2018年6月30日土曜日

ロンドン コックレーン(Cock Lane)–その1

スノーヒル通り側から見たコックレーン–
黒死荘があった場所の候補地の一つ

米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で発表した長編第2作目で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める長編第1作目となる「黒死荘の殺人(The Plague Court Murder→2018年5月6日 / 5月12日付ブログで紹介済)」では、降霊会の最中、黒死荘(The Plague Court)の庭に建つ石室内において、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)が血の海の中で無残にも事切れていた。石室は厳重に戸締りされている上に、石室の周囲には、足跡が何も残されていなかった。それに加えて、殺害されたロジャー・ダーワースの傍らには、前日の午後、ロンドン博物館から盗まれた曰く付きの短剣が真っ赤な血に染まって残されていたのである。


ロジャー・ダーワースが殺害された黒死荘があった場所は、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)内にあり、サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」において、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが初めて出会ったセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew’s Hospital→2014年6月14日付ブログで紹介済)の近くにある。

スノーヒル通り側から見たコックレーンの奥
(ギルップールストリート側に近い方)では、
現在、建物の建替工事中のため、
通行止めとなっている

セントバーソロミュー病院を右手に見て、ギルップールストリート(Giltspur Street→2018年6月9日 / 6月16日 / 6月23日付ブログで紹介済)を北上し、左手に見える最初の通りへ左折したところにあるコックレーン(Cock Lane)で、来週紹介予定のホウジアレーン(Hosier Lane)と並んで、黒死荘があった場所の候補地の一つである。

コックレーンから見たスノーヒル通り

コックレーンの東側は、ギルップールストリートから始まり、西側は、有名な肉市場であるスミスフィールド(Smithfield Market)から南下するスノーヒル通り(Snow Hill)に突き当たって終わっている。また、コックレーンは、来週紹介予定のホウジアレーンの南側で、ホウジアレーンに並行するように、東西に延びる通りである。

2018年6月24日日曜日

ロンドン ケンジントンスクエア41番地(41 Kensington Square)

初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズが住んでいた
ケンジントンスクエア41番地の建物全景

ロンドンにあるロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属美術学校(Antique School)の学友だったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rosetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)、初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年:2018年3月25日 / 4月1日 / 4月14日 / 4月21日 / 4月28日付ブログで紹介済)とウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt:1827年ー1910年→2018年5月20日 / 5月26日付ブログで紹介済)の三人が1848年に結成した「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)と呼ばれる芸術グループを英国の画壇の主流へと押し上げた英国の画家 / デザイナーである初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年)が住んでいた家がケンジントンスクエア41番地(41 Kensington Square)にあり、ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン地区(Kensington)内に所在している。


ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)を右手に見て、地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station→2018年6月25日付ブログで紹介済)へと向かって西に延びるケンジントンロード(Kensington Road)を進み、進行方向右手のケンジン宮殿(Kensington Palace)を過ぎると、通りはケンジントンハイストリート(Kensington High Street→2018年7月9日付ブログで紹介済)へと名前を変える。

ケンジントンスクエアの中央にあるケンジントンスクエアガーデン(その1)
ケンジントンスクエアの中央にあるケンジントンスクエアガーデン(その2)

現在、ホールフーズマーケット(Whole Foods Market)が入居しているビルの手前で、ケンジントンハイストリートを左折して、ヤングストリート(Young Street)へと入る。ヤングストリートを南下して、突き当たったところにケンジントンスクエアガーデン(Kensington Square Garden)があり、この北側に建ち並ぶ家の一つが、ケンジントンスクエア41番地の建物である。

ケンジントンスクエア41番地の建物外壁
ケンジントンスクエア41番地の玄関口のアップ

ケンジントンハイストリートは、複数の路線バスが通るケンジントン地区のメインストリートで、日中 / 夜間を問わず、車の往来が多いが、ヤングストリート経由、ケンジントンハイストリートから一歩内に入ったケンジントンスクエアの辺りは、高級住宅街の一つで、日中でも人通りは少なく、非常に閑静な環境にある。

2018年6月23日土曜日

ロンドン ギルップールストリート(Giltspur Street)–その3

英国の作家 / エッセイストであるチャールズ・ラムの胸像と記念碑が建物外壁に設置されている
The Watch House(ギルップールストリート10番地)

ギルップールストリート(Giltspur Street)とホルボーン高架橋通り(Holborn Viaduct)の角に建つ教会 St. Sepulchre Without Church に隣接する The Watch House(ギルップールストリート10番地)の建物外壁には、英国の作家 / エッセイストであるチャールズ・ラム(Charles Lamb:1775年ー1834年)の胸像と記念碑が設置されている。


