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| セントバーソロミュー病院内に設置されている セントバーソロミュー病院 / 北翼(Barts North Wing)への案内掲示板 <筆者撮影> |
英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第20話(第2シリーズ)かつアガサ・クリスティー生誕100周年記念スペシャルとして、1990年9月16日に放映されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair at Styles → 2023年12月3日 / 12月6日付ブログで紹介済)」(1920年)の TV ドラマ版において、物語の冒頭、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中に負傷したアーサー・ヘイスティングス中尉(Lieutenant Arthur Hastings - アガサ・クリスティーの原作では、大尉(Captain)となっている)が彼の旧友であるジョン・キャヴェンディッシュ(John Cavendish)と再会する場面が、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の北翼(North Wing)にある「ホガースの階段(Hogarth Staircase)」と呼ばれる吹き抜け階段において撮影されている。
| 下から「ホガースの階段(Hogarth Staircase)」と呼ばれる 吹き抜け階段を見上げたところ - アーサー・ヘイスティングス中尉と旧友のジョン・キャヴェンティッシュの2人が 上から降りて来る場面が、この角度で撮影されている。 <筆者撮影> |
セントバーソロミュー病院は、ロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に所在する病院で、「王立セントバーソロミュー病院(The Royal Hospital of St. Bartholomew)」が、その正式名であるが、「バーツ(Barts)」と言う略称が、一般的に知られている。
セントバーソロミュー病院の設立は、1123年まで遡り、ヨーロッパで最も古い歴史を有する病院とされている。
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| セントバーソロミュー病院博物館(St. Bartholomew's Hospital Museum)内にある 病院の歴史に関する説明資料 - 左側が セントバーソロミュー修道院(病院)を設立したラヒアで、 右側が彼の夢の中に現れた聖人セントバーソロミュー。 <筆者撮影> |
12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1144年)が、ローマ巡礼中に、重い病に倒れたが、彼の神への強い祈りが届いたかのように、奇跡的に病から回復。
その際、彼の夢の中に、イエス・キリストの使徒の一人である聖人セントバーソロミュー(St. Bartholomew)が現れると、ロンドンのスミスフィールドに貧民や病人を助けるための修道院(病院)を建てるように告げたと伝えられている。
この聖人セントバーソロミューのお告げに従って、イングランドに戻ったラヒアは、1123年、スミスフィールドの地にセントバーソロミュー修道院を設立したのである。
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| ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、 英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク (Quentin Blake:1932年ー)が描いた ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書 <筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum → 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入> |
そして、時代は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)による統治時まで下る。
ヘンリー8世は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らを英国国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会から英国国教会の分離を行った。
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| 1702年に完成したヘンリー8世門(Henry VIII Gatehouse)- なお、アーチ門上にある石像は、ロンドンで唯一のヘンリー8世の石像である。 <筆者撮影> |
ヘンリー8世が宗教改革の一環として実施した修道院解散(Dissolution of the monasteries:1536年ー1539年)政策に基づき、イングランド国内にあった多くの修道院が解散、そして、財産没収の憂き目に遭った。
セントバーソロミュー修道院は、貧民救済病院として生き残ったものの、修道院としての収入の道が絶たれたため、一時は経営難に陥った。
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| 1546年12月27日に ヘンリー8世とシティー・オブ・ロンドン共同体の間で交わされた セントバーソロミュー修道院に関する合意書 (ヘンリー8世がシティー・オブ・ロンドン共同体に対して セントバーソロミュー修道院の支援を約束する書状) - セントバーソロミュー病院博物館内に展示されている。 <筆者撮影> |
そこで、貧民救済病院として生き残ったセントバーソロミュー修道院は、1546年12月27日にシティー・オブ・ロンドン共同体(City of London Corporation - 正式名:Mayor and Commonalty and Citizens of the City of London)から認可を受ける合意に調印したことで、ヘンリー8世による再設立を受けることになった。
1547年1月、セントバーソロミュー修道院は、法的に「ヘンリー8世設立・シティー・オブ・ロンドン・ウェストスミスフィールド救貧院(House of the Poore in West Smithfield in the suburbs of the City of London of Henry VIII’s Foundation)」と命名され、初代病院長に、ヘンリー8世の侍医(外科医)で解剖学者でもあったトマス・ヴィカリー(Thomas Vicary:1490年頃ー1561年)が就任。
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| セントバーソロミュー・ザ・レス教会の入口 <筆者撮影> |
ヘンリー8世による修道院解散政策に基づき、セントバーソロミュー修道院の敷地は、英国国教会の小教区として再編されて、同修道院内にあったセントバーソロミュー・ザ・レス教会(St. Bartholomew The Less)が教区教会となった。
これは、英国内の病院でも特異なケースで、セントバーソロミュー・ザ・レス教会は、病院の敷地内に建てられた教会として、唯一現存している。
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| セントバーソロミュー・ザ・レス教会の塔を見上げたところ <筆者撮影> |



































