2025年5月17日土曜日

ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)- その2

日本の出版社である岩波書店から岩波文庫として出版されている
ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の
「第二章 カーペット・バッグ」に付されている挿絵

 挿絵: ロックウェル・ケント
(Rockwell Kent:1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)


主にデヴォン州(Devon)を舞台にした田園小説、戯曲や詩作で既に名を成した英国の作家であるイーデン・ヘンリー・フィルポッツ(Eden Henry Phillpotts:1862年ー1960年 → 2022年2月6日 / 2月13日付ブログで紹介済)が1922年に発表した推理小説「赤毛のレドメイン家(The Red Redmaynes → 2022年6月12日+2025年4月20日 / 4月21日 / 4月23日付ブログで紹介済)」において、スコットランドヤードの刑事であるマーク・ブレンドン(Mark Brendon - 35歳)が心惹かれるジェニー・ペンディーン(Jenny Pendean)の2番目の叔父であるベンディゴー・レドメイン(Bendigo Redmayne - 貨物船の元船長 / 現在は、引退して、デヴォン州(Devon)に居住)は、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville:1819年ー1891年)作「白鯨(Moby-Dick of The Whale)」が愛読書と言う記述が見られる。


日本の出版社である岩波書店から岩波文庫として出版されている
ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の「第一章 まぼろし」に付されている挿絵
 挿絵: ロックウェル・ケント(1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)

ハーマン・メルヴィルは、1819年8月1日、父アラン・メルヴィル(Alan Melvill - 裕福な食料品輸入商)と母マリア・ガンズヴォート・メルヴィル(Maria Gansevoort Melvill)の次男として、ニューヨーク市(New York City)パール街6番地に出生。彼は、8人兄弟の3番目で、彼の上には、兄ガンズヴォート(Gansevoort:3歳)と姉ヘレン・マリア(Helen Maria:2歳)が居た。


1825年9月、6歳になったハーマン・メルヴィルは、ニューヨーク男子中学校(New York Male igh School)に入学したが、彼が11歳になった1830年、父の店が経営不振に陥ったため、メルヴィル一家はニューヨークの店を畳んで、母の実家があるオールバニー(Albany - ニューヨーク州の州都)へと引っ越す。そして、ハーマン・メルヴィルは、オールバニーアカデミー(Albany Academy)に転入。


日本の出版社である岩波書店から岩波文庫として出版されている
ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の「第二章 カーペット・バッグ」に付されている挿絵
 挿絵: ロックウェル・ケント(1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)

ハーマン・メルヴィルが13歳になった1832年1月28日、父アラン・メルヴィルが、多額の負債を残して、半狂乱のうちに死去。そのため、ハーマン・メルヴィルは、これ以上、勉学を続けることが難しくなり、オールバニーアカデミーを中退。そして、伯父であるピーター・ガンズヴォート(Peter Gansevoort)の口利きにより、ニューヨーク州立銀行(New York State Bank)の事務員として働き始めた。


1834年5月、兄ガンズヴォートが経営して居た毛皮工場が、火災により焼失。元手を失った兄ガンズヴォートは、毛皮販売店を始め、ハーマン・メルヴィルは、ニューヨーク州立銀行を退職して、兄の店を手伝うようになる。

1835年、ハーマン・メルヴィル(16歳)は、兄の店を手伝いながら、オールバニー古典学校(Albany Classical School)へと通う。


日本の出版社である岩波書店から岩波文庫として出版されている
ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の「第三章 潮吹き亭」に付されている挿絵
 挿絵: ロックウェル・ケント(1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)

1837年、兄ガンズヴォートの店が倒産したため、ハーマン・メルヴィル(18歳)は、16歳の時に取得した教員の資格を使い、短い間ではあったが、小学校の教員を務めた。

父アラン・メルヴィルが残した多額の負債の債権者達に迫られる程、メルヴィル一家の家計が逼迫したため、彼が19歳になった1838年、メルヴィル一家は、オールバニーに程近いランシンバーグ(Lansingburgh)へ夜逃げすることになった。そこで、ハーマン・メルヴィルは、測量土木技師を志して、ランシンバーグアカデミー(Lansingburgh Academy)において、勉学に励んだ。

しかしながら、夜逃げ先のランシンバーグでも、メルヴィル一家は生活が成り立たなくなり、その結果、ハーマン・メルヴィルは、1839年、止む無く、ニューヨーク市に居た兄ガンズヴォートの紹介により、船員となる。この時の経験が、後に「白鯨」を執筆するためのベースとなったと言える。


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