2025年9月17日水曜日

ロンドン セントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)- その1

セントジェイムズ宮殿の建物正面
<筆者撮影>


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1936年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第7作目に該る「アラビアンナイトの殺人(The Arabian Nights Murders → 2025年8月30日付ブログで紹介済)」の場合、事件の舞台となるウェイド博物館(Wade Museum - 大富豪であるジェフリー・ウェイドが10年程前に開設した私立博物館で、中近東の陳列品(Oriental Art)を展示する他、初期の英国製馬車で、素晴らしい逸品も保存)は、クリーヴランドロウ(Cleveland Row → 2025年9月5日付ブログで紹介済)沿いに建っている。


東京創元社から創元推理文庫として出版された
ジョン・ディクスン・カー作「アラビアンナイトの殺人」の表紙
(カバー:山田 維史)


博物館はセント・ジェイムズ宮から、広場を一つ隔てたクリーヴランド・ロウにあります。

(ヴァインストリート署勤務のジョン・カラザーズ警部(Inspector John Carruthers))

<宇野 利泰訳>


「Nicholson - Super Scale - London Atlas」から
セントジェイムズ地区の地図を抜粋。


私は車をとばして、ヘイ・マーケット(Haymarket)を過ぎ、人っ子ひとり通らぬペル・メル街(Pall Mall → 2016年4月30日付ブログで紹介済)を走り抜けました。これだけひろいロンドンでも、深夜、あの時刻のセント・ジェイムズ・ストリート(St. James’s Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)のはずれぐらい、寂しい感じをあたえる場所はありますまい。月が皎々と照っていまして、宮殿の門にかけられた金の大時計が、十二時を五分過ぎたことを知らせていました。西クリーヴランド・ロウのあたりは、すっかり灯も消えて、暗くなっておりました。ですから私は、ホスキンズから教わってはいましたが、裏手へまわることはしませんで、直接博物館の玄関へ、車を駐めたのでした。

(ジョン・カラザーズ警部)

<宇野 利泰訳>


クリーヴランドロウを挟んで、事件の舞台となるウェイド博物館の反対側に建つセントジェイムズ宮殿(St. James’s Palace)は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James’s)内に所在する最も古い宮殿の一つである。


トラファルガースクエア(Trafalgar Square)から西へ向かう通りは、ヘイマーケット通りとパル・マル通りの2つに分かれる。


夕暮れが迫るパル・マル通り
<筆者撮影>


ヘイマーケット通りは北上して、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)へと至る。

一方、パル・マル通りは更に西進して、進行方向左手にセントジェイムズ宮殿が見えたところで、セントジェイムズストリートとクリーヴランドロウの2つに分かれる。


セントジェイムズストリートの西側から東側を見たところ -
画面右奥斜めに延びる通りは、ジャーミンストリート(Jermyn Street)
<筆者撮影>


セントジェイムズストリートは北上して、ピカデリーサーカスからハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)へと向かって西進するピカデリー通り(Piccadilly → 2025年7月31日付ブログで紹介済)に突き当たり、終わっている。


クリーヴランドロウの東端 -
画面手前を右へ行くと、セントジェイムズストリートへ、
そして、画面左手へ戻ると、パル・マル通りへと至る。
なお、画面左側に建っているのは、セントジェイムズ宮殿。
<筆者撮影>


クリーヴランドロウは、セントジェイムズ宮殿の前を通り、更に西へ進み、グリーンパーク(Green Park)の手前で終わっている。


ケンブリッジ大学(University of Cambridge)創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターである
クェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が描いた
ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


セントジェイムズ宮殿は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王で、


*6回の結婚

*イングランド国教会の創設(自らが国教会の首長となる)とカトリック教会からの分離

*ローマ教皇庁との対立に伴う宗教改革(修道院の解散)


等で知られているヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)の命令により、公的な生活から逃れるための住まいとして、1531年から1536年にかけて、聖ジェイムズ(Saint James the Less)に捧げられたハンセン病患者用病院(leper hospital)が以前あった場所に建てられた。

ヘンリー8世は、当初、セントジェイムズ宮殿を、同宮殿の南側にあるセントジェイムズパーク(St. James’s Park)において鹿狩りを行うための狩猟用ロッジ(hunting lodge)として使用。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)
で販売されている
アン・ブーリンの肖像画の葉書
(Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel
543 mm x 416 mm) 


セントジェイムズ宮殿には、ヘンリー8世と彼の2番目の王妃で、後のエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年ー1603年)の生母でもあるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)のイニシャル「H. A.」が各所に記された。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
メアリー1世の肖像画の葉書
(Master John / 1544年 / Oil on panel
711 mm x 508 mm) 


テューダー朝の第4代イングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)は、セントジェイムズ宮殿において死去し、彼女の心臓と内臓は、同宮殿内の王室礼拝堂に埋葬されている。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年)も、セントジェイムズ宮殿を屡々使用し、1588年7月から8月にかけ、英仏海峡において、当時、「無敵」と呼ばれたスペイン艦隊(Spanish Armada)との間で行われた「アルマダの海戦(Battle of Armada)」の結果を待つ間、同宮殿で眠れむ夜を過ごしたと言われている。


世界一周航海を成し遂げたガレオン船ゴールデンハインド号
(Golden Hind)の舳先に立つサー・フランシス・ドレイク
(Sir Francis Drake:1543年頃ー1596年)-
サー・フランシス・ドレイクは、
イングランドの黄金期と言われている「エリザベス朝(Elizabethan era)」に、
海賊(私掠船の船長)、航海者、そして、英国海軍提督(中将)として活躍した人物で、

彼の最大の功績は、当時、「無敵」と呼ばれたスペイン艦隊(Spanish Armada)を相手にして、

1588年7月から8月にかけ、英仏海峡で行われた「アルマダの海戦(Battle of Armada)」において、

大勝利を収め、スペインによるイングランド侵攻を防いだことである。

厳密に言うと、彼は英国艦隊副司令官であったが、

実際には、艦隊の指揮を執り、火の付いた船をスペイン艦隊へと突撃させると言う海賊戦法を実践して、

相手を壊滅状態へと追い込んだ。

フランシス・ドレイク自身も、エリザベス1世とともに、

イングランド人にとって、英雄と看做されているが、海賊行為やアルマダの海戦の勝利等から、

スペイン人には、悪魔の化身であるドラゴンを意味する「ドラコ(Draco)」と呼ばれた。


結果として、「アルマダの海戦」に大勝利を収め、スペインによるイングランド侵攻を防いだことにより、エリザベス1世は、英国史における最も偉大な勝利者として、認識されるようになった。


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