2025年9月17日水曜日

ロンドン セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)- その1

セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders → 2025年8月30日付ブログで紹介済)」の場合、事件の舞台となるウェイド博物館(Wade Museum - 大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存)は、クリーヴランドロウ(Cleveland Row → 2025年9月5日付ブログで紹介済)沿いに建っている。


東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)


博物館はセント・ジェイムズ宮から、広場を一つ隔てたクリーヴランド・ロウにあります。

(ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部(Inspector John Carruthers))

<宇野 利泰訳>


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントジェイムズ地区の地図を抜粋。


私は車をとばして、ヘイ・マーケット(Haymarket)を過ぎ、人っ子ひとり通らぬペル・メル街(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)を走り抜けました。これだけひろいロンドンでも、深夜、あの時刻のセント・ジェイムズ・ストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)のはずれぐらい、寂しい感じをあたえる場所はありますまい。月が皎々と照っていまして、宮殿の門にかけられた金の大時計が、十二時を五分過ぎたことを知らせていました。西クリーヴランド・ロウのあたりは、すっかり灯も消えて、暗くなっておりました。ですから私は、ホスキンズから教わってはいましたが、裏手へまわることはしませんで、直接博物館の玄関へ、車を駐めたのでした。

(ジョン・カラザーズ警部)

<宇野 利泰訳>


クリーヴランドロウを挟んで、事件の舞台となるウェイド博物館の反対側に建つセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内に所在する最も古い宮殿の一つである。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ向かう通りは、ヘイマーケット通りとパル・マル通りの2つに分かれる。


夕暮れが迫るパル・マル通り
<筆者撮影>


ヘイマーケット通りは北上して、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)へと至る。

一方、パル・マル通りは更に西進して、進行方向左手にセントジェイムズ宮殿が見えたところで、セントジェイムズストリートとクリーヴランドロウの2つに分かれる。


セントジェイムズストリートの西側から東側を見たところ -
画面右奥斜めに延びる通りは、ジャーミンストリート(Jermyn Street)
<筆者撮影>


セントジェイムズストリートは北上して、ピカデリーサーカスからハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)へと向かって西進するピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)に突き当たり、終わっている。


クリーヴランドロウの東端 -
画面手前を右へ行くと、セントジェイムズストリートへ、
そして、画面左手へ戻ると、パル・マル通りへと至る。
なお、画面左側に建っているのは、セントジェイムズ宮殿。
<筆者撮影>


クリーヴランドロウは、セントジェイムズ宮殿の前を通り、更に西へ進み、グリーンパーク(Green Park)の手前で終わっている。


ケンブリッジ大学(University of Cambridge)創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターである
クェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が描いた
ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


セントジェイムズ宮殿は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王で、


*6回の結婚

*イングランド国教会の創設(自らが国教会の首長となる)とカトリック教会からの分離

*ローマ教皇庁との対立に伴う宗教改革(修道院の解散)


等で知られているヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)の命令により、公的な生活から逃れるための住まいとして、1531年から1536年にかけて、聖ジェイムズ(Saint James the Less)に捧げられたハンセン病患者用病院(leper hospital)が以前あった場所に建てられた。

ヘンリー8世は、当初、セントジェイムズ宮殿を、同宮殿の南側にあるセントジェイムズパーク(St. James’s Park)において鹿狩りを行うための狩猟用ロッジ(hunting lodge)として使用。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)
で販売されている
アン・ブーリンの肖像画の葉書
(Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel
543 mm x 416 mm) 


セントジェイムズ宮殿には、ヘンリー8世と彼の2番目の王妃で、後のエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年ー1603年)の生母でもあるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)のイニシャル「H. A.」が各所に記された。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
メアリー1世の肖像画の葉書
(Master John / 1544年 / Oil on panel
711 mm x 508 mm) 


