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ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)内で 所蔵 / 展示されているエドワード7世の胸像 (By Sydney March / Electrotype bronze / 1924年 / based on a portrait of 1901)- その1 |
エドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝(Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝は、1841年11月9日、ハノーヴァー朝(Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)と王配のアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)の第2子(長男)として出生し、同年12月4日にウェールズ公(Prince of Wales)の称号を得ている。そして、1842年1月25日に洗礼を受け、「アルバート・エドワード(Albert Edward)」と名付けられ、「バーティー(Bertie)」と愛称された。
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ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、 英国のロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その1)- 画面手前左側の人物がアルバート公で、 画面手前右側の人物がヴィクトリア女王 |
英国王室に皇太子が生まれたのは、1762年8月12日にジョージ(後のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年))以来、約80年ぶりだった。
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ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている ヴィクトリア女王の胸像 (By Sir Francis Leggatt Chantrey / Marble / 1841年)- エドワード7世が生まれた頃に制作されていると言える。 |
アルバート・エドワードは、幼少期・少年期の間、母(ヴィクトリア女王)と父(アルバート公)による厳格な教育方針の下、家庭教育で育てられたが、次第に、両親は、バーティーに期待をかけなくなってしまう。
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ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、 英国のロイヤルメールから2019年に発行された切手(その2) |
アルバート・エドワードは、1859年10月にオックスフォード大学(University of Oxford → 2015年11月21日付ブログで紹介済)に入学するが、これは、英国の歴代国王では、初めての大学入学である。
その後、1861年10月にはケンブリッジ大学(University of Cambridge)へ転送するものの、不良行為のため、問題が多かった。
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ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている ヴィクトリア女王の肖像画 (By Sir George Hayter / Oil on canvas / 1863年 / based on a portrait of 1838) |
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ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている アルバート公の肖像画 (By Franz Xaver Winterhalter / Oil on canvas / 1867年 / based on a portrait of 1859) |
1861年11月のある日、外国の大衆紙上、アルバート・エドワードと女優のネリー・クリフデンの交際報道が掲載され、父のアルバート公は、ケンブリッジ大学から呼び出しを受ける。当時、ケンブリッジ大学の総長でもあったアルバート公は、風邪気味で体調が悪かったにもかかわらず、無理を押して、アルバート・エドワードが居住するケンブリッジ(Cambridge)へと向かった。
これが原因となり、ケンブリッジからウィンザー(Windsor)へと戻って来たアルバート公は、腸チフスを併発して、同年12月14日に崩じてしまう。まだ42歳の若さだった。
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ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている エドワード7世の胸像 (By Sydney March / Electrotype bronze / 1924年 / based on a portrait of 1901)- その1- その2 |
「バーティーが、愛する夫を殺したのだ。こんな不肖の息子に、自分の後を継がせたくない。」と思った母のヴィクトリア女王は、以降、アルバート・エドワードを疎むようになり、意図的に公務から遠ざけ、貴族院議員で枢密院顧問官にもなっていた息子が政治に関与することを頑なに拒んだ。
王立ロンドン病院(The Royal London Hospital)の入口の反対側に設置されている アレクサンドラ・オブ・デンマーク像 |
その一方で、ヴィクトリア女王は、息子を早く一人前にするために、夫アルバート公の死去から約1年後の1863年3月に、アルバート・エドワードをデンマーク王女のアレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年 / デンマーク国王クリスチャン9世の娘)と結婚させたのである。

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