2025年6月26日木曜日

アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」の英国 TV ドラマ版(エピソード3)に使用された童謡「10人の子供の兵隊」(And Then There Were None by Agatha Christie - Ten Little Soldiers)- その3

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1939年に発表したノンシリーズ作品「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」を英国の BBC(British Broadcasting Corporation)が映像化した英国 TV ドラマ版として映像化しているが、2015年12月28日に放映された「エピソード3」において使用された童謡「10人の子供の兵隊(Ten Little Soldiers)」は、以下の通り。


(6)

Five little soldier boys going in for law; One got in chancery and then there were Four.

(5人の子供の兵隊さんが、法律を志した。一人が大法官府(裁判所)に入って、残りは4人になった。)


厳密に言うと、原作の場合、

ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが見つかったのは、応接間(1階)で、

兵隊人形が置かれているのは、食堂(1階)なので、この場面は正しくない。

また、英国 TV ドラマ版の場合、

ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが見つかったのは、自分の部屋(2階)で、

兵隊人形が置かれているのは、食堂(1階)なので、この場面とは合っていない。


英国 TV ドラマ版の場合、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴを見つけた後、

ヴェラ・エリザベス・クレイソーンは、食堂へ行って、人形の数が4個に減っていることを確認。

他の3人(エドワード・ジョージ・アームストロング、フィリップ・・ロンバードと

ウィリアム・ヘンリー・ブロア)も、彼女に付いて来て、これを確認している。

一方、原作の場合、このような記述はない。-

HarperCollins Publishers 社から出ている

アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」のグラフィックノベル版から抜粋。

*被害者:ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ(Lawrence John Wargrave - 高名な元判事)

*告発された罪状:アガサ・クリスティーの原作の場合、皆が無実の被告だと確信していたエドワード・シートン(Edward Seton)に対して、陪審員達を巧みに誘導し、不当な死刑判決出したと告発された。

なお、原作の場合、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴは、他の全員が無罪だと思っていたエドワード・シートンに対して、有罪判決を下し、絞首刑に処しているだけにとどまっているが、英国 TV ドラマ版の場合、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴは、エドワード・シートンの絞首刑執行の場に立ち会っている。また、エドワード・シートンも、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴに見せつけるように、顔を覆うフードなしで、絞首刑になっている。

*犯罪発生時期:英国 TV ドラマ版の場合、具体的な時期については、言及されていないが、アガサ・クリスティーの原作の場合、「1930年6月10日」と明記されている。

*死因:裁判官の服装をして、額に銃弾を受けていた。なお、裁判官が被るカツラは、エミリー・キャロライン・ブレント(Emily Caroline Brent - 信仰心の厚い老婦人)が失くしたグレーの毛糸からできており、また、身体に纏っている真っ赤なガウンは、トマス・ロジャーズ(Thomas Rogers - 執事)が「浴室から無くなった。」と言っていた真っ赤なカーテンで代用されていた。


画面左側から、エドワード・ジョージ・アームストロング、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ、
フィリップ・・ロンバード、ウィリアム・ヘンリー・ブロア、
そして、
ヴェラ・エリザベス・クレイソーン。
-

HarperCollins Publishers 社から出ている

アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」のグラフィックノベル版から抜粋。


原作の場合、ヴェラ・エリザベス・クレイソーン(Vera Elizabeth Claythorne - 秘書)の悲鳴を聞いても、居間から一緒に来なかったローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが見つかった場所は、応接間(1階)。エドワード・ジョージ・アームストロング(Edward George Armstrong - 医師)が、他の3人に近付かないように合図して、「ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴは、頭を撃ち抜かれている。即死だ。」と告げる。ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴを2階にある彼の部屋へと運んだのが、誰なのかについては、明記されていない。おそらく、エドワード・ジョージ・アームストロング、フィリップ・・ロンバード(Philip Lombard - 元陸軍大尉)とウィリアム・ヘンリー・ブロア(William Henry Blore - 元警部(Detective Inspector)/ 英国 TV ドラマ版の場合、巡査部長(Detective Sergeant))の3人だと思われる。

一方、英国 TV ドラマ版の場合、ヴェラ・エリザベス・クレイソーンの悲鳴を聞いて、既に退いていた自分の部屋から出て来なかったローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが見つかった場所は、彼の部屋(2階)。エドワード・ジョージ・アームストロングが、自分のジャケットを脱いで、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴの身体を覆っている。


(7)

Four little soldier boys going out to sea; A red herring swallowed one and then there were Three.

(4人の子供の兵隊さんが、海へ出かけた。一人が燻製の鰊(ニシン)に呑みれて、残りは3人になった。)


原作の場合、

夜中、屋敷から外へ出て行ったエドワード・ジョージ・アームストロングの追跡が失敗に終わり、

屋敷に戻って来たフィリップ・・ロンバードとウィリアム・ヘンリー・ブロアの2人は、

食堂へ行って、兵隊人形の数が3個に減っていることを確認。

一方、英国 TV ドラマ版の場合、このような場面はない。-

HarperCollins Publishers 社から出ている

アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」のグラフィックノベル版から抜粋。


*被害者:エドワード・ジョージ・アームストロング

*告発された罪状:アガサ・クリスティーの原作の場合、アルコールを摂取した後、患者のルイーザ・メアリー・クリース(Louisa Mary Clees)の手術を執刀して、死に至らせたと告発された。