テューダー朝の第4代イングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)は、セントジェイムズ宮殿において死去し、彼女の心臓と内臓は、同宮殿内の王室礼拝堂に埋葬されている。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年)も、セントジェイムズ宮殿を屡々使用し、1588年7月から8月にかけ、英仏海峡において、当時、「無敵」と呼ばれたスペイン艦隊(Spanish Armada)との間で行われた「アルマダの海戦(Battle of Armada)」の結果を待つ間、同宮殿で眠れむ夜を過ごしたと言われている。


世界一周航海を成し遂げたガレオン船ゴールデンハインド号
(Golden Hind)の舳先に立つサー・フランシス・ドレイク
(Sir Francis Drake:1543年頃ー1596年)-
サー・フランシス・ドレイクは、
イングランドの黄金期と言われている「エリザベス朝(Elizabethan era)」に、
海賊(私掠船の船長)、航海者、そして、英国海軍提督(中将)として活躍した人物で、

彼の最大の功績は、当時、「無敵」と呼ばれたスペイン艦隊(Spanish Armada)を相手にして、

1588年7月から8月にかけ、英仏海峡で行われた「アルマダの海戦(Battle of Armada)」において、

大勝利を収め、スペインによるイングランド侵攻を防いだことである。

厳密に言うと、彼は英国艦隊副司令官であったが、

実際には、艦隊の指揮を執り、火の付いた船をスペイン艦隊へと突撃させると言う海賊戦法を実践して、

相手を壊滅状態へと追い込んだ。

フランシス・ドレイク自身も、エリザベス1世とともに、

イングランド人にとって、英雄と看做されているが、海賊行為やアルマダの海戦の勝利等から、

スペイン人には、悪魔の化身であるドラゴンを意味する「ドラコ(Draco)」と呼ばれた。


結果として、「アルマダの海戦」に大勝利を収め、スペインによるイングランド侵攻を防いだことにより、エリザベス1世は、英国史における最も偉大な勝利者として、認識されるようになった。


2025年9月16日火曜日

横溝正史作「黒猫亭事件」/ 「車井戸はなぜ軋る」(Murder at the Black Cat Cafe / Why did the Well Wheel creak? by Seishi Yokomizo)

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2025年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「黒猫亭事件」の表紙
(Jacket illustration by Thomas Hayman /
Jacket design by Jo Walker)

今回は、日本の推理作家である横溝正史(Seishi Yokomizo:1902年ー1981年)による金田一耕助(Kosuke Kindaichi)シリーズの長編である

(1)「本陣殺人事件(The Honjin Murders → 2024年3月16日 / 3月21日 / 3月26日 / 3月30日付ブログで紹介済)」(1946年)

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2019年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「本陣殺人事件」の表紙
(Cover design by Anna Morrison)

(2)「獄門島(Death on Gokumon Island → 2024年3月4日 / 3月6日 / 3月8日 / 3月10日付ブログで紹介済)」(1947年ー1948年)

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2022年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「獄門島」の表紙
(Cover design by Anna Morrison)

(3)「八つ墓村(The Village of Eight Graves → 2025年1月20日 / 1月27日 / 1月29日付ブログで紹介済)」(1949年ー1951年)

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2021年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「八つ墓村」の表紙
(Cover design by Anna Morrison)

(4)「犬神家の一族(The Inugami Curser → 2024年4月26日 / 4月29日 / 5月1日 / 5月3日付ブログで紹介済)」(1950年ー1951年)

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2020年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「犬神家の一族」の表紙
(Cover design by Anna Morrison)

(5)「悪魔が来りて笛を吹く(The Devil’s Flute Murders → 2025年2月1日 / 2月9日 / 2月12日付ブログで紹介済)」(1951年-1953年)

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「悪魔が来りて笛を吹く」の表紙
(Cover design by Anna Morrison)

(6)「悪魔の手毬唄(The Little Sparrow Murders → 2024年7月12日 / 7月18日 / 7月27日 / 7月31日付ブログで紹介済)」(1957年ー1959年)

英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2024年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

横溝正史作「悪魔の手毬唄」の表紙
(Cover design by Anna Morrison)

