2025年5月26日月曜日

エドワード7世(Edward VII)- その2

ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)内で
所蔵 / 展示されているエドワード7世の胸像
(By Sydney March / Electrotype bronze / 1924年 /
based on a portrait of 1901)- その1


エドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝(Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝は、1841年11月9日、ハノーヴァー朝(Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)と王配のアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)の第2子(長男)として出生し、同年12月4日にウェールズ公(Prince of Wales)の称号を得ている。そして、1842年1月25日に洗礼を受け、「アルバート・エドワード(Albert Edward)」と名付けられ、「バーティー(Bertie)」と愛称された。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その1)


英国王室に皇太子が生まれたのは、1762年8月12日にジョージ(後のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年))以来、約80年ぶりだった。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ヴィクトリア女王の胸像
(By Sir Francis Leggatt Chantrey / Marble / 1841年)
-
エドワード7世が生まれた頃に制作されていると言える。


アルバート・エドワードは、幼少期・少年期の間、母(ヴィクトリア女王)と父(アルバート公)による厳格な教育方針の下、家庭教育で育てられたが、次第に、両親は、バーティーに期待をかけなくなってしまう。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
英国のロイヤルメールから2019年に発行された切手(その2)


アルバート・エドワードは、1859年10月にオックスフォード大学(University of Oxford → 2015年11月21日付ブログで紹介済)に入学するが、これは、英国の歴代国王では、初めての大学入学である。

その後、1861年10月にはケンブリッジ大学(University of Cambridge)へ転送するものの、不良行為のため、問題が多かった。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ヴィクトリア女王の肖像画
(By Sir George Hayter / Oil on canvas / 1863年 /
based on a portrait of 1838)

ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
アルバート公の肖像画
(By Franz Xaver Winterhalter / Oil on canvas / 1867年 /
based on a portrait of 1859)

1861年11月のある日、外国の大衆紙上、アルバート・エドワードと女優のネリー・クリフデンの交際報道が掲載され、父のアルバート公は、ケンブリッジ大学から呼び出しを受ける。当時、ケンブリッジ大学の総長でもあったアルバート公は、風邪気味で体調が悪かったにもかかわらず、無理を押して、アルバート・エドワードが居住するケンブリッジ(Cambridge)へと向かった。

これが原因となり、ケンブリッジからウィンザー(Windsor)へと戻って来たアルバート公は、腸チフスを併発して、同年12月14日に崩じてしまう。まだ42歳の若さだった。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
エドワード7世の胸像
(By Sydney March / Electrotype bronze / 1924年 /
based on a portrait of 1901)- その1- その2

「バーティーが、愛する夫を殺したのだ。こんな不肖の息子に、自分の後を継がせたくない。」と思った母のヴィクトリア女王は、以降、アルバート・エドワードを疎むようになり、意図的に公務から遠ざけ、貴族院議員で枢密院顧問官にもなっていた息子が政治に関与することを頑なに拒んだ。


王立ロンドン病院(The Royal London Hospital)の入口の反対側に設置されている
アレクサンドラ・オブ・デンマーク像


その一方で、ヴィクトリア女王は、息子を早く一人前にするために、夫アルバート公の死去から約1年後の1863年3月に、アルバート・エドワードをデンマーク王女のアレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年 / デンマーク国王クリスチャン9世の娘)と結婚させたのである。


2025年5月25日日曜日

<第1800回> ロンドン スローンスクエア(Sloane Square)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1933年に発表したエルキュール・ポワロシリーズの長編(第7作目)「エッジウェア卿の死」(Lord Edgware Dies - 米国版タイトル:Thirteen at Dinner(晩餐会の13人) → 2015年3月19日 / 3月29日付ブログで紹介済)は、エルキュール・ポワロとアルゼンチンから一時帰国したアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)の2人が、米国からロンドン/パリ公演ツアーに来ている女芸人カーロッタ・アダムズ(Carlotta Adams)の舞台を観たところから、その物語が始まる。



