2025年5月31日土曜日

エドワード7世(Edward VII)- その3

ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery
→ 2025年5月13日 / 5月18日 / 5月23日 / 5月28日付ブログで紹介済)に
所蔵 /展示されているエドワード7世の胸像(その1)
< By Walter Merrett(1873年ー1911年)/ 1902年 / Marble >

 後にサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝(House of Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝であるエドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)となるアルバート・エドワード(Albert Edward)と女優のネリー・クリフデンの交際報道が、1861年11月のある日、外国の大衆紙上に掲載され、父のアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)は、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)から呼び出しを受ける。当時、ケンブリッジ大学の総長でもあったアルバート公は、風邪気味で体調が悪かったにもかかわらず、無理を押して、アルバート・エドワードが居住するケンブリッジ(Cambridge)へと向かった。

これが原因となり、ケンブリッジからウィンザー(Windsor)へと戻って来たアルバート公は、腸チフスを併発して、同年12月14日に崩じてしまう。まだ42歳の若さだった。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その3)-
画面右側の人物がヴィクトリア女王で、
画面左側の人物が馬係のジョン・ブラウン(John Brown:1826年ー1883年)


夫のアルバート公を亡くしたハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)の悲しみは深く、その後、10年以上にわたって、隠遁生活を始めた。

ヴィクトリア女王は、ワイト島(Isle of Wight)にある英国王室の離宮オズボーンハウス(Osborne House)やスコットランド(Scotland)アバディーンシャー(Aberdeenshire)にあるバルモラル城(Balmoral Castle)等に隠遁して、ロンドンへは滅多に出てこなくなった。国の儀式にも出席せず、社交界に顔を出すこともなくなった。偶に人前に姿を見せる場合でも、常に喪服姿だった。


ギルドホールアートギャラリーに
所蔵 /展示されているアレクサンドラ・オブ・デンマークの胸像(その1)
< By Walter Merrett(1873年ー1911年)/ 1904年 / Marble >


ヴィクトリア女王は、息子を早く一人前にするために、夫アルバート公の死去から約1年後の1863年3月に、アルバート・エドワードをデンマーク王女のアレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年 / デンマーク国王クリスチャン9世の娘)と結婚させた。


ギルドホールアートギャラリー
所蔵 /展示されているエドワード7世の胸像(その2)
< By Walter Merrett(1873年ー1911年)/ 1902年 / Marble >


その一方で、「バーティー(Bertie - アルバート・エドワードの愛称)が、愛する夫を殺したのだ。こんな不肖の息子に、自分の後を継がせたくない。」と思ったヴィクトリア女王は、以降、アルバート・エドワードを疎むようになり、意図的に公務から遠ざけ、貴族院議員で枢密院顧問官にもなっていた息子が政治に関与することを頑なに拒んだ。

ヴィクトリア女王による隠遁生活が続く中、本来であれば、ウェールズ公(Prince of Wales)であるアルバート・エドワードが公務を代行すべきところであったが、彼は「生殺し」状態におかれたのである。その結果、アルバート・エドワードは、愛人を囲い、また、パリでの社交生活に浸るようになっていく。


ギルドホールアートギャラリー
所蔵 /展示されているアレクサンドラ・オブ・デンマークの胸像(その2)
< By Walter Merrett(1873年ー1911年)/ 1904年 / Marble >


アルバート・エドワードには、母のヴィクトリア女王も認めていた唯一の美点として、社交好きで、人当たりがよいことがあり、この時期、その美点が発揮される。


(1)

1866年11月、ロシア皇子であるアレクサンドル(1845年ー1894年 → 後のロマノフ朝第13代ロシア皇帝アレクサンドル3世(在位期間:1881年ー1894年)とデンマーク王女であるマリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(Marie Sophie Frederikke Dagmar:1847年ー1928年)の結婚式に出席するために、訪露。

マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマーは、アルバート・エドワードの妻となったアレクサンドラ・オブ・デンマークの妹だった。

アルバート・エドワードは、母のヴィクトリア女王の反対を押し切って、ペテルブルク(Petersburg)へと出向き、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝であるアレクサンドル2世(1818年ー1881年 在位期間:1855年ー1881年)が駅まで彼を出迎えると言う異例の歓迎であった。

こうして、クリミア戦争(Crimean War:1853年ー1856年)以降、険悪な状態になった英国とロシアの関係修復を行ったのである。


(2)