*犯罪発生時期:英国 TV ドラマ版の場合、具体的な時期については、言及されていないが、アガサ・クリスティーの原作の場合、「1925年3月14日」と明記されている。

*死因:溺死


原作の場合、海岸の二つの岩の間に、
エドワード・ジョージ・アームストロングの溺死体が挟まれているのが、
フィリップ・・ロンバードとヴェラ・エリザベス・クレイソーンの2人によって発見されている。
エドワード・ジョージ・アームストロングの溺死体は、満ち潮で打ち上げられたのである。
一方、英国 TV ドラマ版の場合も、エドワード・ジョージ・アームストロングの溺死体は、
海岸の岩の上に乗っているのが、
フィリップ・・ロンバードとヴェラ・エリザベス・クレイソーンの2人によって発見されている。
ただし、満ち潮で打ち上げられたと言う点については、言及されていない。
従って、この場面は、原作とも、英国 TV ドラマ版とも、合っていない。
-

HarperCollins Publishers 社から出ている

アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」のグラフィックノベル版から抜粋。


なお、「red herring」とは、本来の問題点から皆の注意を他に逸らして、論点をすり替える論理的誤謬を指す用語で、推理小説においては、登場人物(警察や探偵等を含む)や読者を誤った結論へと導くために使用される虚偽の証拠や情報等のことを言う。


つまり、夜中に、エドワード・ジョージ・アームストロングが部屋から抜け出して、外へ出て行ったため、フィリップ・・ロンバードとウィリアム・ヘンリー・ブロアの2人が、「エドワード・ジョージ・アームストロングが、一連の殺人を行った犯人だ。」と考えて、彼の後を追うが、これは、登場人物である彼らと読者を誤った結論へと導いていることを、作者であるアガサ・クリスティーが「red herring」と言う用語を使って、匂わせているものと思われる。


2025年6月25日水曜日

アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」<英国 TV ドラマ版>(And Then There Were None by Agatha Christie )- その4

HarperCollins Publishers 社から2009年に出ている
アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」の
グラフィックノベル版の表紙
(Cover Design and Illustration by Ms. Nina Tara)-
表紙と裏表紙の両方で、兵隊島に集まった招待客8人と召使夫婦の計10人が、
一人また一人と、正体不明の何者かによって殺害されていくことが暗示されている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1939年に発表したノンシリーズ作品「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」を英国の BBC(British Broadcasting Corporation)が映像化した英国 TV ドラマ版の場合、アガサ・クリスティーの原作にかなり忠実に反映しているが、細かい点において、原作対比、以下のような違いがある。


今回は、2015年12月28日に放映された「エピソード3(最終エピソード)」にかかる部分について、述べたい。


(1)

<原作>

老婦人のエミリー・キャロライン・ブレント(Emily Caroline Brent)が青酸カリが入った皮下注射器で首の横を刺されて殺された後、医師のエドワード・ジョージ・アームストロング(Edward George Armstrong)のスーツケースから注射器が、また、元陸軍大尉のフィリップ・ロンバード(Philip Lombard)のベッドの横のテーブルの引き出しから隠してあったピストルが紛失しているのを受けて、残った5人の身体検査と手荷物検査が行われる。

<英国 TV ドラマ版>

秘書のヴェラ・エリザベス・クレイソーン(Vera Elizabeth Claythorne)が、


*アンソニー・ジェイムズ・マーストン(Anthony James Marston):ブランデー(brandy)が入ったグラスに投与された青酸カリによる中毒死

*エセル・ロジャーズ(Ethel Rogers):睡眠薬クロラールの過剰摂取による中毒死


を元に、エドワード・ジョージ・アームストロングのことを疑い始める。そして、各人の手荷物検査を主張し、その時点で、各人の身体検査と手荷物検査が既に行われている。


(2)

<原作>

元判事のローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ(Lawrence John Wargrave)は、他の全員が無罪だと思っていたエドワード・シートン(Edward Seton)に対して、有罪判決を下し、絞首刑に処している。

<英国 TV ドラマ版>

更に、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴは、エドワード・シートンの絞首刑執行の場に立ち会っている。また、エドワード・シートンも、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴに見せつけるように、顔を覆うフードなしで、絞首刑になっている。


(3)

<原作>

夕食を済ませた後、午後6時20分に、ヴェラ・エリザベス・クレイソーンは、自分の部屋へと戻る。他の4人は、居間に残ったまま。

彼女は、天井からぶら下げられた幅の広い海藻が自分の喉に触れた際、じっとりと湿った冷たい誰かの手に触られたものと勘違いして、悲鳴を上げる。

彼女の悲鳴を聞いて、エドワード・ジョージ・アームストロング、フィリップ・・ロンバードと巡査部長(Detective Sergeant - 原作の場合、元警部(Detective Inspector))のウィリアム・ヘンリー・ブロア(William Henry Blore)の3人が、彼女の部屋へと駆け付ける。その後、彼らは、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが一緒に来ていないことに気付く。

<英国 TV ドラマ版>

夕食を済ませた後、まず最初に、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが、自分の部屋へと退く。続いて、ヴェラ・エリザベス・クレイソーンも、自分の部屋へと下がる。他の3人は、食堂に残ったまま。