背景や衣装等を必要としない彼女の「人物模写演技」は完璧で、一瞬で顔つきや声音等を変えて、その人自身になりきるのであった。第4代エッジウェア男爵ジョージ・アルフレッド・セント・ヴィンセント・マーシュ(George Alfred St. Vincent Marsh, 4th Baron Edgware)/ エッジウェア卿(Lord Edgware)と結婚している米国出身の舞台女優ジェーン・ウィルキンスン(Jane Wilkinson)の物真似に関しても見事の一言で、ポワロは深く感銘を受ける。

更に、驚くことには、ポワロとヘイスティングス大尉の真後ろの席には、ジェーン・ウィルキンスン本人と映画俳優のブライアン・マーティン(Bryan Martin)の2人が、カーロッタ・アダムズによるジェーン・ウィルキンスンの人物模写演技を楽し気に観劇していた。



女芸人カーロッタ・アダムズによる舞台が終わった後、ポワロとヘイスティングス大尉は、サヴォイホテル(Savoy Hotel → 2016年6月12日付ブログで紹介済)へと移動して、夕食をとる。

その夕食の途中、ブライアン・マーティンと一緒に居たジェーン・ウィルキンスンが、ポワロの席を訪れて、内密の会話を求める。



ジェーン・ウィルキンスンが宿泊している同ホテル3階にある彼女の部屋へと移動した後、彼女から「離婚話に応じない夫を説得してもらいたい。」という依頼を受けたポワロが、その2-3日後、リージェントゲート(Regent Gate → 2025年3月23日付ブログで紹介済)にあるエッジウェア卿の邸を訪問したところ、彼は「6ヶ月も前に、離婚に同意する旨を彼女宛に手紙で既に伝えた。」と答えるのであった。話のくい違いに納得がいかないポワロであったが、そのまま帰宅せざるを得なかった。

エッジウェア卿邸を出たその足で、ポワロとヘイスティングス大尉の2人は、サヴォイホテルへと赴き、ジェーン・ウィルキンスンと面会するものの、彼女曰く、「夫からそのような手紙を受け取っていない。」とのことだった。

更に、ポワロ達は、ジェーン・ウィルキンスンから、「夫との離婚が成立でき次第、現在交際しているマートン公爵(Duke of Merton)との再婚を考えている。」と告げられた。



その翌朝(6月30日の午前9時半)、スコットランドヤードのジャップ警部(Inspector Japp)が、ポワロの元を訪れる。

ジャップ警部から、ポワロとヘイスティングス大尉の2人は、「前夜、エッジウェア卿が、リージェントゲートの自邸の書斎において、頸部を刺され、殺害された。」と知らされる。

エッジウェア卿の執事であるアルトン(Alton)と秘書であるミス・キャロル(Miss Carroll)は、「事件があった当夜の午後10時頃、ジェーン・ウィルキンスンがエッジウェア卿を訪ねて来たので、書斎へと通した」ことを証言する。

ところが、ジェーン・ウィルキンスンは、「夫が殺された当夜、テムズ河(River Thames)畔のチジック地区(Chiswick → 2016年7月23日付ブログで紹介済)内に邸宅を所有しているサー・モンタギュー・コーナー(Sir Montague Corner)が開催した盛大な晩餐会に出席していた。」と答え、また、その晩餐会に出席していた他の客達も、彼女がその場に居たことを認めた。つまり、妻で、一番疑わしいジェーン・ウィルキンスンには、アリバイがあったのだ。



ジェーン・ウィルキンスン以外にも、エッジウェア卿を嫌っていた人物は、複数居た。

一人目が、エッジウェア卿の甥であるロナルド・マーシュ(Ronald Marsh)で、 お金に困っている上に、エッジウェア卿のタイトルを狙っていた。

二人目は、エッジウェア卿の先妻の娘であるジェラルディン・マーシュ(Geraldine Marsh)で、 父親であるエッジウェア卿に追い出された後、不遇の死を遂げた母親のことで、父親を恨んでいた。



ポワロは、人物模写演技を得意とする女芸人のカーロッタ・アダムズであれば、事件当夜にリージェントゲートにあるエッジウェア卿の自邸を訪れたと執事と秘書が証言したジェーン・ウィルキンスンに成り済ますことができたのではないかと考えるが、今度は、スローンスクエア(Sloane Square)に住むカーロッタ・アダムズが、ベロナールの過剰摂取により亡くなっていることが発見される。



何者かの指示に基づき、カーロッタ・アダムズは、ジェーン・ウィルキンスンに成り済まして、リージェントゲートにあるエッジウェア卿の自邸を訪れ、彼を殺害したのだろうか?

