ記念切手(The Beatles)- その2

ジョン・レノン(John Lennon:1940年ー1980年)とポール・マッカートニー(Paul McCartney:1942年ー)が初めて出会ってから50周年を記念して、2007年1月9日に、英国のロイヤルメール(Royal Mail)からビートルズ(The Beatles)記念切手10種類が発行されており、前回(3種類)に引き続き、次の3種類を紹介したい。


ビートルズ8枚目のオリジナルアルバム
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」(発売日:1967年6月1日)-
左側から、ジョン・レノン(黄色のコスチューム)、リンゴ・スター(ピンク色のコスチューム)、
ポール・マッカートニー(水色のコスチューム)、そして、ジョージ・ハリスン(赤色のコスチューム)。

ビートルズ12枚目のオリジナルアルバム
「アビー・ロード(Abbey Road)」(発売日:1969年9月26日)-
左側から、ジョージ・ハリスン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、
そして、ジョン・レノン。


ビートルズ13枚目のオリジナルアルバム
「レット・イット・ビー(Let It Be)」(発売日:1970年5月8日)-
左上側から、時計回りに、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、
そして、リンゴ・スター。


2024年5月27日月曜日

ロバート・J・ハリス作「悪魔の業火」(The Devil’s Blaze by Robert. J. Harris)- その1

英国の Birlinn Ltd から、Polygon Book として
2022年に刊行されている
 ロバート・J・ハリス
作「悪魔の業火」の
ペーパーバック版表紙

(Cover images : Alamy Stock Photo /
Cover design by Abigail Salvesen

ロバート・J・ハリス(Robert. J. Harris:1955年ー)は、スコットランドのダンディー(Dundee)出身の学者 / 作家である。なお、ダンディーは、北海(North Sea)に面するテイ湾(Firth of Tay)の北岸に位置しているスコットランドで人口4番目の都市となっている。

彼は、スコットランドのセントアンドリュース大学(University of St. Andrews)を卒業した後、学者となり、1990年代から作家活動を開始。


ロバート・J・ハリスは、特に、子供向けのファンタジー小説や歴史小説を著作しており、米国のファンタジー小説 / SF 小説家であるジェイン・ハイアット・ヨーレン(Jane Hyatt Yolen:1939年ー)との共著を2000年代に発表していることで、よく知られている。

また、彼は、ファンタジーボードゲームの「タリスマン(Talisman)」とその続編の「ミスガルディア(Mythgardia)」を発案している。


ロバート・J・ハリスは、米国ペンシルヴァニア州(Pennsylvania)出身のファンタジー小説家であるデボラ・ターナー・ハリス(Deborah Turner Harris:1951年ー)と結婚して、現在、スコットランドに在住。


ロバート・J・ハリスは、第二次世界大戦(1939年ー1945年)時に時代設定を置いたシャーロック・ホームズシリーズを刊行しており、今回は、ロバート・J・ハリス作ホームズシリーズの第1作目に該る「深紅色の研究(A Study in Crimson → 2024年5月6日 / 5月12日 / 5月16日付ブログで紹介済)」(2020年)に続いて、第2作目である「悪魔の業火(The Devil’s Blaze)」(2022年)について、紹介したい。


著者のロバート・J・ハリスは、1942年に公開された米国映画「シャーロック・ホームズと秘密兵器(Sherlock Holmes and the Secret Weapon)」を観て、着想を得た、とのこと。

なお、当該映画において、トランスヴァール共和国ヨハネスブルグ出身のイングランド人で、俳優のベイジル・ラズボーン(Basil Rathbone:1892年ー1967年)がシャーロック・ホームズを、そして、英国の俳優であるナイジェル・ブルース(Nigel Bruce:1895年ー1953年)がジョン・H・ワトスンを演じている。また、英国の俳優であるライオネル・アトウィル(Lionel Atwill:1885年ー1946年)がホームズの宿敵であるジェイムズ・モリアーティー教授(Professor James Moriarty)として出演している。