チャールズ・ラムは、インナーテンプル(Inner Temple)法曹院の幹部サミュエル・ソールト(Samuel Salt)の秘書を務めた父の下、ロンドンに出生。
学校を卒業した後、正業として、彼は南海会社(South Sea Companyー南アフリカ大陸及びその周辺諸島と英国との貿易を独占することを目的に、1711年に設立された勅許会社)、続いて、東インド会社(East India Companyーアジア貿易を目的に、1600年に設立された勅許会社)に30年以上も勤務し、恩給をもらって退職。
正業としての会社勤務をしていた1796年9月22日、精神の病を患っていた実姉のメアリー・ラム(Mary Lamb:1764年ー1847年)が発作を起こして、突然お針子にナイフで襲いかかり、それを制止しようとした母親を刺殺してしまう。チャールズ・ラムは、姉のメアリーをイズリントン病院に入院させ、自分は結婚を断念して、精神疾患のために不定期に発作に見舞われる姉の面倒を一生見続けたのである。

The Watch House は、1791年に建設されたが、
第二次世界大戦中の1941年に破壊された。
その後、1962年に再建された。
チャールズ・ラムの胸像と記念碑–
1962年に The Watch House が再建された際に、Christchurch Greyfriars から移設された

チャールズ・ラムは、正業としての会社勤務と実姉の面倒に加えて、副業としての文筆業を始め、1807年1月末に姉メアリーとの共著で「シェイクスピア物語(Tales from Shakespeare)」を発表。また、彼は「エリア(Elia)」の筆名でエッセイ集「エリアの随筆(Essays of Elia)」を1823年と1833年に発表している。

Christchurch Greyfriars–
第二次世界大戦中に甚大な被害を蒙った
現在、Christchurch Greyfriars Garden として保存され、
シティー・オブ・ロンドン内で働く人達にとって
憩いの場となっている

チャールズ・ラムの胸像と記念碑は、元々、1782年から1789年にかけて彼が在学していたクライスト・ホスピタル学校(School of Christ’s Hospital)があった近くに建つ教会 Christchurch Greyfriars(ニューゲートストリート(Newgate Street→2018年5月19日付ブログで紹介済)沿い)に、1934年から設置されていたが、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中に教会が甚大な被害を蒙ったこともあり、The Watch House(元々は、1791年に建設され、1941年に破壊)が1962年12月に再建された際に、Christchurch Greyfriars から移設されたのである。

2018年6月17日日曜日

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones)–その3

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)に所蔵されている
初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「Love and the Pilgrim」(1896年ー1897年)

後に初代准男爵(1st Baronet)となったエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones:1833年ー1898年)は、絵画に加えて、セラミックスのタイル、ジュエリーやタペストリー等の工芸品を制作したり、本の挿絵や舞台衣装のデザイン等も手掛けている。
彼は、オックスフォード大学エクセターカレッジ(Exeter College, Oxford)在学中に、トマス・マロリー(Thomas Malony:1399年ー1471年)の「アーサー王の死(Le Morte d’Arthur)」に出会って、大きな影響を受けており、1894年にライシアム劇場(Lyceum Theatre→2014年7月12日付ブログで紹介済)の監督で、俳優でもあったヘンリー・アーヴィング(Henry Arving:1838年ー1905年)からの依頼を受け、同劇場で上演する「アーサー王(King Arthur)」の舞台衣装に携わっている。

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズは、1880年にサセックス州(Sussex)のブライトン(Brighton)近郊にあるロッティングディーン(Rottingdean)に別荘を購入するとともに、ロンドンのフラム地区(Fulham)のノースエンドロード(North End Road)沿いにある本宅の隣理に建つコテージを手に入れて、ノースエンドハウス(North End House)を建設しようとした。

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズは、1881年にオックスフォード大学から名誉学位(honorary degree)を授与された後、翌年の1882年に特待校友(Honorary Fellow)となった。
彼は、1885年にバーミンガム芸術家協会(Birmingham Society of Arts)の会長(President)にも就任した。
また、彼は、1894年にナイトに叙せられ、それに伴い、「Burne Jones」から「ハイフン(hyphen)」付きの「Burne-Jones」へと改名した。

1896年、オックスフォード大学エクセターカレッジ以来の友人であるウィリアム・モリス(William Morris:1834年ー1896年)の死去に精神的な打撃を受けたエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズは、次第に自身の健康を害していき、1898年、インフルエンザに罹患し、一旦回復したものの、その後急に再度悪化して、同年6月17日に永眠した。