自分の部屋に戻ったヴェラ・エリザベス・クレイソーンが顔を洗っていると、溺死させたシリル・オギルヴィー・ハミルトン(Cyril Ogilvie Hamilton - 家庭教師をしていた子供)が鏡に映っている幻影をみて、気絶する。

彼女の悲鳴を聞いて、エドワード・ジョージ・アームストロング、フィリップ・・ロンバードとウィリアム・ヘンリー・ブロアの3人が、彼女の部屋へと駆け付ける。その後、彼らは、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが自分の部屋から出て来ていないことに気付く。


(4)

<原作>

居間から一緒に来なかったローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが見つかった場所は、応接間(1階)。

エドワード・ジョージ・アームストロングが、他の3人に近付かないように合図して、「ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴは、頭を撃ち抜かれている。即死だ。」と告げる。

ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴを2階にある彼の部屋へと運んだのが、誰なのかについては、明記されていない。おそらく、エドワード・ジョージ・アームストロング、フィリップ・・ロンバードとウィリアム・ヘンリー・ブロアの3人だと思われる。

<英国 TV ドラマ版>

ヴェラ・エリザベス・クレイソーンの悲鳴を聞いて出て来なかったローレンス・ジョン・ウォーグレイヴが見つかった場所は、彼の部屋(2階)。

エドワード・ジョージ・アームストロングが、自分のジャケットを脱いで、ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴの身体を覆っている。


(5)

<英国 TV ドラマ版>

ヴェラ・エリザベス・クレイソーンは、食堂へ行って、人形の数が4個に減っていることを確認。他の3人も、彼女に付いて来て、これを確認している。

<原作>

原作の場合、このような記述はない。


HarperCollins Publishers 社から2009年に出ている
アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった」の
グラフィックノベル版の裏表紙
(Cover Design and Illustration by Ms. Nina Tara)


(6)

<英国 TV ドラマ版>

残ったエドワード・ジョージ・アームストロング、フィリップ・・ロンバードとウィリアム・ヘンリー・ブロアとヴェラ・エリザベス・クレイソーンの4人は、1階の部屋において、アルコールやコカイン(アンソニー・ジェイムズ・マーストンが持参したものと思われる)等を使い、乱痴気騒ぎを始める。

フィリップ・・ロンバードとヴェラ・エリザベス・クレイソーンの2人が抱き合って踊っている様子を見て、エドワード・ジョージ・アームストロングは、2人に対して、不信感を覚える。

その後、4人とも、自分の部屋へと戻るが、フィリップ・・ロンバードがヴェラ・エリザベス・クレイソーンの部屋を訪れて、2人は肉体関係を結ぶ。

<原作>

原作の場合、このような場面はない。


(7)

<原作>

その日の夜、フィリップ・・ロンバードが自分の部屋に戻り、ベッドの横のテーブルの引き出しを開けると、紛失していたピストルが元に戻っていることを発見。

<英国 TV ドラマ版>

翌日の朝、フィリップ・・ロンバードが、ヴェラ・エリザベス・クレイソーンの部屋から自分の部屋に戻った際、ベッドの上にピストルが置かれているのを見つける。


(8)

<原作>

夜中の午前1時過ぎ、ウィリアム・ヘンリー・ブロアは、誰かが自分の部屋の前を通り、玄関のドアから出て行く人影を見かける。

そして、彼は、エドワード・ジョージ・アームストロングの返事がないことを確認した後、フィリップ・・ロンバードとヴェラ・エリザベス・クレイソーンの2人を起こす。

フィリップ・・ロンバードとウィリアム・ヘンリー・ブロアの2人は、ヴェラ・エリザベス・クレイソーンを部屋に残したまま、外へ出て行った人物の後を追うが、その追跡は失敗に終わる。

<英国 TV ドラマ版>

夜中に、ウィリアム・ヘンリー・ブロアは、エドワード・ジョージ・アームストロングが部屋から出て階段を降りて行くのを見かけて、フィリップ・・ロンバードの部屋をノックするが、返事がない。フィリップ・・ロンバードとは、ヴェラ・エリザベス・クレイソーンの部屋から出て来る。

フィリップ・・ロンバードとウィリアム・ヘンリー・ブロアの2人は、ヴェラ・エリザベス・クレイソーンを部屋に残したまま、外へ出て行ったエドワード・ジョージ・アームストロングの後を追うが、その追跡は失敗に終わる。


(9)

<原作>

追跡が失敗に終わって、屋敷に戻って来たフィリップ・・ロンバードとウィリアム・ヘンリー・ブロアの2人は、食堂へ行って、人形の数が3個に減っていることを確認。

<英国 TV ドラマ版>

英国 TV ドラマ版の場合、このような場面はない。


すみませんが、分量が長くなるので、次回に続きます。


2025年6月24日火曜日

サー・ジョン・ソーン(Sir John Shane)- その1

英国の肖像画家であるサー・トマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence:1769年ー1830年)が描いた
「サー・ジョン・ソーン(76歳)の肖像画 (Portrait of Sir John Soane, aged 76)」
(1828年ー1829年)
の絵葉書
Oil on canvas 
<筆者がサー・ジョン・ソーンズ博物館で購入>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1935年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第5作目に該る「死時計(Death-Watch → 2025年4月30日 / 5月4日付ブログで紹介済)」に出ているサー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済)は、英国の新古典主義を代表する建築家で、1788年にロバート・テイラー(Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の邸宅兼スタジオを使用しており、彼が手掛けた建築に関する素描、図面や建築模型、更に、彼が収集した絵画や骨董品等を所蔵している。