に続き、中編の「黒猫亭事件(Murder at the Black Cat Cafe)」と短編の「車井戸はなぜ軋る(Why did the Well Wheel creak?)」の2作品について、紹介したい。

中編の「黒猫亭事件」は、「小説」1947年(昭和22年)12月号に発表された。ただし、発表時の原題は、「黒猫」になっている。

短編の「車井戸はなぜ軋る」は、「読物春秋」1949年(昭和24年)1月増刊号に発表された。

なお、発表時、金田一耕助は登場していなかったが、1955年5月に「金田一耕助探偵小説選」に本作品が収録される際に、金田一耕助シリーズに改稿されている。

また、時系列的に言うと、本作品(1946年10月ー12月頃)は、「獄門島」(1946年9月下旬ー同年10月上旬)を解決した後に取り組んだ事件となる。


中編の「黒猫亭事件」と短編の「車井戸はなぜ軋る」の場合、日本の出版社である角川書店から出ている角川文庫「本陣殺人事件」に収録されている。


次回以降、中編の「黒猫亭事件」と短編の「車井戸はなぜ軋る」に関して、個別に紹介していきたい。


2025年9月15日月曜日

クリストファー・ジョーンズ・ジュニア (Christopher Jones Jr.)

ロザーハイズ地区内に所在するセントメアリー教会に設置されている
クリストファー・ジョーンズ・ジュニア像
<St. Christopher Statue commemorating Christopher Jones>(その1)-
「Rotherhithe - History, art and the Mayflower」の冊子から抜粋。


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作が、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、43番目に発表された作品である「瀕死の探偵(The Dying Detective → 2025年5月5日 / 5月21日付ブログで紹介済)」に出てくるロザーハイズ地区(Rotherhithe → 2025年8月31日 / 9月6日付ブログで紹介済)は、ロンドンの特別区の一つであるサザーク区(London Borough of Southwark)内にある地区で、テムズ河(River Thames)の南岸にあり、テムズ河へ半島のように突き出している場所にある関係上、北側、東側と西側の三方はテムズ河に囲まれている。

以前、ロザーハイズ地区内にあったカンバーランド波止場(Cumberland Wharf)は、1620年に米国へ渡った「メイフラワー号(Mayflower)」が一番最初に出航した場所である。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1913年12月号に掲載された挿絵(その1) -
ジョン・H・ワトスンがシャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、
2年が経過していた。
ベイカーストリート221B の家主であるハドスン夫人が、
ワトスンの家を訪ねて来る。ホームズが謎の病に罹り、
瀕死の状態に陥っている、とのこと。
ハドスン夫人の依頼を受けて、ワトスンは、
直ぐにホームズの元へと向かい、
熱帯病に詳しい医師を連れて来ようと提案するものの、
何故か、ホームズは一切聞き入れず、
後で自分が指定する人物を読んで来るようにと言い張ったのである。
画面右側から、シャーロック・ホームズ、
そして、ジョン・H・ワトスン。
挿絵:ウォルター・スタンリー・パジェット
(Walter Stanley Paget:1862年 - 1935年)

なお、ウォルター・スタンリー・パジェットは、
シャーロック・ホームズシリーズのうち、

第1短編集の「シャーロック・ホームズの冒険

(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)、

第2短編集の「シャーロック・ホームズの回想

(The Memoirs of Sherlock Holmes)」(1893年)、

第3短編集の「シャーロック・ホームズの帰還

(The Return of Sherlock Holmes)」(1905年)および

長編第3作目の「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」

「ストランドマガジン」1901年8月号から1902年4月号にかけて連載された後、

単行本化)の挿絵を担当したシドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)の弟である。


「メイフラワー号」とは、ピューリタン(清教徒)であるピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers)が、英国ステュアート朝(House of Stuart)のジェイムズ1世(James I:1566年ー1625年 在位期間:1603年ー1625年)による宗教弾圧を恐れて、1620年に米国へ渡った際に乗船した船である。

