2024年7月3日水曜日

エラリー・クイーン作「チャイナ橙の謎」(The Chinese Orange Mystery by Ellery Queen) - その1

米国の Penzler Publishers 社から
American Mystery Classics シリーズの1冊として
2018年に出版された
エラリー・クイーン作「チャイナ橙の謎」の表紙
< Cover Image : Andy Ross
           Cover Design : Mauricio Diaz >

ニューヨークのチャンセラーホテル(Hotel Chancellor)22階にある
富豪で出版社の社長であるドナルド・カーク(Donald Kirk)の事務所において、
正体不明の男性が殺害される。
部屋の調度品が全て上下逆にひっくり返されている中、
俯せに倒れた彼の着衣は全て裏返しにされていることに加えて、
2本のアフリカ槍が彼の身体と服の間に挿し込まれている状態で発見されるのである。

正直に言って、表紙を描いた人物は、
原作をほとんど読まないで、描いている。
原作通り、俯せになってはいるものの、
(1)両方の靴の履き方が通常通りのままである。
(2)また、
アフリカ槍が1本しかない上に、
彼の身体と服の間に挿し込まれていない

(これについては、表紙上に描くのは、難しいのかしれないが...)
(3)更に、最大の誤りは、物語の重要な要素となるネクタイであり、
原作上、ネクタイをしていないにもかかわらず、
表紙には、ネクタイが描かれている。


今回は、米国の推理作家 / 編集者であるエラリー・クイーン(Ellery Queen)が1934年に発表した「チャイナ橙の謎(The Chinese Orange Mystery)」について、紹介したい。


エラリー・クイーンは、ユダヤ系移民の子で、従兄弟同士であるフレデリック・ダネイ(Frederic Dannay:1905年ー1982年)とマンフレッド・ベニントン・リー(Manfred Bennington Lee:1905年ー1971年)の合作ペンネームである。

実は、フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーも、ペンネームであり、フレデリック・ダネイの本名は、ダニエル・ネイサン(Daniel Nathan)で、マンフレッド・ベニントン・リーの本名は、マンフォード・エマニュエル・レポフスキー(Manford Emanuel Lepofsky)である。

合作において、まず最初に、フレデリック・ダネイがプロットとトリックを考案して、それをマンフレッド・リーに対して、伝える。そして、2人で議論を重ねた後、マンフレッド・リーが執筆すると言う手法を採った。これは、プロットを考案する能力は天才的である一方、文章を書くのが苦手なフレデリック・ダネイと、文章は上手い一方、プロットを考案するのが苦手なマンフレッド・リーの2人の弱点を補完するためであった。


エラリー・クイーンは、著者と同姓同名で、著者と同じ推理作家を職業とするエラリー・クイーン(Ellery Queen)をシリーズキャラクターのアマチュア名探偵として設定している。エラリー・クイーンは、ニューヨーク市警に勤める父リチャード・クイーン(Richard Queen)警視を助けて、数々の難事件を解決していく。


エラリー・クイーンの初期には、以下の国名シリーズが発表されている。


(1)「ローマ帽子の謎(The Roman Hat Mystery)」(1929年)

(2)「フランス白粉の謎(The French Powder Mystery)」(1930年)

(3)「オランダ靴の謎(The Dutch Shoe Mystery)」(1931年)

(4)「ギリシア棺の謎(The Greek Coffin Mystery)」(1932年)

(5)「エジプト十字架の謎(The Egyptian Cross Mystery)」(1932年)

(6)「アメリカ銃の謎(The American Gun Mystery)」(1933年)

(7)「シャム双子の謎(The Siamese twin Mystery)」(1933年)

(8)「チャイナ橙の謎」(1934年)

(9)「スペイン岬の謎(The Spanish Cape Mystery)」(1935年)

(10)「ニッポン樫鳥の謎(The Door Between)」(1937年)