そして、それを隠そうとする何者かによって、カーロッタ・アダムズは、過剰のベロナールを服用させられて、殺されたのか?



人物模写演技を得意とする女芸人で、ベロナールの過剰摂取により亡くなっていることが発見されたカーロッタ・アダムズが住んでいたスローンスクエアは、ロンドンの中心部ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)内に所在する広場である。



スローンスクエアは、元々、英国の建築家であるヘンリー・ホーランド父(Henry Holland Senior)とヘンリー・ホーランド子(Henry Holland Junior:1745年ー1806年)が1771年に開発した「ハンスタウン(Hans Town)」を起源とする。

イングランド系アイルランド人の内科医である初代準男爵ハンス・スローン(Sir Hans Sloane, 1st Baronet:1660年ー1753年)が同地を所有していたことに因んで、「スローンスクエア」と呼ばれるようになった。


スローンスクエアの中央に設置されている
噴水「ヴィーナスの泉」(その1)

スローンスクエアは、現在、環状交差点(roundabout)となっており、中央に公園が整備されている。その公園の中央には、「ヴィーナスの泉(The Venus Fountain)」と言う噴水が所在している。


スローンスクエアの中央に設置されている
噴水「ヴィーナスの泉」(その2)


噴水の真ん中にあるヴィーナス(愛と美の女神)像は、英国の彫刻家であるギルバート・レドワード(Gilbert Ledward:1888年ー1960年)によって、1953年に設置された。「ヴィーナスの泉」は、2006年に「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受けている。


画面奥に建っているのが、デパート「ピーター・ジョーンズ」で、
画面左奥へと延びている通りが、キングスロード(King's Road)である。


スローンスクエアの西側には、デパート「ピーター・ジョーンズ(Peter Jones)」が建っている。

同デパートは、ニュージーランド生まれの建築家であるレジナルド・ハロルド・ユーレン(Reginald Harold Uren:1906年ー1988年)によって1936年に設計され、現在、「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受けている。

デパート「ピーター・ジョーンズ」は、デパート「ジョン・ルイス(John Lewis)」の姉妹店である。


キングスロードの東側の起点に該るスローンスクエアの南西の角には、
デパート「ピーター・ジョーンズ」が建っている。


スローンスクエアの東側には、地下鉄のサークルライン(Circle Line)/ ディストリクトライン(District Line)が停まる地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)が所在している。


2025年5月24日土曜日

ミシェル・バークビー作「ベイカー街の女たちと幽霊少年団」(The Women of Baker Street by Michelle Birkby)- その2

英国の Pam Macmillan 社から2017年に出版された
ミシェル・バークビー作「ベイカー街の女たちと幽霊少年団」
ペーパーバック版内に付されている
セントバーソロミュー病院の特別病棟の見取り図

セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)のベッドの上で目を覚ましたハドスン夫人(Mrs. Hudson - マーサ・ハドスン(Martha Hudson))は、モルヒネと麻酔薬の投与により、目が覚めた後も頭にまだ霞がかかったようになっていた。

その時、ハドスン夫人は、病室のとりわけ暗い一角に、うごめく影のかたまりを見た。ハドスン夫人が目を凝らしていると、影のかたまりは、彼女のベッドの裾を横切り、彼女の斜向かいにあるベッドへと向かった。

朦朧とする意識のなか、ハドスン夫人は、その影のかたまりがそのベッドの上に覆いかぶさるのを目撃した後、突如、深い眠りへ引きずり込まれると、意識が遠のく。


翌朝、再度目覚めたハドスン夫人の元へ、ワトスン夫人(Mrs. Watson)となったメアリー・ワトスン(Mary Watson - 旧姓:モースタン(Morstan))が、御見舞いに訪れた。