その際、クリストファー・ジョーンズ・ジュニア(Christopher Jones Jr.:1570年頃ー1622年)が、「メイフラワー号」の船長を務めた。


ロザーハイズ地区内に所在するセントメアリー教会に設置されている
クリストファー・ジョーンズ・ジュニア像
<St. Christopher Statue commemorating Christopher Jones>(その2)-
「Rotherhithe - History, art and the Mayflower」の冊子から抜粋。


クリストファー・ジョーンズ・ジュニアは、1570年頃、エッセクス州(Essex)の港町であるハリッジ(Harwich)に出生。

父親は、船乗り / 船主であるウェールズ系のクリストファー・ジョーンズ・シニア(Christopher Jones Sr.:?ー1578年)で、母親は、イングランド系のシビル・ジョーンズ(Sybil Jones)。


クリストファー・ジョーンズ・ジュニア像 -
ブルネル博物館(Brunel Museum)で購入したティータオルから抜粋。


父のクリストファー・ジョーンズ・シニアが1578年に亡くなった際、クリストファー・ジョーンズ・ジュニアは、18歳で父の船を引き継いだ。

クリストファー・ジョーンズ・ジュニアは、1593年に、船主の娘であるサラ・ツウィット(Sara Twitt:1576年ー1603年)と結婚し、長男トマス(Thomas)を設けるが、1596年に幼くして亡くなってしまう。また、妻のサラも、1603年に死去。

クリストファー・ジョーンズ・ジュニアは、1603年に、船乗りの未亡人であるジョシアン・グレイ(Josian Gray:1584年ー?)と再婚し、


(1)1604年 - 次男:クリストファー・ジョーンズ(Christopher Jones)

(2)1607年 - 三男:トマス・ジョーンズ(Thomas Jones)

(3)1609年 - 長女:ジョシアン・ジョーンズ(Josian Jones)

(4)1611年 - 四男:ロジャー・ジョーンズ(Roger Jones)

(5)1614年 - 五男:クリストファー・ジョーンズ(Christopher Jones)

(6)1615年 - 次女:ジョーン・ジョーンズ(Joane Jones)

(7)1619年 - 三女:グレース・ジョーンズ(Grace Jones)

(8)1621年 - 六男:ジョン・ジョーンズ(John Jones)


の8人の子供を設ける。


セントメアリー教会 -
ブルネル博物館で購入したティータオルから抜粋。


クリストファー・ジョーンズ・ジュニアは、1609年8月の時点で、「メイフラワー号」の船長を務め、船主の一人となっていた。「メイフラワー号」は、主に貨物船として、欧州各国(フランス、ドイツ、スペインやノルウェー)とイングランドの間で貨物(主にワイン)を運んだ。

クリストファー・ジョーンズ・ジュニア一家は、1611年に、ハリッジからロザーハイズ地区へ居を移したため、「メイフラワー号」の母港も、ロザーハイズ地区となった。


主に貨物船として、欧州各国とイングランドの間で貨物を運んでいた「メイフラワー号」は、船長であるクリストファー・ジョーンズ・ジュニアの指揮の下、1620年9月16日(ユリウス暦:1620年9月6日)に、英国デヴォン州(Devon)プリマス(Plymouth → 2023年9月8日付ブログで紹介済)を出港して、新天地である米国(現在のマサチューセッツ州(Commonwealth of Massachusettes)プリマス(Plymouth))に辿り着き、有名な大西洋横断航海を成し遂げた。

なお、「メイフラワー号」の一番最初の出航地は、元々、母港としていたロザーハイズ地区内のカンバーランド波止場(Cumberland Wharf → 2025年9月11日付ブログで紹介済)で、65名を乗せて出港し、プリマスに着く前に、サザンプトン(Southampton)に寄港して、食糧等の補給を受けている。


当初、「メイフラワー号」と「スピードウェル号(Speedwell)」の2隻で米国へ向かう予定であったが、1620年8月15日(ユリウス暦:1620年8月5日)にサザンプトンを出港した後、「スピードウェル号」に水漏れが発生して、ダートマス(Dartmouth → 2023年9月6日付ブログで紹介済)で修理を受けた。