サー・ジョン・ソーンは、1753年9月10日、オックスフォード(Oxfordshire)のゴリング・オン・テムズ(Goring-on-Thames)に、煉瓦職人(bricklayer)の父ジョン・ソーン(John Soan)と母マーサ・ソーン(Martha Soan)の下に出生。

なお、サー・ジョン・ソーンの姓は、「Soan」ではなく、「Soane」となっているが、これは、彼が1784年に結婚した際に、自分で「e」を付け加えたからである。


(サー・)ジョン・ソーンは、レディング(Reading - バークシャー(Berkshire)の町)近くのプライベートスクールで教育を受けるが、彼が14歳の1768年4月に、父親が死去。

そのため、彼の一家は、チャーツィー(Chertsey - サリー州(Surrey)の町)へと引っ越して、彼の兄(12歳上)であるウィリアム・ソーン(William Soan)と一緒に住むようになる。


ジョージ・ダンス(子)が住んでいた
ガワーストリート91番地(91 Gower Street)


兄のウィリアム・ソーンは、弟の(サー・)ジョン・ソーンを、測量技師(surveyor)であるジェイムズ・ピーコック(James Peacock)に紹介。

測量技師のジェイムズ・ピーコックは、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)と一緒に仕事をしていた縁で、15歳の(サー・)ジョン・ソーンは、ジョージ・ダンス(子)の下で、建築を学び始めた。

ジョージ・ダンス(子)は、王立芸術院(Royal Academy of Arts)の創立メンバーの一人であり、1771年10月に弟子の(サー・)ジョン・ソーンを王立芸術院へ入学させ、本格的な建築の勉強をさせた。


ガワーストリート91番地の建物外壁には、
ジョージ・ダンス(子)がここに住んでいたことを示す
ブループラークが掛けられている。


上記の通り、ジョージ・ダンス(子)と(サー・)ジョン・ソーンは、師弟関係にあったが、イングランド王立外科医師会(Royal College of Surgeons of England → 2017年3月26日付ブログで紹介済)の建物が、1805年から1813年にかけて、英国の建築家であるジョージ・ダンス(子)(George Dance the Younger:1741年ー1825年)とジェイムズ・ルイス(James Lewis:1750年ー1820年)による設計に基づき建設された際、ジョン・ソーンの診断により、建物の構造的な欠陥が発見され、建て直しになると言うことが起きている。


リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln's Inn Fields → 2016年7月3日付ブログで紹介済)の
広場内から見たイングランド王立外科医師会


師匠のジョージ・ダンス(子)が1772年3月24日に結婚したことに伴い、(サー・)ジョン・ソーンは、英国の建築家であるヘンリー・ホランド(Henry Holland:1745年ー1806年)の下へ移る。


王立芸術院において、(サー・)ジョン・ソーンは、1772年12月10日にシルバーメダルを、そして、1776年12月10日にゴールドメダルを獲得する等、優れた成績を残す。

その後、(サー・)ジョン・ソーンは、1777年12月に奨学金(3年間)を得て、1778年3月18日、欧州大陸への留学へ出発。最終的には、同年5月2日、イタリアのローマに辿り着くのである。


2025年6月23日月曜日

コナン・ドイル作「高名な依頼人」<小説版>(The Illustrious Client by Conan Doyle )- その2

英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号に掲載された挿絵(その1)-
1902年9月3日、トルコ風呂で寛いでいたジョン・H・ワトスンに対して、
シャーロック・ホームズは、
カールトンクラブのサー・ジェイムズ・デマリー大佐から届いた手紙を見せる。
「ある特別な件について、依頼したい。」とのことだった。
画面左側の人物が、ジョン・H・ワトスンで、
画面右側の人物が、シャーロック・ホームズ。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(Howard Keppie Elcock:1886年ー1952年)

ハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)の第2子(長男)で、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝(House of Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝であるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年 → 2025年5月10日 / 5月26日 / 5月31日 / 6月8日 / 6月15日付ブログで紹介済)が国王に即位した後に登場した「高名な依頼人(The Illustrious Client)」は、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、50番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1925年2月号と同年3月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1924年11月8日号に掲載された。

同作品は、1927年に発行されたホームズシリーズの第5短編集「シャーロック・ホームズの事件簿(The Case-Book of Sherlock Holmes)」に収録されている。



コナン・ドイル作「高名な依頼人」は、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンがトルコ式風呂(Turkish Bath)に居るところから始まる。


Both Holmes and I had a weakness for the Turkish Bath. It was over a smoke in the pleasant lassitude of the drying-room that I found him less reticent and more human than anywhere else. On the upper floor of the Northumberland Avenue establishment there is an isolated corner where two couches lie side by side, and it was on these that we lay upon September 3, 1902, the day when my narrative begins. I had asked him whether anything was stirring, and for answer he had shot his long, thin, nervous arm out of the sheets which enveloped him and had drawn an envelope from the inside pocket of the coat which hung beside him.