1867年6月、フランス第二帝政の皇帝であるナポレオン3世(Napoleon III:1808年ー1873年 在位期間:1852年ー1870年)が国運を賭けて開催した「パリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1867)」にも、隠遁中のヴィクトリア女王に代わって出席して、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝であるアレクサンドル2世にガーター勲章(Order of the Garter)を授与することに尽力、ロシア皇室との更なる親善を図った。


1864年、妻アレクサンドラ・オブ・デンマークの母国であるデンマークとプロイセン / オーストリアの間に、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したため、アルバート・エドワードは、ロンドンにおいて、仲裁会議を開催したものの、残念ながら、失敗に終わり、最終的に、デンマークはシュレースヴィヒとホルシュタインを失う。

これを契機となり、アルバート・エドワードとアレクサンドラ・オブ・デンマークは、反プロイセン派となっていたが、アルバート・エドワードは、同じく「パリ万国博覧会」に出席していたプロイセン国王とも、旧交を温めた。


(3)

1869年1月から、エジプト、トルコとギリシャの3ヶ国を訪問。


上記の通り、ヨーロッパ国際政治の「王室外交」と言う分野において、アルバート・エドワードは、自分の美点を遺憾なく発揮したのである。


2025年5月30日金曜日

ロンドン サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum)- その2

サー・ジョン・ソーンズ博物館で所蔵 / 展示されている作品(その1)


米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が1935年に発表した推理小説で、ギディオン・フェル博士(Dr. Gideon Fell)が登場するシリーズ第5作目に該る「死時計(Death-Watch → 2025年4月30日 / 5月4日付ブログで紹介済)」において言及される「サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum)」は、リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln’s Inn Fileds → 2016年7月3日付ブログで紹介済)に面して建っている博物館で、英国の古典主義を代表する建築家で、1788年にロバート・テイラー(Robert Taylor:1714年ー1788年)の後を継いで、イングランド銀行(Bank of England → 2015年6月21日 / 6月28日付ブログで紹介済)の建築家に就任し、その後、1833年まで45年間にわたり、その任を務めたサー・ジョン・ソーン(Sir John Soane:1753年ー1837年)の邸宅兼スタジオを使用しており、彼が手掛けた建築に関する素描、図面や建築模型、更に、彼が収集した絵画や骨董品等を所蔵している。


サー・ジョン・ソーンズ博物館で所蔵 / 展示されている作品(その2)

ジョン・ソーンは、妻エリザベス・ソーン(Elizabeth Soane / 旧姓:スミス(Smith)- 1784年8月21日に結婚)の叔父ジョージ・ワット(George Wyatt - ロンドンの建築業者で、1790年2月に死去)の遺産を相続した後、1792年6月30日にリンカーンズ・イン・フィールズ12番地(12 Lincoln’s Inn Fileds)の物件を購入。

そして、1792年から1794年にかけて、自分の設計に基づき、当時特有の質素な煉瓦家屋だった建物を取り壊しの上、再築を行い、1794年1月18日に移り住んだ。


リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟
現在、玄関は、博物館からの出口として使用されている。


1806年に王立芸術院(Royal Academy of Arts)の建築教授に就任した後、1808年6月に隣接するリンカーンズ・イン・フィールズ13番地(13 Lincoln’s Inn Fileds)の物件を購入。

当初、購入したリンカーンズ・イン・フィールズ13番地を前の所有者に賃貸しつつ、翌年の1809年にかけて、建物の裏手の馬小屋だった場所に、製図室と博物館を建設。これが、現在の博物館の元となっている。

そして、1812年7月に建物を取り壊して、ポートランド石(Portland stone)製の外壁を有する地下1階 / 3階建ての建物を再築した後、同年10月にリンカーンズ・イン・フィールズ12番地から同13番地へと引っ越し、同12番地の建物を賃貸に出した。

リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の再築は完了したものの、ジョン・ソーンは、絶えず建物の内部を改装し続けた。


リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟
現在、玄関は、博物館への入口として使用されている。
建物の外壁は、ポートランド石で覆われている。


1823年に更に隣りのリンカーンズ・イン・フィールズ14番地(14 Lincoln’s Inn Fileds)を購入し、翌年の1824年にかけて、取り壊しの上、建物の裏手の馬小屋だった場所に、同13番地に連続した絵画ギャラリーを建築。

1825年3月に建物を再築して、外壁は同12番地の建物と同じようにした。ただ、同14番地の玄関は他の建物とは別個のままで、内部でも他の建物とは繋げられなかった。また、同14番地の建物も、投資のために貸し出された。


リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟
建物の外壁は、同12番地と同じようになっている。


ジョン・ソーンの死に際して、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地 / 13番地の建物は、国家に寄贈される。これは、同12番地の賃貸収入が博物館の運営資金となることを、彼が意図していたのである。