上記の国名シリーズの場合、「僧正殺人事件(The Bishop Murder Case → 2024年2月7日 / 2月11日 / 2月15日 / 2月19日付ブログで紹介済)」(1929年)を初めとする素人探偵であるファイロ・ヴァンス(Philo Vance)シリーズ12長編を発表した米国の推理作家である S・S・ヴァン・ダイン(S. S. Van Dine - 本名:美術評論家のウィラード・ハンティントン・ライト(Willard Huntington Wright:1888年ー1939年))による影響が見られるが、「読者への挑戦状(Challenge to the Reader)」等、エラリー・クイーン独自の工夫もあることに加えて、手掛かりの解釈の緻密さや大胆さを両立させており、推理小説ファンの中では、本格探偵小説としての評価が非常に高い。


2024年7月2日火曜日

薔薇戦争(Wars of the Roses)- その4

英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
同戦争の終結となる「ボズワースの戦い」
(1485年8月22日)が
描かれている


1455年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、「薔薇戦争(Wars of the Roses)」の火蓋が切って落とされた。

薔薇戦争は、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の権力闘争である。ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、現在、「薔薇戦争」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。


「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans)」が契機となり、以後30年間にわたって、ランカスター家とヨーク家の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられrるが、「薔薇戦争」は、以下の3つの期に分けられる。


*第一次内乱(1459年ー1468年)

*第二次内乱(1469年ー1471年)

*第三次内乱(1485年)


今回は、「第三次内乱」について、述べる


薔薇戦争の第二次内乱を平定したヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)の残りの次世は、比較的に、平和が保たれた。


エドワード4世は、第3代ヨーク公爵リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年-1460年 → 薔薇戦争の第一次内乱中の1460年12月30日、ウェイクフィールドの戦い(Battle of Wakefield)において、戦死)とセシリー・ネヴィル(Cecily Neville:1415年ー1495年)の長男であるが、弟として、


(1)次男 - ラトランド伯爵エドムンド・プランタジネット(Edmund Plantagenet, Earl of Rutland:1443年ー1460年 → 父親と同じく、ウェイクフィールドの戦いにおいて、戦死

(2)六男 - 初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネット(George Plantagenet, 1st Duke of Clarence:1449年ー1478年 → エドワード4世擁立の立役者となった母方の従兄に該る実力者で、妻イザベル・ネヴィル(Isabel Neville:1451年ー1476年)の父親でもあるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル(Richard Neville, Earl of Warwick:1428年-1471年)と一緒に、兄エドワード4世に対して、反旗を翻し、薔薇戦争の第二次内乱を引き起こしたが、途中で従兄を見限って、兄に合流)

(3)八男 - グロスター公爵リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, Duke of Gloucester:1452年-1485年 / 後に、リチャード3世(Richard III:在位期間 1483年ー1485年 → 2024年6月14日付ブログで紹介済)として即位)


が居る。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


幼少の頃に父親を失ったリチャード・プランタジネットは、兄エドワードや母方の従兄に該るウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの庇護を受けた。

1461年に兄がエドワード4世として、ヨーク朝の初代イングランド王に即位すると、リチャードは、グロスター公爵(Duke of Gloucester  在位期間:1461年-1483年)に叙せられた。


政権内の勢力闘争の結果、ランカスター派に寝返ったウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルによって、兄エドワード4世が1470年に、王位から一時的に追放される。

グロスター公爵リチャードは、幼少期に庇護を受けた恩があるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルから誘いを受けたもの、一貫して兄エドワード4世への忠誠を誓い、翌年の1471年、兄の王位復位に貢献する。


その一方で、グロスター公爵リチャードは、1472年に、反逆者ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの娘であるアン・ネヴィル(Anne Neville:1456年ー1485年)と結婚。