ベイジル・ラズボーンがホームズ役を務める米国映画の第1作目に該る「シャーロック・ホームズと恐怖の声(Sherlock Holmes and the Voice of Terror)」(1942年)が大ヒットして、ホームズの映画は、1946年まで、第2作目である「シャーロック・ホームズと秘密兵器」を含む全12作が制作された。その結果、ホームズ役を演じたベイジル・ラズボーンは、米国において、最高のシャーロック・ホームズ俳優として高名である。


ホームズは、ワトスン達の協力を得て、1942年8月から10月にかけてロンドン内で発生し、「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」の再来と言われた「血塗れジャック(Crimson Jack)」事件を解決した。

その際、ホームズとワトスンの協力者として、事件の解決に活躍した米国の女性ラジオジャーナリストであるゲイル・プレストン(Gail Preston)は、妻のメアリー(Mary)を既に亡くしていたワトスンとの間で良い関係を築きつつあったが、雇用主である NBC ラジオネットワーク(NBC radionetwork)によって、米国へと呼び戻されてしまい、ワトスンは、寂しい思いをしていた。


翌年の1943年5月19日、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)のホームズとワトスンの元へ、スコッとヤードのジョージ・レストレード警部(Inspector George Lestrade)が、以下の事件相談者を連れて来た。


*ウィンスロー・バステイブル(Mr. Winslow Bastable)- ケント州(Kent)コブルストーン村(Cobblestone)に在住

*オリヴァー・ポール巡査部長(Detective Sergeant Oliver Pole)- 

ケント州警察の警官


ウィンスロー・バステイブルによると、最近亡くなった叔父のランドルフ・バステイブル(Randolph Bastable)から遺贈されて、彼、彼の妻(リリー(Lily))、彼の従兄弟(ジェイムズ(James)とハーバート(Herbert)) / 従姉妹(クラリス(Clarice))、そして、叔父のユニウス(Junius)の6人が一緒に住み始めた屋敷ポプラーズ(The Poplars)において、昨夜発生した事件につき、非常に奇妙なことがあるので、相談したい、とのことだった。 


2024年5月26日日曜日

ケンブリッジ大学創立800周年記念 / アイザック・ニュートン(800th Anniversary of the University of Cambridge / Isaac Newton)- その1

ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた
サー・アイザック・ニュートンの絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum)で購入>


英国の女流推理作家であるフィリス・ドロシー・ジェイムズ(Phyllis Dorothy James:1920年ー2014年 → 一般に、P・D・ジェイムズ(P. D. James)と呼ばれている)が1972年に発表した作品で、女探偵のコーデリア・グレイ(Cordelia Gray)シリーズの第1作目に該る「女には向かない職業(An Unsuitable Job for a Woman → 2024年5月5日 / 5月20日 / 5月23日付ブログで紹介済)」の場合、物語の主な舞台は、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)を含むケンブリッジ(Cambridge)となる。


ケンブリッジ大学は、町の人々と対立した結果、オックスフォード(Oxford)から逃れて来た学者達が、13世紀初頭にケンブリッジに住み着いて、研究や教育を始めたのを起源としている。

公式なケンブリッジ大学の創立年度は「1209年」となっており、2009年に創立800周年を迎えた。


ケンブリッジ大学の創立800周年を記念して、英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が、ケンブリッジ大学に関係する人物を描いて、寄贈した。


1932年12月16日、英国ケント州(Kent)シドカップ(Sidcup)に出生したクェンティン・ブレイクも、ケンブリッジ大学ダウニングカレッジ(Downing College)を卒業しており、その後、チェルシーカレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン(Chelsea College of Art and Design)で絵画を学び、児童文学作家 / イラストレーターとなった。


ケンブリッジ大学の創立800周年を記念して、クェンティン・ブレイクが描いた人物達を順番に紹介していきたい。

まず最初に紹介するのは、アイザック・ニュートン(Issac Newton)である。


(1)アイザック・ニュートン(1642年―1727年)


アイザック・ニュートンは、英国の自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、そして、神学者として有名である。


サー・アイザック・ニュートンが生まれたウールズソープマナー(Woolsthorpe Manor)の解説書
<筆者が
ウールズソープマナーで購入>

1642年12月25日に、リンカンシャー州(Lincolnshoire)の小さな村ウールズソープ(Woolsthorpe)に出生したアイザック・ニュートンは、1661年6月5日にケンブリッジ大学トリニティーカレッジ(Trinity College)へ進学。