サー・ジョン・ソーンズ博物館で所蔵 / 展示されている作品(その3)

19世紀の終わり頃までに、リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の後方の部屋と同13番地の博物館を繋げる作業が実施され、1969年からは、同12番地も、学術図書館 / オフィスとして運営される。


サー・ジョン・ソーンズ博物館で所蔵 / 展示されている作品(その4)

サー・ジョン・ソーンズ博物館は、当初より、ジョン・ソーンの遺産により独立運営されていたが、1947年に国の建築研究センターとなった結果、文化・メディア・スポーツ省を通じて、英国政府から補助金を受け取ることができるようになった。

そして、1997年に文化遺産宝くじ基金(National Lottery Heritage Fund)による援助を受けて、リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の残りの大部分が購入され、現在に至っている。


2025年5月29日木曜日

ミシェル・バークビー作「ベイカー街の女たちと幽霊少年団」(The Women of Baker Street by Michelle Birkby)- その3

英国の Pam Macmillan 社から2017年に出版された
ミシェル・バークビー作「ベイカー街の女たちと幽霊少年団」
ペーパーバック版の裏表紙
(Cover Images : Roy Bishop / Arcangel Images & Shutterstock)

腹部の閉塞症のために倒れて、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)において緊急手術を受けたハドスン夫人(Mrs. Hudson - マーサ・ハドスン(Martha Hudson))は、寝たふりを更に続け、特別病棟の患者全員の観察を行った。

午後の面会時間になると、見舞客達がやって来た。

一番乗りは、ベティー・ソランド(Betty Soland - ハドスン夫人の二つ右隣りの患者 / 階段から落ち、脚を骨折して入院中 / 編み物や縫い物で、始終手を動かしている)の6人姉妹(8歳から20歳)で、ベティー・ソランドは、娘達をベッドの前に並ばせると、できたばかりのへんてこりんな服を手渡していた。

二番目は、70代の背の高い軍人風の男性で、エリナー・ランガム(Eleanor Langham -  ベティー・ソランドの正面に居る患者 / 心臓病のため、最近手術を受けたばかり / ベッドの脇にある椅子が定位置で、大抵の時間は、ただ椅子に腰掛けて、周りの様子を眺めている)の元を訪れていた。

また、エマ・フォーダイス(Emma Fordyce - ミランダ・ローガン(Miranda Logan)の正面に居る患者 / 歳を召していて、あちこち悪いところがあるみたいだが、老いを楽しんでいる様子 / 過去に非凡な面白い体験をしていて、思い出話を他の人に聞かせるのが大好き)のところにも、スーツ姿の男性が見舞いに来ていた。

英国の Pam Macmillan 社から2017年に出版された
ミシェル・バークビー作「ベイカー街の女たちと幽霊少年団」
ペーパーバック版内に付されている
セントバーソロミュー病院の特別病棟の見取り図

少し遅れて、ワトスン夫人(Mrs. Watson)となったメアリー・ワトスン(Mary Watson - 旧姓:モースタン(Morstan))が、大慌てでやって来た。何故か、帽子は歪んでいる上に、ジャケットのボタンもかけ違えているし、服と靴もちぐはぐだった。

「何か心配事でも?」と尋ねるハドスン夫人に対して、メアリー・ワトスンは、「(ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)の)給仕のビリー(Billy)経由、ベイカーストリート不正規隊(Baker Street Irregulars)のウィギンズ(Wiggins)から聞いた話が気になっている。」と答えた。


ウィギンズによると、ロンドンの街角から、少年達が忽然と姿を消している、とのこと。また、それは、もう数年前から起きていることで、誰も不審には思っていないらしい。

ベイカーストリート不正規隊の子供達のことを心配するハドスン夫人であったが、メアリー・ワトスンは、「ベイカーストリート不正規隊の面々には、そう言ったことは起きていない。」と言って、安心させた。

不思議なことに、突然に姿を消すのは、路上で生活している浮浪児だけではなく、様々な場所で発生していることだった。

ある日、いつも交差点で働いていた掃除係の少年(crossing sweeper)が見当たらないことに、ウィギンズが気付いた。その数日後には、ちゃんと家があり、母親と一緒に暮らしていた別の少年も、姿を消した。

彼ら2人は未だに帰ってこないし、行方も全く判らない。ウィギンズが方々の知り合いにあたって捜したものの、警察にも、救貧院にも居らず、彼らの足取りは全くつかめなかった。まるで、地面に飲み込まれたような姿の消し方なのだ。