メアリー・ワトスンによると、ハドスン夫人の病状は、腹部の閉塞症で、緊急手術で詰まっている箇所をきれいに取り除かれた、とのこと。また、ジョン・H・ワトスンの口利きにより、病院職員の親類縁者や多額の寄付をしている支援者のための特別病棟に入院できたと言う説明もあった。

更に、「シャーロック・ホームズと給仕のビリー(Billy)は、ハドスン夫人が退院するまでの間、ワトスン家で面倒をみる。」と言って、メアリー・ワトスンは、ハドスン夫人を安心させる。


メアリー・ワトスンが帰った後、今度は、ジョン・H・ワトスンが、ハドスン夫人を見舞う。

ワトスン曰く、「通常、治癒まで6週間位かかる。」とのことだったが、ハドスン夫人は、「そんな長いこと我慢できない!」と不平を漏らした。一方で、彼女の斜向かいの空っぽのベッドが、気になって仕方がなかった。


ワトスンが辞去した後、ハドスン夫人が寝たふりを続けていると、シスターと若い医師が、彼女の斜向かいの空っぽのベッドの側に立って、話し合いをしているのが聞こえた。

昨夜、ハドスン夫人が目撃した通り、影のかたまりが覆いかぶさっていたベッドの女性は、今朝、亡くなっているのが見つかったのである。


ハドスン夫人が入院している特別病棟には、彼女を除くと、他に6人の(女性)患者が居た。


(1)サラ・マローン(Sarah Malone)

ハドスン夫人の左側に居る患者 / かなり深刻な容体で、死期が迫っている / 始終ぶつぶつと何かを呟いている


(2)ミランダ・ローガン(Miranda Logan)

ハドスン夫人の右側に居る患者 / 過労と貧血を理由に入院中 / ほとんど誰とも口をきかない / 派手なガウン姿で、ベッドに起き上がり、新聞をずーっと読んでいる


(3)ベティー・ソランド(Betty Soland)

ハドスン夫人の二つ右隣りの患者 / 階段から落ち、脚を骨折して入院中 / 編み物や縫い物で、始終手を動かしている / 8歳から20歳までの6人の子供が居る


(4)フローレンス・ブライスン(Florence Bryson)

ハドスン夫人の正面に居る患者 / 肺を患って、入退院を繰り返している / ベッドの上は、ゴシップ記事満載の大衆紙で埋めつくされており、犯罪事件や探偵小説に目がない。


(5)エマ・フォーダイス(Emma Fordyce)

ミランダ・ローガンの正面に居る患者 / 歳を召していて、あちこち悪いところがあるみたいだが、老いを楽しんでいる様子 / 過去に非凡な面白い体験をしていて、思い出話を他の人に聞かせるのが大好き


(6)エリナー・ランガム(Eleanor Langham)

ベティー・ソランドの正面に居る患者 / 心臓病のため、最近手術を受けたばかり / ベッドの脇にある椅子が定位置で、大抵の時間は、ただ椅子に腰掛けて、周りの様子を眺めている


開腹手術を受けたばかりで、まだ動くことができないハドスン夫人は、寝たふりを更に続け、患者全員の観察をするしか、他に手がなかったのである。


2025年5月23日金曜日

ロンドン ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery)- その4

ギルドホールアートギャラリーが所蔵 / 展示する作品のうち、特に目玉となるのが、
ボストン出身の画家である
ジョン・シングルトン・コプリーによる絵画
「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」(1783年
である。


ロンドン市長(Mayor of London)とは別に、もう一人のロンドン市長、つまり、自治権を有するシティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の市長(Lord Mayor of London)による行政の拠点となる市庁舎「ギルドホール(Guildhall)」に隣接して建つ「ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery)」は、シティー・オブ・ロンドンが所有する約4000点に及ぶ絵画や彫刻作品等を所蔵 / 展示している。


ギルドホールアートギャラリーの2階フロアから、
ジョン・シングルトン・コプリー作「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」へ向かう。

ギルドホールアートギャラリーの所蔵 / 展示作品のうち、特に目玉となるのは、ジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley:1738年ー1815年)による絵画「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月(the Defeat of the Floating Batteries at Gibraltar, September 1782)」(1783年)である。