なお、アン・ネヴィルは、薔薇戦争の第一次内乱(1459年ー1468年)に敗北し、フランスへ亡命していたランカスター朝の第3代イングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)の王太子(Prince of Wales)であるエドワード・オブ・ウェストミンスター(Edward of Westminster:1453年ー1471年)と結婚していたが、1471年5月4日に行われたテュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury)において、エドワード・オブ・ウェストミンスターは、捕らわれて、処刑されたため、未亡人となっていた。


アン・ネヴィルの姉イザベル・ネヴィルと既に結婚していた兄の初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットとの間で、グロスター公爵リチャードは、広大なウォーリック伯爵領の相続をめぐり、対立を深めていく。

兄の初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットは、妻イザベルの死去(1476年)に伴い、ウォーリック伯爵領の相続争いに敗れた上に、エドワード4世への反逆疑惑を理由に、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)に幽閉の上、1478年に処刑された。その結果、グロスター公爵リチャードは、ウォーリック伯爵領を独占相続した。

兄のラトランド伯爵エドムンド・プランタジネットも1460年に死去していたこともあり、グロスター公爵リチャードは、兄エドワード4世に次ぐ実力者としての地位を確立したのである。


それも束の間で、兄エドワード4世の王妃であるエリザベス・ウッドヴィル(Elizabeth Woodville:1437年頃ー1492年)の一族が政権内で勢力を伸ばし始めたため、グロスター公爵リチャードは、これと敵対するようになる。


1483年4月9日、フランス討伐の準備中だったエドワード4世が死去したことに伴い、同年4月10日、彼の長男であるエドワード5世(Edward V:1470年ー1483年 在位期間:1483年4月10日ー同年6月25日 → 2023年10月4日付ブログで紹介済)が、父王の跡を継ぎ、12歳で王位を継承して、ヨーク朝の第2代イングランド王となった。エドワード5世が若かったため、彼の叔父であるグロスター公爵リチャードが、摂政(Protector)に就任。


エドワード5世がイングランドのシュロップシャー州(Shropshire)内にある居城ラドロー城(Ludlow Castle)からロンドンへと向かう中、グロスター公爵リチャードは、第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィル(Anthony Woodville, 2nd Earl of Rivers:1440年ー1483年)を初めとする王妃エリザベス・ウッドヴィル一派を逮捕して、エドワード5世に組する忠臣を排除。

更に、グロスター公爵リチャードは、エドワード5世と彼の弟である初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリー(Richard of Shrewsbury, 1st Duke of York and 1st Duke of Norfolk:1473年ー1483年 → 2023年10月4日付ブログで紹介済)をロンドン塔に幽閉した。彼ら2人は、「塔の王子達(Princes in the Tower)」と呼ばれるようになる。


フランスの画家であるポール・ドラローシュ(Paul Delaroche -
本名:イッポリト・ド・ラ・ローシュ(Hippolyte De La Roche)/ 1797年ー1856年)作
「ロンドン塔のエドワード5世とヨーク公
(Edward V and the Duke of York in the Tower)」(1831年)-
ロンドンのウォレスコレクション(Wallace Collection → 2014年6月15日付ブログで紹介済)で
筆者が購入した絵葉書から抜粋。


2ヶ月後の同年6月25日、グロスター公爵リチャードは、イングランド議会に、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの婚姻は無効のため、エドワード5世と弟の初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人は、エドワード4世の「嫡子」ではなく、「庶子」であると認定の上、エドワード5世の王位継承を無効と議決させた。グロスター公爵リチャードが逮捕した第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィルは、その際に処刑されている。

その結果、同年6月26日、グロスター公爵リチャードは、イングランド議会によって推挙され、リチャード3世として、ヨーク朝の第3代イングランド王に即位したのである。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
リチャード3世の肖像画の葉書
(Unknown artist / Late 16th century / Oil on panel
638 mm x 470 mm) 