右手奥に見えるのが、「ネヴィルのトルコ式風呂(Neville's Turkish Bath)」の
女性用入口であった場所


ホームズも私(ワトスン)もトルコ式風呂には目がなかった。乾燥室内に漂う心地良い脱力感の下、一服すると、ホームズの無口さは影を潜め、いつになく人間らしい彼を垣間見ることができた。ノーサンバーランドアベニューにある施設の上階には、2つの寝椅子が隣り合って並ぶ隔離した一角がある。1902年9月3日、私達はそれらの寝椅子の上に身を横たえていた。正にその日、これから述べる物語が始まるのである。私はホームズに対して、今手掛けている事件はあるのかを尋ねた。すると、ホームズは、私の質問に答えるために、包まっていたシーツから、細長くて神経質そうな手をさっと出すと、側に掛かっていたコートの内ポケットから封筒を取り出したのである。


セントジェイムズストリート(St. James's Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)沿いに建つ
カールトンクラブ(黄土色の建物)


その手紙は、前日の夜、カールトンクラブ(Carlton Club → 2014年11月16日付ブログで紹介済)から出されていた。

手紙の差出人は、サー・ジェイムズ・デマリー大佐(Colonel Sir James Damery)で、非常に繊細かつ重要な相談事のため、明日の午後4時半にベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を訪れたい、とのことだった。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1925年2月号に掲載された挿絵(その2)-
1902年9月3日の午後4時半に、ベイカーストリート221Bを訪れた
サー・ジェイムズ・デマリー大佐は、
待っていたシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンに対して、
「ド・メルヴィル将軍の娘であるヴァイオレット・ド・メルヴィルが、
悪名高いオーストリア貴族のグルーナー男爵に騙されて、婚約してしまった。
これは、ある非常に高名な方からの依頼で、この婚約を破棄させてほしい。」と説明した。
画面左側から、シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトスン、
そして、サー・ジェイムズ・デマリー大佐。
挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック
(1886年ー1952年)


手紙の内容通り、サー・ジェイムズ・デマリー大佐は、ベイカーストリート221B のホームズの元を訪ねて来た。

デマリー大佐の話によると、ド・メルヴィル将軍(General de Merville)の令嬢であるヴァイオレット・ド・メルヴィル(Violet de Merville)が、今、オーストリアのアデルバート・グルーナー男爵(Baron Adelbert Grunner:現在、英国のキングストン(Kingston)近くのヴァーノンロッジ(Vernon Lodge)に居住)に夢中で、彼と結婚しようとしていた。

実際、グルーナー男爵はハンサムであるが、非常に残虐な男である。本人曰く、彼が当時結婚していた妻は事故で死亡したと言って、プラハでの裁判では罪を免れたが、本当は彼が自分の妻を自ら殺害したものと一般には考えられていた。

ド・メルヴィル将軍をはじめ、ド・メルヴィル嬢の周りの者は彼女にグルーナー男爵との結婚を思いとどまるよう言い含めるものの、グルーナー男爵に対する妻殺害疑惑を濡れ衣だと思い込まされている彼女の態度は非常に頑なで、どんな説得にも耳を貸そうとはしなかったのである。


コナン・ドイル作「高名な依頼人」における
各登場人物の相関関係を示した図
(Dorling Kindersley Limited から発行されている
「The Sherlock Holmes Book」から抜粋)


ホームズは、デマリー大佐に対して、本件にかかる本当の依頼人が誰なのかを尋ねたが、デマリー大佐は、「依頼人が匿名を望んでいること」、そして、「依頼人の名前が、この事件に一切関与しないことが重要であること」を告げ、本当の依頼人の正体を一切明らかにしなかったのである。


「ド・メルヴィル嬢とグルーナー男爵の結婚をなんとか阻止してほしい。」というデマリー大佐の依頼を受けたホームズは、早速行動を開始すると約束した。


2025年6月22日日曜日

ロンドン リンカーンズ・イン・フィールズ16番地(16 Lincoln’s Inn Fields)

左側から、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地 / 14番地
(サー・ジョン・ソーンズ博物館)、
リンカーンズ・イン・フィールズ15番地(メルスン教授の宿泊先)、そして、
リンカーンズ・イン・フィールズ16番地(時計師であるジョハナス・カーヴァーの住居)。

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1935年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第5作目に該る「死時計(Death-Watch → 2025年4月30日 / 5月4日付ブログで紹介済)」の場合、9月4日、風が吹くひんやりした夜の12時近く、ギディオン・フェル博士とメルスン教授(Professor Melson - 歴史学者で、ギディオン・フェル博士の友人)が、ホルボーン通り(Holborn → 2025年5月6日付ブログで紹介済)を歩いていところから、その物語が始まる。

2人は、劇場で映画を観た帰りで、メルスン教授が宿泊する予定のリンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln’s Inn Fileds → 2016年7月3日付ブログで紹介済)へと向かっていた。メルスン教授は、当初、ブルームズベリー地区(Bloomsbury)に宿泊しようとしたが、生憎と、どこも満員だったため、居心地が悪そうではあったものの、リンカーンズ・イン・フィールズ15番地(15 Lincoln’s Inn Fields → 2025年6月17日付ブログで紹介済)に寝室兼居間を見つけていた。

その日の午後、メルスン教授は、フォイルズ書店(Foyles → 2025年5月7日 / 5月9日付ブログで紹介済)において、中世ラテン語の写本辞書を見つけており、これは正真正銘の掘り出し物のため、ギディオン・フェル博士は、メルスン教授の宿でそれを見せてもらおうと考えていたのである。