当時、プリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales:王太子)で、後にサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代国王となるエドワード1世(Edward I:1841年-1910年 在位期間:1901年-1910年)の仲介により、エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズの葬儀は、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)で執り行われたが、芸術家がそのような光栄に浴したのは、初めてのことであった。なお、彼が埋葬されたのは、彼の別荘があったロッティングディーンのマーガレット教会(St. Margaret’s Church)の墓地である。

2018年6月16日土曜日

ロンドン ギルップールストリート(Giltspur Street)–その2

ギルップールストリートの北端にある
West Smithfield Rotunda Garden(その1)–
画面中央奥に中央刑事裁判所(Central Criminal Court)が見える

プランタジネット朝最後のイングランド王であるリチャード2世(Richard II:1367年ー1400年 在位期間:1377年ー1399年)は、1378年と1380年の2回、百年戦争(Hundred Year’s War:1337年ー1453年→フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国とプランタジネット朝 / ランカスター朝イングランド王国の戦い)でフランスに奪われた元イングランド地域の奪還を目指して、欧州大陸へと遠征したものの、目的を達することができなかった。2回にわたる大陸遠征により、膨大な戦費調達が必要となって、リチャード2世は人頭税の導入を図る。

ギルップールストリートの北端にある
West Smithfield Rotunda Garden(その2)

ただし、この人頭税が、上層階級に対しては軽く、逆に下層階級に対しては重い税制だったため、1381年6月、増税に反対する下層階級の農民や労働者が反乱を起こす。屋根瓦職人のワット・タイラー(Wat Tyler:?ー1381年)が、神父のジョン・ボール(John Ball:1338年頃ー1381年)と共に、この反乱に指導者として加わると、勢いを得た反乱軍は、カンタベリー(Cantebury)を占拠した後、ロンドン郊外、続いて、ロンドン市内へと侵入し、カンタベリー大司教や政府の幹部だった財務長官のロバート・イルズと尚書部長官のサイモン・サドベリーを殺害したのである。

ギルップールストリートの北端にある
West Smithfield Rotunda Garden(その3)

これが、「ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)」、または、「農民反乱(Peasant’s Revolt)」と呼ばれている。なお、ワット・タイラーの半生について、判っていることが非常に少なく、出生時の名前は「ウォルター(Walter)」とされているが、姓に関しては不明で、屋根瓦職人(roof tiler)であったことから、「Tyler」の姓が付けられたものと考えられている。

1381年6月15日に行われた2回目の交渉時、
ワット・タイラーに斬りつけたロンドン市長のウィリアム・ウォルワース

リチャード2世率いる国王軍は、今のギルップールストリート(Giltspur Street)がある辺りで、ワット・タイラー達が率いる反乱軍を出迎え、同年6月14日、1回目の交渉が行われ、リチャード2世は、ワット・タイラー達に対して、農民や労働者の要求を保証すると回答した。ところが、翌日の同年6月15日、2回目の交渉が行われている最中、当時のロンドン市長(Lord Mayor of the City of London / Lord Mayor of London)だったウィリアム・ウォルワース(William Walworth:?ー1385年)によって、ワット・タイラーは突然斬りつけられた。ワット・タイラーは近くにあるセントバーソロミュー教会(St. Bartholomew the Great Church)へ難を逃れようとしたものの、そのまま殺害されてしまったのである。重要な指導者の一人を失った反乱軍自体も、国王軍によって鎮圧されてしまった。

2018年6月10日日曜日

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones)–その2

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)に所蔵されている
初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「黄金の階段(The Golden Stairs)」(1880年)

後に初代准男爵(1st Baronet)となったエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones:1833年ー1898年)は、1856年にマクドナルド四姉妹の次女ジョージアナ・マクドナルド(Georgiana MacDonald:1840年ー1920年)と婚約した。ジョージアナ・マクドナルドは、当時、画家になる勉強をしていて、彼の昔から学友の妹であった。

翌年の1857年に、彼は、「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」に思想的な面で大きな影響を与えた思想家 / 美術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin:1819年ー1910年)達と一緒に、初めてのイタリア旅行に出かけ、フィレンツェ(Florence)、ピサ(Pisa)、シエナ(Siena)やヴェネツィア(Venice)等のイタリア各地を訪問して、彼特有のスタイルを発展させることとなった。

1860年に彼はジョージアナ・マクドナルドと結婚し、1861年に長男のフィリップ(Philip)が生まれる。1864年に次男が生まれるが、残念ながら、生後間もなく亡くなってしまう。悲しみに沈むバーン=ジョーンズ夫妻は、現在のケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のケンジントン地区(Kensington)内にあるケンジントンスクエア41番地(41 Kensington Square)へと引っ越すと、1866年には長女マーガレット(Margaret)が生まれた。そして、1867年には、バーン=ジョーンズ夫妻は、1965年まで独立した区だったフラム地区(Fulham)内にあるノースエンドロード(North End Road)沿いに居を構えた。