リチャード3世即位に貢献した第2代バッキンガム公爵ヘンリー・スタッフォード(Henry Stafford, 2nd Duke of Buckingham:1454年ー1483年)が、1483年10月に反乱を起こす。リチャード3世は、これを鎮圧したが、他にも反乱の火種がくすぶり続け、政情は不安定な状態のままに進んだ。


1484年4月、リチャード3世の一人息子で、王太子(Prince of Wales)のエドワード・オブ・ミドルハム(Edward of Middleham:1473年ー1484年)が夭逝した上に、1485年3月には、王妃アン・ネヴィルも病死すると言う不幸が続く。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ランカスター家とヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


フランスに亡命していたランカスター家の分家筋に該るリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー(Henry Tudor, Earl of Richmond:1457年ー1509年)が、1485年8月、王位請求者として、フランスから英国へ侵入。

ヨーク派の国王リチャード3世軍とランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー軍は、同年8月22日、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、相まみえた。リチャード3世は、味方の裏切りもあって、孤軍奮戦するが、戦死した。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
ヘンリー7世の肖像画の葉書
(Unknown Netherlandish artist / 1505年 / Oil on panel
425 mm x 305 mm) 


その結果、1485年8月22日、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王ヘンリー7世(Henry VII - 在位期間:1485年ー1509年)として即位し、翌年の1486年1月18日、ヨーク家系の王位継承権を有していたエリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York:1466年ー1503年)を王妃として迎える。

なお、エリザベス・オブ・ヨークは、ヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世の王女、ヨーク朝の第2代イングランド王であるエドワード5世の姉で、ヨーク朝の第3代かつ最後のイングランド王であるリチャード3世の姪である。


英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」の表紙
(Cover design by Jo Walker)-
表紙左上の王冠は、1485年8月22日、
ボズワースの戦いにおいて、
孤軍奮闘するも、味方の裏切りもあって、戦死した
ヨーク朝の第3代かつ最後のイングランド王である
リチャード3世を指している。
ボズワースの戦いでリチャード3世に勝利した
ランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、
テューダー朝の初代イングランド王ヘンリー7世として即位し、
ヨーク家からエリザベス・オブ・ヨークを王妃として迎える。
表紙左右の花は、テューダー家の徽章で、
ランカスター家の赤薔薇(外側)と
ヨーク家の白薔薇(内側)を合わせた形になっている。

この結婚を以って、ヘンリー7世は、30年間にわたって内乱を繰り広げていたランカスター家とヨーク家の2つの王家を統合するとともに、ランカスター家の徽章である「赤薔薇」とヨーク家の徽章である「白薔薇」を組み合わせた「テューダーローズ(Tudor Rose - 「赤薔薇」が外側で、「白薔薇」が内側)」を用いるようになった。 


2024年7月1日月曜日

ロジャー・スカーレット作「猫の足」(Cat’s Paw by Roger Scarlett)- その3

米国の Penzler Publishers 社から
American Mystery Classics シリーズの1冊として
2022年に出版された
ロジャー・スカーレット作「猫の足」の内扉


(2)「Part I : The Evidence」


物語は、1931年6月13日、大富豪のマーティン・グリーンノー(Martin Greenough)が住むボストンのフェンウェイ屋敷(Fenway estate)と呼ばれるゴシック建築の広大な邸宅から始まる。

マーティン・グリーンノーは、75歳の誕生日を迎えようとしていた。

マーティン・グリーンノーは、長い間、未亡人であるエディス・ワーデン(Mrs. Edith Warden - 40歳近い)と一緒に暮らしていたが、入籍するには至っていなかった。

そんな中、マーティン・グリーンノーは、自分の75歳の誕生日を祝うパーティーに、甥や姪を招いたのである。


<6月13日>

フランシス・グリーンノー(Francis Greenough)が到着。


<6月14日>

ハッチンスン・グリーンノー(Hutchinson Greenough)

アメリア・グリーンノー(Amelia Greenough - ハッチンスンの妻)

ジョージ・ピカリング(George Pickering)