当初、彼は「サブサイザー(Sub Sizar)」と言う学生身分で入学したが、1ヶ月後には、「サイザー(Sizar - 講師の小間使いとして、給仕等の使い走りをする見返りとして、授業料や食費の援助を受ける学生身分)となった。

アイザック・ニュートンは、英国の聖職者 / 数学者で、ルーカス数学講座(Lucasian Chair of Mathematics)の初代教授であるアイザック・バロー(Isaac Barrow:1630年ー1677年)を師として、バローも、ニュートンの才能を高く評価した。

1664年に、アイザック・バローの後押しを受けて、アイザック・ニュートンは、「スカラー(Scholar - 奨学金を得られる学生身分)」となる。

1665年に、彼はトリニティーカレッジを卒業して、バチェラー(Bachelor of Arts)の学位を得た。


2024年5月25日土曜日

ビートルズ記念切手(The Beatles)- その1

ジョン・レノン(John Lennon:1940年ー1980年)とポール・マッカートニー(Paul McCartney:1942年ー)は、1957年7月に初めて出会った。そして、ジョージ・ハリスン(George Harrison:1943年ー2001年)が1958年3月に加入。最後に、リンゴ・スター(Ringo Starr:1940年ー)が1962年8月に加入して、ビートルズ(The Beatles)が結成。

ジョン・レノンとポール・マッカートニーが初めて出会ってから50周年を記念して、2007年1月9日に、英国のロイヤルメール(Royal Mail)から記念切手10種類が発行されているので、3回にわたって、紹介したい。


ビートルズ2枚目のオリジナルアルバム
「ウィズ・ザ・ビートルズ(With the Beatles)」(発売日:1963年11月22日)-
左側から、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、ポール・マッカートニー、
そして、リンゴ・スター。

ビートルズ5枚目のオリジナルアルバム
「ヘルプ!(Help!)」(発売日:1965年8月6日)-
左側から、ジョージ・ハリスン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、
そして、リンゴ・スター。

ビートルズ7枚目のオリジナルアルバム
「リヴォルバー(Revolver)」(発売日:1966年8月5日)
-
左上側から、時計回りに、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、
そして、リンゴ・スター。

2024年5月24日金曜日

ニコラス・サーコム作「ボヘミアの混乱」(A Balls-up in Bohemia)- その2

患者への往診の帰途、
ジョン・H・ワトスンは、あることを相談するために、
ベーカーストリート221Bの
シャーロック・ホームズの元を訪れたが、
ハドスン夫人の姉で、男性、特に、ワトスンのことを毛嫌いしている
ターナー夫人は、彼を建物内に入れようとはしなかった。
画面手前から、ワトスン、ターナー夫人、そして、ホームズ。
(Illustration by Emily Snape)


作家で、映画 / テレビのプロデューサーでもあるニコラス・サーコム(Nicholas Sercombe)による「シャーロック・ホームズの不適切な箇所が削除されていない冒険(The Unexpurgated Adventures of Sherlock Holmes)」の第1作目に該る「ボヘミアの混乱(A Balls-up in Bohemia)」(2019年)の場合、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)による原作「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」対比、基本的に、事件の展開は、同じである。


ただし、ニコラス・サーコム作「ボヘミアの混乱」とコナン・ドイル作「ボヘミアの醜聞」の間には、以下の差異がある。


(1)

<原作>

事件発生時の1888年3月20日、既に結婚していたジョン・H・ワトスンは、ベーカーストリート221B(221B Baker Street)を出て、シャーロック・ホームズとは別に暮らしていた。ただし、ワトスンの妻が誰で、どこに住んでいるのかについては、全く言及されていない。

<本作品>

ワトスンは、「四つの署名(The Sign of the Four)」事件で知り合ったメアリー・モースタン(Mary Morstan)と結婚して、サウスケンジントン地区(South Kensington)のクリーンズバリープレイス(Queensbury Place)に住んでいると、具体的に記されている。


(2)