ジョン・シングルトン・コプリー作「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」は、
英国最大級の作品で、これを展示するために、
ギルドホールアートギャラリー は、吹き抜け様式に設計された。


ジョン・シングルトン・コプリーは、1738年7月3日、ボストン(Boston)に出生。

1750年頃に、母親が版画家と再婚した後、彼は義理の父親から絵画を学ぶ。そして、1766年に、ロンドンの展覧会に「少年とリス(Boy with Squirrell)」を出品して、賞賛を受けた。

アメリカ独立戦争(American War of Independence:1775年ー1783年)の開戦が近付く1774年に、ジョン・シングルトン・コプリーは英国へと渡り、その後、家族を呼び寄せて、ロンドンに定住。

ロンドンにおいて、ジョン・シングルトン・コプリーは、アメリカ出身の歴史画家であるベンジャミン・ウェスト(Benjamin West:1738年-1820年)と親しくなり、彼の影響を受けて、肖像画から歴史画への転換を図る。

1799年には王立芸術院(Royal Academy of Arts)の会員となるが、1815年9月9日に、ロンドンで没している。


ジョン・シングルトン・コプリー作「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」を
右下から見上げたところ

ジョン・シングルトン・コプリーが1783年に描いた「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」は、アメリカ独立戦争期間中に、英国とフランス / スペインの間で行われた「ジブラルタル包囲戦(Great Siege of Gibraltar:1779年6月24日ー1783年2月7日)」を題材にしている。


ジョン・シングルトン・コプリー作「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月」を
左下から見上げたところ

フランスとスペインは、失った領土を取り戻すべく、アメリカ独立戦争中の英国に対して、宣戦を布告。ジブラルタルは、英国による地中海支配の要であったため、ジブラルタルの英国からの奪取を狙った。

ジブラルタル包囲戦における最大の戦いは、1782年9月13日に行われたもので、10万人の兵士と48隻の艦船から成るフランス・スペイン連合軍が英国軍を包囲して攻撃を仕掛けた。この時、スペイン軍は、筏に湿った砂を充填した新兵器「浮き砲台」を使って、ジブラルタルに接近し、正確な砲撃を行おうとしたが、ジョージ・オーガスタス・エリオット(George Augustus Eliott:1717年ー1790年)将軍が率いる英国軍は、炉で熱した砲弾を浴びせて、撃退。その結果、フランス・スペイン連合軍によるジブラルタル奪取は、不成功に終わった。

こうして、英国軍は、4年近い包囲に耐え抜き、1783年2月、フランス・スペイン連合軍による包囲は、遂に解かれることとなった。

上記の功績により、ジョージ・オーガスタス・エリオット将軍は、ジブラルタルの初代ヒースフィールド男爵(1st Baron Heathfield)に叙せられるとともに、ジブラルタルは、難攻不落の要塞として、その名を轟かせることになったのである。


2025年5月22日木曜日

ロンドン サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum)- その1

サー・ジョン・ソーンズ博物館の入口(右側)と出口(左側)


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1935年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第5作目に該る「死時計(Death-Watch → 2025年4月30日 / 5月4日付ブログで紹介済)」の場合、9月4日、風が吹くひんやりした夜の12時近く、ギディオン・フェル博士とメルスン教授(Professor Melson - 歴史学者で、ギディオン・フェル博士の友人)が、ホルボーン通り(Holborn → 2025年5月6日付ブログで紹介済)を歩いていところから、その物語が始まる。



2人は、劇場で映画を観た帰りで、メルスン教授が宿泊する予定のリンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln’s Inn Fileds → 2016年7月3日付ブログで紹介済)へと向かっていた。メルスン教授は、当初、ブルームズベリー地区(Bloomsbury)に宿泊しようとしたが、生憎と、どこも満員だったため、居心地が悪そうではあったものの、リンカーンズ・イン・フィールズ15番地(15 Lincoln’s Inn Fields)に寝室兼居間を見つけていた。


リンカーンズ・イン・フィールズの北側に建つ建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館へ行くには、画面右へと進む必要がある。