の3人が到着。


<6月15日>

ブラックストーン・グリーンノー(Blackstone Greenough)

ステラ・アーウィン(Stella Irwin - フランシスの元恋人で、現在は、ブラックストーンの恋人)

の2人が到着。


マーティン・グリーンノーは、甥や姪に対して、生活には全く困らない程度に資金的な援助を行っていたが、彼らが独自に職を得て自活することを厳しく禁じていた。そうすることで、マーティン・グリーンノーは、甥や姪を完全に自分のコントロール下に置き、自分の意のままに操っていたのである。

甥や姪は、表面上、彼のことを「マット伯父(Cousin Matt)」と呼んで慕っていたが、実際には、自分達をコントロールに置いて、自由な生活をさせない伯父のことを苦々しく思っていた。その中で、姪のアン・ピカリング(Anne Pickering)だけは、公然と反旗を翻して、伯父の75歳の誕生日にも出席しないことを明確にしていた。


更に、アメリア・グリーンノーによる度重なる盗癖問題が表面化しており、夫のハッチンスン・グリーンノーとの間で、大きな火種を抱えていた。


米国の Penzler Publishers 社から
American Mystery Classics シリーズの1冊として
2022年に出版された
ロジャー・スカーレット作「猫の足」に付されている
大富豪のマーティン・グリーンノーが住むボストンのフェンウェイ屋敷の
2階見取り図

そして、マーティン・グリーンノーの75歳の誕生日である6月17日の夜、遂に事件が発生するのであった。


<6月17日>


*午後7時ー午後8時15分:

マーティン・グリーンノーの75歳の誕生日を祝うディナーパーティーが開催される。その席上、マーティン・グリーンノーは、明後日(6月19日)に、エディス・ワーデンと結婚することを正式に発表した。

マーティン・グリーンノーがエディス・ワーデンと結婚することで、彼の死後、彼の全財産はエディス・ワーデンの元へと行くことになり、甥と姪は、今まで我慢してきた代償として得られる筈だった遺産相続の権利を失うことになるのであった。


*午後8時15分ー午後9時半:

ディナーパーティー後、甥の4人(フランシス・グリーンノー /  ハッチンスン・グリーンノー / ジョージ・ピカリング / ブラックストーン・グリーンノー)は、ディナーの席で酒を飲み始める。一方、女性陣(エディス・ワーデン / アメリア・グリーンノー / ステラ・アーウィン)は、マーティン・グリーンノーに連れられて、図書室へと移動し、カードゲームに興じる。


*午後9時半:

マーティン・グリーンノーは、2階の自室へと退く。


*午後9時45分ー午後10時:

ハッチンスン・グリーンノーは、マーティン・グリーンノーに呼ばれて、2階へと上がり、15分後、戻って来る。


*午後10時15分ー午後11時:

ハッチンスン・グリーンノーを除く全員が庭へと出て、花火に興じる。ハッチンスン・グリーンノーは、2階の自室から、彼らの花火を見物していたものと思われる。

午後10時45分頃、邸宅の2階から、銃声らしき音が聞こえたが、庭で花火に興じていた人達は、気付かなかった。


*午後11時ー午後11時半:

庭での花火を終えた皆が図書室へ戻ると、そこには、アン・ピカリングが居た。


*午後11時半:

アン・ピカリングを含む皆が2階のマーティン・グリーンノーの自室を訪れると、マーティン・グリーンノーが殺されていることを発見。


果たして、マーティン・グリーンノーを殺害したのは、一体、誰なのか?

マーティン・グリーンノーがエディス・ワーデンと結婚することで、今まで我慢してきた代償として得られる筈だった遺産相続の権利を失うことになった甥と姪のうちの誰かなのか?


この謎に対して、休暇から戻って来たボストン(Boston)警察の犯罪捜査部(Bureau of Criminal Investigation)のノートン・ケイン警部(Inspector Norton Kane)が挑むのであった。