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain)に所蔵されている
初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「コフェチュア王と乞食娘(King Cophetua and the Beggar Maid)」(1884年)

1867年にフラム地区に居を構えて、家庭的には落ち着いたエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズであったが、1870年代は展覧会をほとんど開催しなかった。何故ならば、その頃、彼はギリシア人のモデルだったマリア・ザンバコ(Maria Zambaco)と不倫関係になり、新聞紙上でかなり批難されていたからである。彼とマリア・ザンバコの不倫関係は、彼女が公衆の面前でリージェンツ運河(Regent’s Canal)へ身を投げて、自殺未遂を演じたことで、幕を閉じた。

一方で、1859年にウィリアム・モリス(William Morris:1834年ー1896年)と結婚したジェーン・バーデン(Jane Burden:1834年ー1896年)は、彼の師匠であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rosetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)と親密な関係になっており、そのため、ウィリアム・モリスは、エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズの妻ジョージアナと次第に友情関係を深めていった。最終的には、バーン=ジョーンズ夫妻も、モリス夫妻も離婚することはなかったものの、ウィリアム・モリスとジョージアナ・バーン=ジョーンズの二人は、生涯を通じ、近しい友人として交際を続けたのである。

2018年6月9日土曜日

ロンドン ギルップールストリート(Giltspur Street)–その1

ホルボーン高架橋通り(西側) / ニューゲートストリート(東側)方面から
ギルップールストリートを北へ眺めたところ–
画面右手前のビルには Bank of America Merrill Lynch が入居しており、
画面右手奥にはセントバーソロミュー病院がある

米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、別のペンネームであるカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義で発表した長編第2作目で、ヘンリー・メルヴェール卿(Sir Henry Merrivale)が探偵役を務める長編第1作目となる「黒死荘の殺人(The Plague Court Murder→2018年5月6日 / 5月12日付ブログで紹介済)」では、降霊会の最中、黒死荘の庭に建つ石室内において、心霊学者のロジャー・ダーワース(Roger Darworth)が血の海の中で無残にも事切れていた。石室は厳重に戸締りされている上に、石室の周囲には、足跡が何も残されていなかった。それに加えて、殺害されたロジャー・ダーワースの傍らには、前日の午後、ロンドン博物館から盗まれた曰く付きの短剣が真っ赤な血に染まって残されていたのである。


創元推理文庫版「黒死荘の殺人」(南條竹則氏 / 高沢治氏訳)によると、『ハリディ(ディーン・ハリディ(Dean Halliday)ー黒死荘の現当主)は先頭に立ち、ギルップールストリートを歩き始めた。』と記されており、ニューゲートストリート(Newgate Street→2018年5月19日付ブログで紹介済)の角で、タクシーを降りたディーン・ハリディ、本編の語り手であるケン・ブレーク(Ken Blake)とスコットランドヤードのハンフリー・マスターズ主任警部(Chief Inspector Humphery Masters)の3人は、黒死荘へ向かうべく、ギルップールストリート(Giltspur Street)を北上することになる。

スミスフィールドマーケット側からギルップールストリートを望む–
ここからギルップールストリートの北側が始まる
ギルップールストリートを南下する–
画面中央奥に見える建物が中央刑事裁判所

ギルップールストリートは、ロンドンの経済活動の中心地であるシティー・オブ・ロンドン(City of London)内に所在して、南北に延びる通りである。

ギルップールストリートの中間辺り(西側)に建つオフィスビル
Bank of America Merrill Lynch が入居しているオフィスビル–
メイン玄関は、ニューゲートストリートに面している

ギルップールストリートの南側は、ニューゲートストリート<東側>、オールドベイリー通り(Old Baileyー中央刑事裁判所(Central Criminal Court→2016年1月17日付ブログで紹介済)が建っている通り)<南側>およびホルボーン高架橋通り(Holborn Viaduct)<西側>が交差する四つ角から始まり、サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」において、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが初めて出会ったセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew’s Hospital→2014年6月14日付ブログで紹介済)を右手(東側)に見て北上し、その北側は肉市場として有名なスミスフィールドマーケット(Smithfield Market)と呼ばれるロータリーに突き当たって終わっている。

2018年6月3日日曜日

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones)−その1

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「Frieze of Eight Women Gathering Apples」(1876年)(その1)