修理後、「スピードウェル号」は再度大西洋へ向かって出港したが、再度、水漏れが起こり、プリマスへ戻った。

その結果、2隻で予定されていた航海が1隻となり、「メイフラワー号」のみで米国へと向かうことになった。


当時、「メイフラワー号」には、


*船長:クリストファー・ジョーンズ・ジュニア

*乗組員:25名ー30名

*乗客:102名


が乗船したため、荷物のスペースが非常に制限されることになった。


セントメアリー教会ストリートから見たセントメアリー教会
<筆者撮影>


1621年夏頃に歴史上燦然と輝く大西洋横断航海からイングランドに戻った後も、クリストファー・ジョーンズ・ジュニアは、「メイフラワー号」の船長を引き続き務めていたが、1622年3月、フランスへの航海から戻る途中、大西洋上で亡くなり、同年3月5日に、セントメアリー教会(St. Mary’s Church)に埋葬された。

また、その1年後の1623年に、「メイフラワー号」は、ロザーハイズ地区で解体されている。


2025年9月14日日曜日

コナン・ドイル作「花婿失踪事件」<小説版>(A Case of Identity by Conan Doyle )- その3

1891年9月号に掲載された挿絵(その3) -
結婚式を挙げる金曜日の朝、キングスクロスの近くにあるセントサヴィオール教会に、
メアリー・サザーランドと彼女の母親は先に到着して、
後から着いた馬車の中からホズマー・エンジェルが降りて来るを待った。
ところが、彼女達がいつまで待っても、ホズマー・エンジェルは、一向に姿を現さない。
そこで、ホズマー・エンジェルが乗って来た馬車の御者が降りて、馬車の中を見てみると、
ホズマー・エンジェルの姿は忽然と消えていたのである。
画面手前左側から、ホズマー・エンジェルが乗って来た馬車の御者、
そして、メアリー・サザーランド


サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作シャーロック・ホームズシリーズの短編第3作目に該る「花婿失踪事件(A Case of Identity)」の場合、ジョン・H・ワトスンが、数週間ぶりに、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れたところから、その物語が始まる。

ホームズとワトスンの2人が会話を交わしている最中、事件の依頼人であるメアリー・サザーランド(Mary Sutherland)が、給仕の少年に案内されて、部屋へと入って来た。

「結婚式の場から行方不明になったホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)を探してほしい。」と依頼する彼女の話は、更に続く。



ロンバードストリート(Lombard Street
→ 2015年1月31日付ブログで紹介済)から
フェンチャーチストリートを望む。
<筆者撮影>


彼女の母親の再婚相手であるジェイムズ・ウィンディバンク(James Windibank - メアリー・サザーランドの母親よりも15歳近く年下)は、フェンチャーチストリート(Fenchurch Street → 2014年10月17日付ブログで紹介済)にある大きな赤ワイン輸入業者ウェストハウス&マーバンク(Westhouse & Marbank)で外交員をしている、とのことだった。


義理の父となったジェイムズ・ウィンディバンクは、メアリー・サザーランドに対して、男友達との交際を禁じていたが、彼がフランスへ出張している間に、彼女は、ガス管取付業界の舞踏会(gasfitters' ball)へ出かけ、そこでホズマー・エンジェルと知り合い、間もなく婚約した。



レドンホールストリート沿いに建つロイズ保険組合の本社ビル「ロイズビル」-
ロイズ(Lloyd’s)」とは、正式には、
「ロイズ・オブ・ロンドン(Lloyd’s of London
→ 2023年12月8日付ブログで紹介済)」と言う。
<筆者撮影>


ホズマー・エンジェルは、レドンホールストリート(Leadenhall Street → 2014年10月5日付ブログで紹介済)にある事務所で出納係(cashier)として働いていて、寝起きもその事務所でしている(He slept on the premises.)と言う。