 彼らはリンカンズ・イン・フィールズの北側へ出た。広場そのものは、昼間見るよりも広大に見える。家々の正面はひっそりと静まり返り、とざされたカーテンの奥から明りがちらほら洩れているだけで、木立ちにしても、整然とした森のようであった。かすんだ月が空にかかり、街灯のように青ざめている。

「右へ曲がるんです」メイスンが言った。「あれがソーン博物館です。この二軒むこうが……」のっぺりした家々を見上げながら、地下勝手口の湿った鉄柵に手を走らせ、「わたしの泊まっている家です。隣がジョハナスの家です。なんにもならないんじゃないでしょうか、つっ立ってあの家を見ていても……」

「はっきりしたことはわからんのだが」フェル博士が言った。「玄関のドアがあいている……」

 二人とも足をとめた。博士の言葉に、メルスンははっとした。十六番地の家には、少しも明りが見えなかったからだ。月と街灯の光にぼんやりと照らし出され、ぼやけた絵のように見えたーほとんど黒のように見える赤煉瓦造りの、重苦しくて高い、幅の狭い家で、角枠が白く浮き出て、玄関前の石段を上がったところに、石造の円柱が、時計の天蓋ほどの小さなポーチの屋根を支えている。その大きなドアが開けはなたれている。それが軋ったようにメルスンには思えた。「何でしょうー?」と、メルスンは言った。自分にのささやき声が思わず高くなっているのに気づいた。

(吉田 誠一訳)


更に、メルスン教授は、家の真ん前の木の下に、ひときわ黒い影を見てとった。問題の家から呻き叫ぶ声が聞こえると、木の下の人影がその場を離れると、家の玄関前の石段を上がって行った。その人物の頭に、警官のヘルメットが黒く浮かび上がるのを見て、メルスン教授は思わずホッとした。


ギディオン・フェル博士が、その警官に追い付くと、彼は、スコットランドヤードのディヴィッド・ハドリー主任警部(Chief Inspector David Hadley)の部下であるピアスだった。

ギディオン・フェル博士、メルスン教授とピアス警官の3人が、有名な時計師(clockmaker)であるジョハナス・カーヴァー(Johannus Carver)の家の玄関ホールに入ると、奥に一続きの階段があり、2階から射している明かりが階段下まで届いていた。3人が階段を上がり、2階の奥にある両開きのドアへと向かった。


その部屋では、2人の人間が入口の敷居を見つめており、もう一人は椅子に座って両手で頭をかかえていた。更に。その敷居のところには、一人の男が右脇をやや下にして仰向けに倒れていた。


最初の2人は、ジョハナス・カーヴァーの養女であるエリナー・カーヴァー(Eleanor Carver)とカーヴァー家の同居人であるカルヴィン・ボスコーム(Calvin Boscombe)で、カルヴィン・ボスコームは手にピストルを持っていた。

椅子に座って両手で頭をかかえていたのは、カルヴィン・ボスコームの友人で、スコットランドヤード犯罪捜査部(CID)の元主任警部(former Chief Inspector)であるピーター・E・スタンリー(Peter E. Stanley)だった。


そして、敷居のところに倒れていた男は、ピストルで撃たれた訳ではなく、背後から喉を貫き、胸の中へ突き刺されて殺されていた。被害者の体から突き出ている凶器を見たギディオン・フェル博士は、ジョハナス・カーヴァーがある貴族のために製作していた大時計から盗まれた長針だと推測する。

更に、驚くことに、後に判明した被害者の身元は、なんと、ガムリッジデパートの貴金属宝石売場において発生した事件を担当していたジョージ・フィンリー・エイムズ警部(Detecive-Inspector George Finley Ames)だったのである。

非常に不可思議な事件だと言えた。


リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場


リンカーンズ・イン・フィールズとは、ロンドンの特別区の一つであるロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のホルボーン地区(Holborn → 2016年9月24日 / 2025年4月22日付ブログで紹介済)内にある広場とその周辺地域を指している。

厳密に言うと、リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場、東側、北側および西側の建物はロンドン・カムデン区に属しているが、南側の建物はシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属している。また、リンカーンズ・イン・フィールズは、ロンドン・カムデン区最古の広場で、かつ、ロンドン最大の面積を誇っている。


メルスン教授が言う「ソーン博物館」とは、「サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済)」のことで、英国の新古典主義を代表する建築家で、1788年にロバート・テイラー(Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の邸宅兼スタジオを使用しており、彼が手掛けた建築に関する素描、図面や建築模型、更に、彼が収集した絵画や骨董品等を所蔵している。


なお、サー・ジョン・ソーンズ博物館は、現在、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地 / 14番地(12, 13, 14 Lincoln’s Inn Fields)の3棟を占めているが、サー・ジョン・ソーンの死に際して、国家に寄贈されたのは、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の建物のみ。寄贈の際、同12番地の賃貸収入が博物館の運営資金となることを、彼が意図していたのである。

19世紀の終わり頃までに、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の後方の部屋と同13番地の博物館を繋げる作業が実施され、1969年からは、同12番地も、学術図書館 / オフィスとして運営される。

1997年に文化遺産宝くじ基金(National Lottery Heritage Fund)による援助を受けて、リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の残りの大部分が購入され、現在に至っている。


左側の建物が、サー・ジョン・ソーンズ博物館の一部であるリンカーンズ・イン・フィールズ14番地、
中央の建物が、
メルスン教授が泊まっているリンカーンズ・イン・フィールズ15番地で、
右側の建物が、
有名な時計師であるジョハナス・カーヴァーが住む
リンカーンズ・イン・フィールズ16番地。