<原作>

患者への往診の帰り道、ベーカーストリート221Bの前を通りかかったワトスンは、懐かしさを感じて、ホームズの元を訪れている。

<本作品>

原作と同じではあるが、実は、ワトスンには、どうしてもホームズに相談したい件があり、彼の元を訪れたのである。


(3)

<原作>

ベーカーストリート221Bの大家は、ハドスン夫人(Mrs. Hudson)であるが、ホームズとワトスンに簡単な食事を用意したのは、ハドスン夫人ではなく、ターナー夫人(Mrs. Turner)だった。ただし、ハドスン夫人とターナー夫人の関係性については、全く言及されていない。

<本作品>

ターナー夫人は、ハドスン夫人の姉で、ハドスン夫人の不在地中、ターナー夫人がベーカーストリート221Bの管理をしている。

ターナー夫人は、男性全般、特に、ワトスンを毛嫌いしており、ホームズの元を訪れたワトスンを、当初、ベーカーストリート221B内に入れようとしなかった。


ターナー夫人の態度に腹を立てたワトスンは、彼女のことを、「フランケンシュタインの花嫁(the bride of Frankenstein)」ではなく、「フランケンシュタインの母親(the mother of Frankenstein)」だと、文句を言っている。

英国の小説家メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley:1797年ー1851年)が小説「フランケンシュタイン、或いは、現代のプロメテウス(Frankenstein; or, the Modern Prometheus.)」を出版したのは、1818年3月なので、事件発生時の1888年3月20日、ワトスンがフランケンシュタインのことを知っていても、全く問題ない。

ターナー夫人のことについて、ワトスンが「フランケンシュタインの花嫁」と言及しているが、これは、著者であるニコラス・サーコム(Nicholas Sercombe)が、米国のユニヴァーサル映画が制作した SF ホラー映画「フランケンシュタインの花嫁(Bride of Frankenstein)」を念頭に置いているからだと思われる。ただ、この映画は、1935年に公開されているため、ワトスンが「フランケンシュタインの花嫁」と言う表現を使うのは、やや違和感がある。


ジョン・H・ワトスンは、
シャーロック・ホームズに対して、
メアリー・モースタンが男性だったことを告白する。

画面左側の人物がワトスンで、画面右側の人物がホームズ。
(Illustration by Emily Snape

(4)

<本作品>

ホームズのフルネームが、「シャーロック・ヌーゲント・ジュリウス・ホームズ(Sherlock Nugent Julius Holmes)」であることが明かされる。

<原作>

ホームズのフルネームについては、明かされていない。


(5)

<本作品>

結婚したメアリー・モースタンが、実は、男性であることが判ったワトスンは、ホームズに対して、如何にすれば、彼女と離婚できるのかを相談するために、彼の元を訪れたのである。

ワトスンは、メアリー・モースタンに離婚を申し出たものの、慰謝料として、5000ポンドを要求された。ところが、ワトスンが手持ちの全財産を掻き集めても、45ポンドにしかならなかった。

<原作>

当然のことながら、上記のようなことはない。


画面手前の左側の人物がアイリーン・アドラーで、
画面手前の右側の人物が牧師に変装したシャーロック・ホームズ。
画面奥の中央にに居る人物がジョン・H・ワトスンで、
ホームズの合図に従って、発煙筒を放り投げている。
(Illustration by Emily Snape


(6)

<原作>

牧師の変装をし、喧嘩に巻き込まれて、負傷したことを装ったホームズが、アイリーン・アドラー(Irene Adler)が住むセントジョンズウッド地区(St. John’s Wood)内のブライオニーロッジ(Briony Lodge)に入り込んだ後、ワトスンは、ホームズからの合図を受けて、窓から発煙筒を投げ込む手筈だった。

<本作品>

牧師の変装をしたホームズが、喧嘩に巻き込まれて、本当に負傷したと早合点したワトスンが、「自分は医師だ!」と申し出て、手当のために、ホームズとアイリーン・アドラー達と一緒に、ブリオニーロッジの中に入ってしまう。