ホームズが驚いたことに、メアリー・サザーランドは、ホズマー・エンジェルが働いている事務所の住所を、レドンホールストリート以外、全く知らなかったのである。ホームズの疑問に対して、彼女は、「ホズマー・エンジェルは、事務所宛に手紙を送られると、女性から手紙をもらったことで、他の社員達からからかわれるので、自分から彼への手紙は、全て、レドンホールストリート郵便局の局留めで送っていた。(To the Leadenhall Street Post Office, to be left till called for.)」と言う説明をした。


不思議なことは、他にもあった。

ホズマー・エンジェルがメアリー・サザーランド宛に寄越す手紙は、全てタイプライターで打たれているのにもかかわらず、彼女から彼宛の手紙は、手書きを望んだ。これに対して、彼は「手紙がタイプライターで打たれていると、2人の間に機械が挟まったような感じがする。(when they were typewritten he always felt that the machine had come between us.)」と言う説明をした。

更に、ホズマー・エンジェルがメアリー・サザーランドと一緒に外へ出かけるのに、昼間よりも夜を選んだ。(He would rather walk with me in the evening than in the daylight.)それに関しても、彼は「人眼を引くのが、大嫌いだ。()」と言う言い訳をした。(he said that he hated to be conspicuous.)彼女は、「彼は非常に恥ずかしがり屋なのだ。(He was a very shy man, Mr Holmes.)」と、好意的に解釈していた。

若い頃、扁桃腺を患って、炎症を起こしたため、喉が弱くなり、躊躇うような、囁くような話し方をすること、また、強い光から弱い目を守るため、色付きの眼鏡をしていること等、ホズマー・エンジェルの行動には、不自然な点が多々あると言えた。


義理の父ジェイムズ・ウィンディバンクが再度フランスへ出張した際、ホズマー・エンジェルがメアリー・サザーランドの家を訪れて、「ジェイムズ・ウィンディバンクさんがフランスへ出かけているうちに、結婚式を挙げるべきだ。」と説得した。(Mr Hosmer Angel came to the house again and proposed that we should marry before father came back.)

彼女は母親にも相談したが、母親も、ホズマー・エンジェルを非常に気に入っており、「結婚式のことは、後で報告すればよい。」と答えた。


残念ながら、セントサヴィオール教会は実在しておらず、
セントパンクラス オールド教会(St. Pancras Old Church)が、その候補地と思われる。
<筆者撮影>


その結果、ホズマー・エンジェルとメアリー・サザーランドは、金曜日の朝に結婚式を挙げることが決まった。

メアリー・サザーランドとホズマー・エンジェルは、キングスクロスの近くにあるセントサヴィオール教会(St. Saviour's (Church) near King's Cross 2014年10月11日付ブログで紹介済)で結婚式を挙げ、その後、セントパンクラスホテル(St. Pancras Hotel)へ移動して、そこで結婚披露朝食会を開催する運びとなったのである。


セントパンクラスホテルの正面入口
<筆者撮影>


ユーストンロード(Euston Road)から見上げたセントパンクラスホテルの建物
<筆者撮影>


結婚式を挙げる金曜日の朝、ホズマー・エンジェルは、メアリー・サザーランドの家に、二人乗り馬車(hansom)で迎えに来た。

ホズマー・エンジェル、メアリー・サザーランドと彼女の母親の3人では、二人乗り馬車には乗れないため、ホズマー・エンジェルは、メアリー・サザーランドと彼女の母親を、自分が乗って来た二人乗り馬車に乗せ、自分は通りに居た四輪辻馬車(four-wheeler)に乗り込んだ。

セントサヴィオール教会には、メアリー・サザーランドと彼女の母親が先に到着。彼女と彼女の母親は、後から着いた四輪辻馬車からホズマー・エンジェルが出て来るのを待つが、彼は一向に姿を現さない。そこで、四輪辻馬車の御者が降りて馬車の中を見てみると、ホズマー・エンジェルの姿は忽然と消えていた。

更に驚くことに、それ以降、彼の消息がつかめなくなったのである。


2025年9月13日土曜日

ロンドン パル・マル プレイス(Pall Mall Place)