その日の午後、メルスン教授は、フォイルズ書店(Foyles → 2025年5月7日 / 5月9日付ブログで紹介済)において、中世ラテン語の写本辞書を見つけており、これは正真正銘の掘り出し物のため、ギディオン・フェル博士は、メルスン教授の宿でそれを見せてもらおうと考えていたのである。


画面左側には、リンカーンズ・イン・フィールズ内の公園が広がっている。

 彼らはリンカンズ・イン・フィールズの北側へ出た。広場そのものは、昼間見るよりも広大に見える。家々の正面はひっそりと静まり返り、とざされたカーテンの奥から明りがちらほら洩れているだけで、木立ちにしても、整然とした森のようであった。かすんだ月が空にかかり、街灯のように青ざめている。

「右へ曲がるんです」メイスンが言った。「あれがソーン博物館です。この二軒むこうが……」のっぺりした家々を見上げながら、地下勝手口の湿った鉄柵に手を走らせ、「わたしの泊まっている家です。隣がジョハナスの家です。なんにもならないんじゃないでしょうか、つっ立ってあの家を見ていても……」

「はっきりしたことはわからんのだが」フェル博士が言った。「玄関のドアがあいている……」

(吉田 誠一訳)


リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟


メルスン教授が宿泊する予定のリンカーンズ・イン・フィールズ15番地へ行くために、ギディオン・フェル博士とメルスン教授の2人が前を通った「ソーン博物館」とは、「サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum)」のことで、リンカーンズ・イン・フィールズに面して建っている。


リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟

リンカーンズ・イン・フィールズとは、ロンドンの特別区の一つであるロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)のホルボーン地区(Holborn → 2016年9月24日 / 2025年4月22日付ブログで紹介済)内にある広場とその周辺地域を指している。

厳密に言うと、リンカーンズ・イン・フィールズ内の広場、東側、北側および西側の建物はロンドン・カムデン区に属しているが、南側の建物はシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)に属している。また、リンカーンズ・イン・フィールズは、ロンドン・カムデン区最古の広場で、かつ、ロンドン最大の面積を誇っている。


リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟

サー・ジョン・ソーンズ博物館は、英国の古典主義を代表する建築家で、1788年にロバート・テイラー(Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の邸宅兼スタジオを使用しており、彼が手掛けた建築に関する素描、図面や建築模型、更に、彼が収集した絵画や骨董品等を所蔵している。


イングランド銀行裏手(ロスベリー通り(Lothbury)沿い)の外壁に設置されている
サー・ジョン・ソーン像(その1)


イングランド銀行裏手(ロスベリー通り(Lothbury)沿い)の外壁に設置されている
サー・ジョン・ソーン像(その2)


なお、サー・ジョン・ソーンズ博物館は、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地 / 14番地(12, 13, 14 Lincoln’s Inn Fields)の3棟を占めており、ジョン・ディクスン・カー「死時計」の物語上、


*メルスン教授が宿泊する予定の場所:リンカーンズ・イン・フィールズ15番地

*有名な時計師(clockmaker)であるジョハナス・カーヴァー(Johannus Carver)家で、事件の舞台となる場所:リンカーンズ・イン・フィールズ16番地(16 Lincoln’s Inn Fields)


と言う設定になっている。


2025年5月21日水曜日

コナン・ドイル作「瀕死の探偵」<小説版>(The Dying Detective by Conan Doyle )- その2

英国で出版された「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」
1913年12月号に掲載された挿絵(その2) -
ジョン・H・ワトスンがシャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、
2年が経過していた。
ハドスン夫人から依頼を受けて、ワトスンは、ベイカーストリート221B を訪れ、
謎の病に罹って、やつれた状態のシャーロック・ホームズを見舞った。
暖炉の上に置かれた小さな白黒の象牙の箱に気付いた
ワトスンは、それを手に取って、もっとよく調べようとしたところ、
ホームズが恐ろしい叫び声をあげた。
「それを下ろせ!ワトスン、今直ぐに下ろすんだ!
今直ぐに、と言っているだろう!」と。
画面左側の人物がホームズで、画面右側の人物がワトスン。
挿絵:ウォルター・スタンレー・パジェット
(Walter Stanley Paget:1862年ー1935年)