初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年)は、英国の画家 / デザイナーで、ロンドンにあるロイヤルアカデミー(Royal Academy)付属美術学校(Antique School)の学友だったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rosetti:1828年ー1882年→2018年3月4日 / 3月11日付ブログで紹介済)や初代准男爵サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1st Baronet:1829年ー1896年:2018年3月25日 / 4月1日 / 4月14日 / 4月21日 / 4月28日付ブログで紹介済)が1848年に結成した「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)と呼ばれる芸術グループを英国の画壇の主流へと押し上げた人物である。

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズは、1833年8月28日、バーミンガム(Birmingham)のベネッツヒル(Bennetts Hill)に出生。彼の父親のエドワード・リチャード・ジョーンズ(Edward Richard Jones)はウェールズ(Wales)出身で、メッキ師(frame-maker)だった。彼が出生した時の名前は「Edward Coley Burne Jones」で、この時点では、「Burne」と「Jones」の間に「ハイフン(hyphen)」はまだなかった。彼が出生して6日も経たないうちに、母親が亡くなったため、彼は父親と家政婦のアン・サンプソン(Ann Sampson)によって育てられたである。

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「Frieze of Eight Women Gathering Apples」(1876年)(その2)

エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズは、1844年からバーミンガムのキングエドワード6世グラマースクール(King Edward IV grammar school)に、そして、1848年から1852年までバーミンガム芸術学校(Birmingham School of Art)に通った。

その後、彼は、オックスフォード大学エクスターカレッジ(Exeter College, Oxford)において、聖職者になるために、神学を学び始めた。大学時代に、彼はウィリアム・モリス(William Morris:1834年ー1896年)と出会って、友人となり、思想的な面で「ラファエル前派」に大きな影響を与えた思想家 / 美術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin:1819年ー1910年)に感化された。また、友人のウィリアム・モリスの影響を受けて、彼は美術家 / デザイナーになることを決め、大学卒業(学位を得ることなく卒業)後、ステンドグラス美術の伝統復活に打ち込むようになった。その一方で、彼は、ウィリアム・モリスが弟子入りしたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの下でも学んでいる。

2018年6月2日土曜日

ロンドン ホルボーン高架橋(Holborn Viaduct)–その2

ホルボーン高架橋の南側から北側を見たところ

ウェストエンド(West End)方面からシティー・オブ・ロンドン(City of London)へのアクセス状況を改善するために、1863年から1869年にかけて、ホルボーン高架橋(Holborn Viaduct)は建設された。

ホルボーン高架橋の西側から東側を見たところ

建築家のウィリアム・J・ヘイウッド(William J. Haywood:1821年ー1894年)が設計を、そして、技師のロウランド・メイソン・オーディッシュ(Rowland Mason Ordish:1824年ー1886年)が工事を担当した。竣工後、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の出席の下、正式開通を迎えた。

ホルボーン高架橋の四隅(南西部分)に建つ建物

ホルボーン高架橋の南側には、「商業(Commerce)」と「農業(Agriculture)」を表す女神像2体が、また、北側には、「科学(Science)」と「芸術(Fine Art)」を表す女神像2体が、歩道沿いに設置されている。

Sir Thomas Gresham 像(ホルボーン高架橋の南東部分)
Henry Fitz Eylwin 像(ホルボーン高架橋の南西部分)

南側の2体は、英国の彫刻家ヘンリー・ワイト・バーシル(Henry Wayte Barsill:1833年頃ー1871年)によって、1867年から1869年にかけて製作された。また、北側の2体は、彫刻会社ファーマー&ブリンドリー社(Farmer & Brindley)によって、1868年から1869年にかけて製作された。

ホルボーン高架橋の四隅(北西部分)に建つ建物

ホルボーン高架橋の四隅に建つ建物には、内部階段があり、上のホルボーン高架橋と下のファリンドンロード / ファリンドンストリート(Farringdon Road / Farringdon Street→2017年1月7日付ブログで紹介済)を繋いでいる。

Sir William Walworth 像(ホルボーン高架橋の北西部分) 
Sir Hugh Myddleton 像(ホルボーン高架橋の北東部分)

四隅に建つ建物の外壁(日本で言う2階部分)に、

南側: Sir Thomas Gresham / Henry Fitz Eylwin
北側: Sir William Walworth / Sir Hugh Myddleton

の像が設置されている。
これらの4体は、英国の彫刻家ヘンリー・ワイト・バーシルによって、1869年に製作されたが、第二次世界対戦(1939年ー1945年)中の1941年に、ドイツ軍の爆撃により、像を含む北側の建物等が被害を受けたため、2000年(西側)と2003年(東側)に改修工事が実施されている。