そこで、ワトスンは、已む無く、室内で発煙筒を取り出して、室内に煙を充満させることになった。


翌朝、ボヘミア王を伴って、
シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンは、
アイリーン・アドラーが住むブライオニーロッジへと駆け付けたが、
彼女は、夫のゴドフリー・ノートン(Godfrey Norton)と一緒に、
欧州大陸へと旅立った後であった。
画面手前から、ワトスン、ボヘミア王、そして、ホームズ。
(Illustration by Emily Snape

(7)

<原作>

なんとか事件が無事に解決した後、ホームズは、ボヘミア王(King of Bohemia)から、報酬として、アイリーン・アドラーの写真を得る。

<本作品>

なんとか事件が無事に解決した後、ホームズは、ボヘミア王から、報酬として得るのは、アイリーン・アドラーの写真ではなく、ボヘミア王が持っている別の写真である。どういった写真なのかについては、不適切な内容のため、ここでは割愛する。

ホームズが立ち去った後、ワトスンは、ボヘミア王とうまく交渉して、ボヘミア王の高価な指輪と5000ポンドをちゃっかりと手に入れた。

こうして、ワトスンは、メアリー・モースタンと無事離婚でき、ホームズとの共同生活へと戻ることができたのである。ただし、ホームズは、このことを知らない。


2024年5月23日木曜日

P・D・ジェイムズ作「女には向かない職業」(An Unsuitable Job for a Woman by P. D. James)- その3

英国の Faber and Faber Limited から
2020年に刊行されている
 
P・D・ジェイムズ作「女には向かない職業」の内扉
Cover design by Faber and Faber Limited /
Cover illustration by Ms. Angela Harding


1972年6月のある朝、探偵事務所(Detective Agency)の共同パートナーであったバーナード・G・プライド(Bernard G. Pryde)は、癌に罹っており、手首を切って、事務所内で自殺してしまう。共同パートナーを失ったコーデリア・グレイ(Cordelia Gray)は、途方に暮れるものの、いろいろと考えた末に、22歳の若輩ながら、一人で探偵稼業を続けていくことに決めた。


そんな最中、探偵事務所の単独代表となった彼女の元に、エリザベス・レミング(Elizabeth Leaming)と言う女性が、最初の依頼者として訪れる。彼女は、天然資源保護論者(conservationist)/ 微生物学者(microbiologist)であるサー・ロナルド・カレンダー(Sir Ronald Callender)の秘書を務めていた。


エリザベス・レミングに連れられて、ケンブリッジ(Cambridge)のガーフォースハウス(Garforth House)までやって来たコーデリア・グレイは、そこで彼女の到着を待っていたサー・ロナルド・カレンダーから、ある事件の調査を依頼される。

それは、18日前に(=5月26日の夜)、彼の子息で、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)の学生だったマーク・カレンダー(Mark Callender)が自分の命を突然断った事件で、サー・ロナルド・カレンダーとしては、コーデリア・グレイに、マークが自殺をしたのか、その原因を調査したほしい、とのことだった。


1951年4月25日に生まれたマーク・カレンダーは、今年の4月25日で、21歳になっていた。彼は、父親と同じケンブリッジ大学(University of Cambridge)に入学して、歴史を学んでおり、最終年度を迎えていた。

5週間前、事前に何の連絡もなく、彼は、突然、大学を辞めると、ダックスフォード(Duxford - ケンブリッジから10マイル程、南へ下ったところに所在する村)郊外の屋敷サマーツリーズ(Summertrees)に住むマークランド少佐(Major Markland)の庭師の職に就く。

彼は、マークランド少佐の敷地内にある小屋で一人暮らしをしていたが、庭師になってから18日後、小屋の居間の天井から吊るした紐で、首を吊って、亡くなっているのを、マークランド少佐の(義理の)妹により発見されたのである。

検視法廷は、マーク・カレンダーの自殺と言うことで決着していた。


サー・ロナルド・カレンダーからの依頼を引き受けたコーデリア・グレイは、一旦、ロンドンに戻ると、翌朝の7時に、車でダックスフォード郊外のマークランド少佐の屋敷へ出発した。