なお、ウォルター・スタンリー・パジェットは、
シャーロック・ホームズシリーズのうち、

第1短編集の「シャーロック・ホームズの冒険

(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)、

第2短編集の「シャーロック・ホームズの回想

(The Memoirs of Sherlock Holmes)」(1893年)、

第3短編集の「シャーロック・ホームズの帰還

(The Return of Sherlock Holmes)」(1905年)および

長編第3作目の「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」

「ストランドマガジン」1901年8月号から1902年4月号にかけて連載された後、

単行本化)の挿絵を担当したシドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)の弟である。

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「瀕死の探偵(The Dying Detective)」は、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、43番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1913年12月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1913年11月22日号に掲載された。

同作品は、1917年に発行されたホームズシリーズの第4短編集「シャーロック・ホームズ最後の挨拶(His Last Bow)」に収録されている。


ジョン・H・ワトスンが結婚し、シャーロック・ホームズとの共同生活を解消してから、2年が経過していた。


11月の霧がかかって薄暗い午後、ベーカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)の家主であるハドスン夫人(Mrs. Hudson)が、ワトスンの家を訪れる。

ハドスン夫人曰く、ホームズが何か訳の分からない病に罹患して、「ここ3日間でどんどん衰弱して、瀕死の状態なのだ(’He’s dying, Dr Watson.’)。」と言う。更に、今朝、ハドスン夫人が「ホームズさんの許可があろうとなかろうと、今直ぐ、医者を呼びに行く。」と告げると、ホームズは、「それじゃ、ワトスンを呼んでくれ。」と答えたのだった。


ハドスン夫人からの話を聞いたワトスンは、急いでコートと帽子を身に着けると、ハドスン夫人と一緒に、馬車でベーカーストリート221B へと向かった。

ベーカーストリート221B へと向かう馬車の中で、ワトスンは、ハドスン夫人に詳しい事情を尋ねる。

ハドスン夫人によると、ホームズは、ある事件のため、テムズ河(River Thames)南岸のロザーハイズ(Rotherhithe)へ出かけ、そこで病気を移されて、帰って来たらしい。そして、ホームズは、水曜日の午後から寝たきりで、この3日間、食事も飲み物もとっていないのだった。


午後4時頃、ベーカーストリート221B に着いたワトスンは、ホームズの様子を見て、愕然とする。

ベッドに横たわるホームズの顔は、痩せ衰えており、熱で目はぎらぎらとして、頬も紅潮していた。更に、ベッドカバーの上に置かれた細い手は、ひっきりなしに痙攣していたのである。


ワトスンがベッドに近寄ろうとすると、ホームズは、「下がれ!直ぐに下がれ!(Stand back! Stand right back!)」と言って、恐ろしい形相で制止する。

ホームズによると、自分が罹患した病気は、船乗りから感染したスマトラ島(Sumatra)のクーリー病(coolie disease)で、接触感染する、とのことだった。

ホームズの制止に構わず、ワトスンは診察しようとするが、ホームズは、「君は、ただの一般開業医だ。非常に限られた経験とありふれた能力しかない。」と強く拒絶した。ワトスンは、「熱帯病に詳しい医師を連れて来る。」と提案したが、ホームズは、この提案も受け入れなかった。

更に、ホームズは、ワトスンに対して、奇妙なことを言い出す。「午後6時になったら、自分が指定する人物をここに呼んで来てほしい。」と言い張るのだ。


英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、
2022年に発行されたシャーロック・ホームズをテーマにしたトランプのうち、
3 ♠️  象牙の箱


やつれ果てたホームズの姿を見て、落ち着かないワトスンは、ホームズの部屋の中をうろつき回る。

そして、ワトスンが、暖炉の上に散らかっているガラクタの中から、横にスライドして開ける蓋が付いた小さな白黒の象牙の箱(a small black and white ivory box with a sliding lid)を手に取ったところ、ホームズが絶叫した。「それを下ろせ!ワトスン、今直ぐ下ろすんだ!今直ぐに、と言っているだろう!(Put it down! Down, this instant, Watson - this instant, I say!)」と。ホームズの叫び声を聞いたワトスンは、呆然としてしまう。