従って、ジョン・ディクスン・カーが1935年に「死時計」を発表した時点では、リンカーンズ・イン・フィールズに面した表側の建物のうち、博物館として機能していたのは、リンカーンズ・イン・フィールズ13番地だけである。


それ故に、メルスン教授は、ギディオン・フェル博士に対して、自分が泊まっている家(リンカーンズ・イン・フィールズ15番地)を指し示す際、「あれがソーン博物館です。この二軒むこうが、わたしの泊まっている家です。」と発言している訳だと言える。


日本の出版社である東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「死時計」の裏表紙
カバーイラスト:山田 雅史

現在のリンカーンズ・イン・フィールズ16番地の建物には、
ジョン・ディクスン・カー作「死時計」の裏表紙に描かれたような
地面から家の玄関までの長めの石段は存在していない。
また、リンカーンズ・イン・フィールズ16番地の場所として、
リンカーンズ・イン・フィールズの北西(左上)の角に
① が表示されているが、
実際には、もっと右側の位置、
リンカーンズ・イン・フィールズの北側の真ん中辺りが正しい。

そして、メルスン教授が「隣がジョハナスの家です。」と述べているように、彼が泊まっていたリンカーンズ・イン・フィールズ15番地の隣りの建物であるリンカーンズ・イン・フィールズ16番地(16 Lincoln’s Inn Fields)が、有名な時計師ジョハナス・カーヴァーが住み、ガムリッジデパートの貴金属宝石売場において発生した事件を担当していたジョージ・フィンリー・エイムズ警部が殺害されると言う不可思議な事件が発生した場所である。


ジョン・ディクスン・カーの原作によると、リンカーンズ・イン・フィールズ16番地の場合、地面から家の玄関まで長めの石段があるように記されているが、現在の建物には、そのように長い石段はない。

また、外観から判断する限り、現在、普通の住居として使用されている模様。


2025年6月21日土曜日

ロンドン ヘンリーストリート(Henry Street)

アベニューロード(Avenue Road)沿いに建つ邸宅(その1)


英国の作家であるミシェル・バークビー(Michelle Birkby)作の長編第2作目に該る「ベイカー街の女たちと幽霊少年団(The Women of Baker Street → 2025年5月2日 / 5月24日 / 5月29日 / 6月4日付ブログで紹介済)」(2017年)の場合、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)の家主であるハドスン夫人(Mrs. Hudson - マーサ・ハドスン(Martha Hudson))は、腹部の閉塞症のため、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)で緊急手術を受けるところから、物語が始まる。


画面中央のアベニューロードを間にして、
左側がロンドン中心部のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に、
右側がロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)に属している。


同病院の特別病棟内のベッドの上で目を覚ましたハドスン夫人は、モルヒネと麻酔薬の投与により、目が覚めた後も頭にまだ霞がかかったようになっていた。

その時、ハドスン夫人は、病室のとりわけ暗い一角に、うごめく影のかたまりを見た。ハドスン夫人が目を凝らしていると、影のかたまりは、彼女のベッドの裾を横切り、彼女の斜向かいにあるベッドへと向かった。朦朧とする意識のなか、ハドスン夫人は、その影のかたまりがそのベッドの上に覆いかぶさるのを目撃した後、突如、深い眠りへ引きずり込まれると、意識が遠のく。

翌朝、ハドスン夫人が再度目覚めると、シスターと若い医師が、彼女の斜向かいの空っぽのベッドの側に立って、話し合いをしているのが聞こえた。昨夜、ハドスン夫人が目撃した通り、影のかたまりが覆いかぶさっていたベッドの女性は、今朝、亡くなっているのが見つかったのである。




それから数日後の夜、ハドスン夫人は、消灯後、眠りに落ちたが、午前3時頃、悪夢に襲われて、目が覚めた。目が覚めたものの、何故か、身体が全く動かず、また、助けを呼ぼうにも声も出なかった。

すると、入院初日の晩と全く同じことが起きる。病室の隅の黒いかたまりから、人の形をしたものがすうっと出て来たのだ。そして、エマ・フォーダイス(Emma Fordyce - ミランダ・ローガン(Miranda Logan)の正面に居る患者 / 歳を召していて、あちこち悪いところがあるみたいだが、老いを楽しんでいる様子 / 過去に非凡な面白い体験をしていて、思い出話を他の人に聞かせるのが大好き)が眠るベッドの側に立った。その時、エマ・フォーダイスが目を覚まして、はっと息をのんだ後、悲鳴を上げようとしたが、その人影は、いきなり側にあった枕を掴むと、彼女の顔に押し付けた。エマ・フォーダイスは激しく暴れた、次第に抵抗が弱くなり、最後は、ぐったりとして動かなくなった。

ハドスン夫人は、入院初日に続き、2つ目の殺人現場を目撃したことになる。


アベニューロードは、リージェンツパークの北側、
そして、プリムローズヒル(Primrose Hill)の左側(西側)を
南北に延びる通りである。


一方、ワトスン夫人(Mrs. Watson)となったメアリー・ワトスン(Mary Watson - 旧姓:モースタン(Morstan))は、ベイカーストリート221B の給仕のビリー(Billy)経由、ベイカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)のウィギンズ(Wiggins)から聞いた話が気になっていた。