現地に到着したコーデリア・グレイは、マークランド少佐の義理の妹に、マーク・カレンダーが住んでいた小屋へと案内してもらい、彼の死体を発見した経緯を尋ねるとともに、彼の元を訪れていた人物の情報も入手する。

マークランド少佐の義理の妹の好意に基づき、コーデリア・グレイは、マーク・カレンダーが住んでいた小屋に滞在して、調査を続けることにした。

次に、コーデリア・グレイは、マーク・カレンダーの大学時代の友人であるヒューゴ・ティリング(Hugo Tilling)やソフィア・ティリング(Sophia Tilling - ヒューゴの妹)等を訪ねて、マーク・カレンダーが大学を突然辞めた経緯等を尋ねるのであった。


マーク・カレンダーの友人の一人は、コーデリア・グレイに対して、「探偵稼業は、女には向かない。(It is not, I think, a suitable job for a woman.)」と言われたが、彼女は、単身、マーク・カレンダーの自殺事件の調査を進めていく。

当初、彼女の初仕事としては、それ程難しい事件ではないように思われたが、彼女が調査を進めていくに従って、マーク・カレンダーは、自殺ではなく、第三者によって殺害されたのではないかと言う疑いが出てきたのである。


そして、物語の終盤、コーデリア・グレイは、元警察官だった共同パートナーのバーナード・G・プライドの元上司であるスコットランドヤードのアダム・ダリグリッシュ警視(Superintendent Adam Dalgliesh)と対決することになる。 


2024年5月22日水曜日

切り裂きジャック(Jack the Ripper)

筆者が土産物屋で購入した絵葉書
「Jack the Ripper Map」-
絵葉書上に、「切り裂きジャック」が5人の売春婦達を惨殺した場所を含めた
ロンドン東部のホワイトチャペル地区の地図が描かれている。


スコットランドのダンディー(Dundee)出身の学者 / 作家であるロバート・J・ハリス(Robert. J. Harris:1955年ー)が2020年に発表した「深紅色の研究(A Study in Crimson → 2024年5月6日 / 5月12日 / 5月16日付ブログで紹介済)」の場合、第二次世界大戦(1939年-1945年)中の1942年、ロンドンを舞台にして、「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」の再来と思われる「血塗れジャック(Crimson Jack)」による女性惨殺事件が連続して発生する。


「切り裂きジャック」事件とは、ヴィクトリア朝時代の1888年に、ロンドン東部のホワイトチャペル地区(Whitechapel)において、5人の売春婦が連続して殺害された、英国犯罪史上最も猟奇的な事件で、130年以上が経過した現在でも、犯人の正体も、また、その動機も、謎に包まれたままとなっている。


一般に、切り裂きジャックによる被害者達と考えられているのは、以下の通り。


<第1の被害者>

*氏名:メアリー・アン・ニコルズ(Mary Ann Nichols)/ 通称:ポリー

*日時:1888年8月31日(金) 午前3時40分頃

*場所:バックスロウ(Buck’s Row - 現在のダーウォードストリート(Durward Street))


<第2の被害者>

*氏名:アニー・チャップマン(Annie Chapman)

*日時:1888年9月8日(土) 午前6時頃

*場所:ハンバリーストリート29番地(29 Hanbury Street)


<第3の被害者>

*氏名:エリザベス・ストライド(Elizabeth Stride)/ 通称:ロングリズ

*日時:1888年9月30日(日) 午前1時頃

*場所:バーナーストリート(Berner Street - 現在のヘンリクエスストリート(Henriques Street))


<第4の被害者>

*氏名:キャサリン・エドウズ(Catherine Eddowes)

*日時:1888年9月30日(日) 午前1時35分以降

*場所:ミトルスクエア(Mitre Square)


<第5の被害者>

*氏名:メアリー・ジェイン・ケリー(Mary Jane Kelly)

*日時:1888年11月9日(金) 未明

*場所:ドーセットストリート(Dorset Street)近くのミラーズコート13番地(13 Miller’s Court)


現在、ホワイトチャペル地区内の「切り裂きジャック」事件にかかる5つの事件現場を巡る観光ツアーが行われているので、このツアーに入ると、解説付きで事件現場を巡ることが可能である。