暫くすると、ホームズは、ワトスンに対して、「ロウワーバークストリート13番地(13 Lower Burke Street → 2015年5月9日付ブログで紹介済)に住むカルヴァートン・スミス(Culverton Smith)を連れて来てほしい。」と頼む。

ホームズによると、「カルヴァートン・スミスは、医者ではなく、農場主(planter)ではあるが、自分が罹患した病気に詳しい唯一の人物。」とのこと。また、「恐ろしい死に方をした甥の殺害の嫌疑をかけたため、カルヴァートン・スミスは、自分をひどく恨んでいるが、どんな手段を使っても構わないので、彼をここに呼んで来てくれ。」と懇願するのであった。


ホームズの依頼を受けたワトスンは、カルヴァートン・スミスが住むロウワーバークストリート13番地へと向かった。


2025年5月20日火曜日

イーヴリン・ド・モーガン(Evelyn De Morgan)

シティー・オブ・ロンドン内にある
ギルドホールアートギャラリー において、現在開催されている
イーヴリン・ド・モーガン展のブローシャー

 アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1940年に発表したエルキュール・ポワロシリーズ作品「杉の柩(Sad Cypress)」において、エルキュール・ポワロとエリノア・カーライル(Elinor Carlisle)の間の会話内で言及されているアキテーヌのエレナー(Eleanor of Aquitaine → 2025年2月17日 / 2月23日付ブログで紹介済)の伝承に基づいて、「ロザモンドに自決を迫る王妃(Queen Eleanor and the Fair Rosamund)」(1901年ー1902年頃)を描いたのは、英国のラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の画家であるイーヴリン・ド・モーガン(Evelyn De Morgan:1855年ー1919年)である。

イーヴリン・ド・モーガンの旧姓は、メアリー・イーヴリン・ピカリング(Mary Evelyn Pickering)で、1855年8月30日、勅選弁護士 / 刑事法院臨時裁判官である父パーシヴァル・アンドリー・ピカリング(Percival Andree Pickering:1810年ー1876年)と母アンナ・マリア・ウィルへルミナ・スペンサー・スタンホープ(Anna Maria Wilhelmina Spencer Stanhope)の下、ロンドンのグローヴナーストリート6番地(6 Grosvenor Street)に出生。彼女は、ピカリング夫妻の最初の子供(長女)で、彼女の後に、弟2人と妹1人が生まれている。

メアリー・イーヴリン・ピカリングは、上位中流階級の両親により、自宅で教育を受け、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、古典文学や神話学等を学んだ。

彼女は、美術学校への進学を希望したが、当初、彼女の両親がこれを拒否、1873年に、両親の許しを漸く得て、スレイド美術学校(UCL Slade School of Fine Art)に入学。

彼女の叔父であるジョン・スペンサー・スタンホープ(John Spencer Stanhope:1787年ー1873年)も画家で、彼女に多大な影響を与えた。また、彼女は、当時、叔父が住んでいたフィレンツエ(Florence)を度々訪れ、ルネサンス期の巨匠達による作品群を観賞する機会も得た。その影響により、彼女は、スレイド美術学校が好む古典的なテーマから、彼女独自のスタイルへと移行していく。


イーヴリン・ド・モーガン展で展示されている
「ナクソス島のアリアドニ(Ariadne in Naxos)」(1877年)
Oil on canvas

メアリー・イーヴリン・ピカリングは、1883年8月に、陶芸家(ceramicist)/ デザイナー / 画家であるウィリアム・フレンド・ド・モーガン(William Frend De Morgan:1839年ー1917年)と出会い、約3年半後の1887年3月5日に、彼と結婚して、ロンドンに居を定めた。

1895年以降、第一次世界大戦が勃発する1914年までの間、ド・モーガン夫妻は、1年の半分をロンドンで、そして、残りの半年をフィレンツェで過ごした。


1917年1月15日に、夫のウィリアム・ド・モーガンが先立ち、その約2年半後の1919年5月2日、イーヴリン・ド・モーガンは、ロンドンで亡くなり、彼女の遺体は、サリー州(Surrey)ウォーキング(Woking)近郊のブロックウッド墓地(Brookwood Cemetery)に埋葬された。