エンジェルコートのパル・マル通り側(南側)入口(その1)
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders → 2025年8月30日付ブログで紹介済)」の場合、事件の舞台となるのは、クリーヴランドロウ(Cleveland Row → 2025年9月5日付ブログで紹介済)沿いに建つウェイド博物館(Wade Museum - 大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存)である。

東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)

あなた方もおそらく、ジェフリー・ウェイド老人のことはご存じと存じますが、銀行に膨大な預金を持っているので、有名な男なんです。銀行預金の額に驚いたといっても、老人はそれだけでは喜びません。私はまだ、直接会ったことはないのですが、年はとっても情熱的、というよりもむしろ、エキセントリックなきらいがあるくらいで、<地上最大のショーマン>と呼ばれることに、自分でも満足を感じている様子なんです。そのほかセント・ジェイムズに、かなり大きな地所を持っていまして、そのうちペル・メル・プレイスのあたりには、一ブロックにわたって、貸住宅を建てております。

(ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部(Inspector John Carruthers)

<宇野 利泰訳>


エンジェルコートのパル・マル通り側(南側)入口(その2)
<筆者撮影>


ウェイド博物館を開設したジェフリー・ウェイドが貸住宅を建てたパル・マル プレイス(Pall Mall Place)は、以前、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内にあった。


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントジェイムズ地区の地図を抜粋。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ向かう通りは、ヘイマーケット通り(Haymarket)とパル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)の2つに分かれる。


夕暮れが迫るパル・マル通り
<筆者撮影>


ヘイマーケット通りは北上して、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)へと至る。


セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>


一方、パル・マル通りは更に西進して、進行方向左手にセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)が見えたところで、セントジェイムズストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)とクリーヴランドロウの2つに分かれる。


セントジェイムズストリートの西側から東側を見たところ -
画面右奥斜めに延びる通りは、ジャーミンストリート(Jermyn Street)
<筆者撮影>


セントジェイムズストリートは北上して、ピカデリーサーカスからハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)へと向かって西進するピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)に突き当たり、終わっている。


クリーヴランドロウの東端 -
画面手前を右へ行くと、セントジェイムズストリートへ、
そして、画面左手へ戻ると、パル・マル通りへと至る。
なお、画面左側に建っているのは、セントジェイムズ宮殿。
<筆者撮影>


クリーヴランドロウは、セントジェイムズ宮殿の前を通り、更に西へ進み、グリーンパーク(Green Park)の手前で終わっている。


エンジェルコートの途中から
パル・マル通り側(南側)を見たところ
<筆者撮影>


エンジェルコートの途中から
キングストリート側(北側)を見たところ
<筆者撮影>


パル・マル通りの北側には、キングストリート(King Street)が、パル・マル通りに並行して、東西に延びており、東側のセントジェイムズスクエア(St. James’s Square → 2014年12月7日付ブログで紹介済)と西側のセントジェイムズストリートを結んでいる。


エンジェルコート沿いに設置されている彫刻(その1)
<筆者撮影>

エンジェルコート沿いに設置されている彫刻(その2)
<筆者撮影>

西側から順番に、以前は、


(1)クラウンパッセージ(Crown Passage)

(2)エンジェルコート(Angel Court)

(3)パル・マル プレイス


の3本の小道が存在していて、パル・マル通りとキングストリートを南北に結んでいた。


セントジェイムズ劇場(St. James's Theatre)が
エンジェルコートのキングストリート側(北側)に建っていたことを示すプレート
<筆者撮影>

エンジェルコートのキングストリート側(北側)入口横で、
現在、パブ「黄金の獅子(The Golden Lion)」が営業している。

<筆者撮影>


クラウンパッセージとエンジェルコートの2つについては、現在も残っているが、残念ながら、パル・マル プレイスに関しては、周辺の建物が再開発されたことに伴い、現在は残っていない。

そのため、便宜上、エンジェルコートの写真を使用している。