それは、「幽霊少年団(The Pale Boys)」のことだった。

(1)夜間だけ、街角に姿を見せる。

(2)街灯の明かりには決して近付かない。

(3)往来の激しい大通りには、足を踏み入れない。

(4)全員、青白い顔をして、闇に溶け込みそうな黒づくめの服装をしている。

(5)薄暗い道端や人気の無い路地を彷徨く。

(6)何年経っても、歳をとらないし、飲んだり食べたりもしない。

(7)彼らの姿を見た者は、死んでしまう。

(She told me the tale of the Pale Boys. Boys who came onto the street only at night. They never came into the light. They never went onto the Main Street. They had pale faces, and all black clothes, and they melted into the shadows. They walked in dark corners and deserted alleyways. They never grew old, and never ate or drank and if you saw them, you would die.)


アベニューロード沿いに建つ邸宅(その2)


セントバーソロミュー病院を退院したハドスン夫人と同席するメアリー・ワトスンは、セントバーソロミュー病院の特別病棟内で発生した殺人事件とロンドン市内姿を現す「幽霊少年団」の2つの謎を追うことになった。


ハドスン夫人とメアリー・ワトスンは、まず最初に、ハドスン夫人と同室だったエリナー・ランガムエリナー・ランガム(Eleanor Langham - ベティー・ソランド(Betty Soland)の正面に居る患者 / 心臓病のため、最近手術を受けたばかり / ベッドの脇にある椅子が定位置で、大抵の時間は、ただ椅子に腰掛けて、周りの様子を眺めている)が住むパークロード(Park Road → 2025年6月11日付ブログで紹介済)沿いに建つ家を訪ねた。


英国の Pam Macmillan 社から2017年に出版された
ミシェル・バークビー作「ベイカー街の女たちと幽霊少年団」
ペーパーバック版内に付されている
セントバーソロミュー病院の特別病棟の見取り図


一旦、ベイカーストリート221B へと戻って来た2人は、セントバーソロミュー病院で亡くなったサラ・マローン(Sarah Malone - ハドスン夫人の左側に居る患者 / かなり深刻な容体で、死期が迫っている / 始終ぶつぶつと何かを呟いている)の家へ行くために、辻馬車を使って、その日2度目の外出をした。


アベニューロード沿いに建つ邸宅(その3)


Again following Sherlock’s rules, we got off a few streets away from our final destination. As we strolled to Sarah’s house, taking the opportunity to see if we were being followed, or if anyone else had got there first, I looked around. We were on Henry Street, near the north end of the park.

 ‘I thought I knew this area,’ I said to Mary. ‘I used to own several houses here.’

 ‘Boarding houses?’

 ‘ No, these were mostly homes I rented out. That was one of mine. And that one.’ I gestured to a three-storey dove-grey house, set back from the road, surrounded by a garden. It was one of the stylish, huge houses built during the Regency for newly rich families to entertain, but the family that had owned it had long ago lost their money, and the house. I had bought it very cheaply, though I had never really been able to find tenants for such a place. It had been a neat, clean house when I owned it. Now the ’To Let’ board was lying in the ragged garden, covered by brown decaying leaves, and the house was dishearteningly silent.


アベニューロード沿いに建つ邸宅(その4)


馬車を降りる際も、ホームズさんのやり方にならって目的地から二、三本離れた通りを選んだ。そこからサラ・マローンの家まで歩く途中、あたりの様子をうかがって、尾行している者はいないか、ここへ先回りした者はいないか、注意深く確認した。わたしたちはリージェンツ・パークの北のはずれに近いヘンリー街に来ていた。

「このあたりには詳しいのよ」わたしはメアリーに言った。「昔、何軒か家を持っていたから」

「そこも下宿屋だったの?」

「いいえ、貸家にしていたわ。あれがそのうちの一軒。それから、あれも」わたしは三階建ての紫がかった灰色の家を指した。通りから引っこんだ、まわりを庭に囲まれた場所にある。ジョージアン時代後半のデザイン様式、リージェンシー・スタイルで造られた、客をもてなす新興階級向けの瀟洒な邸宅だ。界隈には同じような大きな家が建ち並んでいる。だが、なかには財産を失って家を手放す所有者もいた。わたしはその家をずいぶん前にかなりの安値で買い取ったのだが、適当な借主はなかなか見つからなかった。購入時は立派でぴかぴかだった家も、現在は枯葉が降り積もった荒れ放題の庭に”貸家”の札がしょんぼりとうずくまっているありさま。建物全体が寂しげに沈黙している。

(駒月 雅子訳)


アベニューロード沿いに建つ邸宅(その5)


ハドスン夫人とメアリー・ワトスンの2人は、サラ・マローンの家へ行くために、シャーロック・ホームズの流儀に習って、リージェンツパーク(Rengent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)の北の外れに近いヘンリーストリート(Henry Street)辺りを歩いているが、現在の住所表記上、ロンドン市内に、ヘンリーストリートは存在していないので、おそらく、架空の住所だと思われる。

なお、別の場所ではあるものの、ロンドン市内に、ヘンリーロード(Henry Road)と言う通りは存在している。


ちなみに、画像上、リージェンツパークの北側から北へ延びるアヴェニューロード(Avenue Road)沿いに建つ邸宅の写真を便宜的に使用している。