メアリー・ワトスンは、更に話を続ける。

ウィギンズは、捜索の範囲をホワイトチャペル(Whitechapel)や波止場、また、高級住宅街であるメイフェア地区(Mayfair)まで広げたところ、方々で少年達が拐われていると言う噂に行き当たった。10年程前から、20人位が居なくなっているらしい。


ウィギンズが行き当たった噂は、もう一つあった。それは、「幽霊少年団(The Pale Boys)」のことだった。

(1)夜間だけ、街角に姿を見せる。

(2)街灯の明かりには決して近付かない。

(3)往来の激しい大通りには、足を踏み入れない。

(4)全員、青白い顔をして、闇に溶け込みそうな黒づくめの服装をしている。

(5)薄暗い道端や人気の無い路地を彷徨く。

(6)何年経っても、歳をとらないし、飲んだり食べたりもしない。

(7)彼らの姿を見た者は、死んでしまう。

(She told me the tale of the Pale Boys. Boys who came onto the street only at night. They never came into the light. They never went onto the Main Street. They had pale faces, and all black clothes, and they melted into the shadows. They walked in dark corners and deserted alleyways. They never grew old, and never ate or drank and if you saw them, you would die.)


まるで怪談話(ghost story)だと思ったハドスン夫人ではあったが、「手始めに、一番新しい失踪事件である交差点掃除係の少年の件について、更に聞き込みを進めてはどうか?」と助言すると、メアリー・ワトスンは、嬉しそうに笑って、帰って行った。


2025年5月28日水曜日

ロンドン ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery)- その4

「ラファエル前派」を代表する英国の画家 / 詩人である
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti:1828年ー1882年)作
「La Ghirlandata」<1873年 / Oil on canvas>


ロンドン市長(Mayor of London)とは別に、もう一人のロンドン市長、つまり、自治権を有するシティー・オブ・ロンドン(City of London → 2018年8月4日 / 8月11日付ブログで紹介済)の市長(Lord Mayor of London)による行政の拠点となる市庁舎「ギルドホール(Guildhall)」に隣接して建つ「ギルドホールアートギャラリー (Guildhall Art Gallery)」は、シティー・オブ・ロンドンが所有する約4000点に及ぶ絵画や彫刻作品等を所蔵 / 展示している。


ギルドホールアートギャラリーの所蔵 / 展示作品のうち、フランスの画家であるポール・ドラローシュ(Paul Delaroche:1797年ー1856年)作「レディー ジェーン・グレイの処刑(The Execution of Lady Jane Grey)」の小型版(1834年頃)については、2025年5月18日付ブログで、また、目玉となるボストン出身の画家であるジョン・シングルトン・コプリー(John Singleton Copley:1738年ー1815年)による絵画「ジブラルタル浮き砲台の敗北、1782年9月(the Defeat of the Floating Batteries at Gibraltar, September 1782)」(1783年)に関しては、2025年5月23日付ブログで既に紹介済である。


上記の2作品の他に、ヴィクトリア朝時代の絵画コレクションは秀逸で、特にラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の作品が豊富に所蔵 / 展示されている。


'The Great Fire of London, 1666' by Waggoner(active 1666年頃ー1685年)
<Date unknown / Oil on canvas>>

'The Monument from Gracechurch Street' by Canalette(1697年頃ー1768年)
<Date unknown / Oil on canvas>

'Blackfriars Bridge and St. Paul's, London' by William Marlow(1740年ー1813年)
<1762年頃 / Oil on canvas>

'The Thames by Moonlight with Southwark Bridge'
by John Atkinson Grimshaw(1836年ー1893年)
<1884年 / Oil on canvas>

英国のロマン主義の画家で、一般的に「J・M・W・ターナー(J. M. W. Turner)」として知られている
ジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner:1775年ー1851年
→ 2018年7月1日 / 7月8日 / 7月15日付ブログで紹介済)作
「View at Hythe, Kent」<1824年 / Watercolour on paper>

19世紀の英国を代表する風景画家である
ジョン・コンスタブル(John Constable:1776年ー1837年)作
「Salisbury Cathedral from the Meadows」
<1829年ー1831年>

フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)像
by Walter Merrett(1873年ー1911年)
<1912年 / Marble>

'Charles, Prince of Wales' by David Wynne(1926年ー)
<1969年 / Bronze>

                                      

                                   

2025年5月27日火曜日

コナン・ドイル作「瀕死の探偵」<英国 TV ドラマ版>(The Dying Detective by Conan Doyle )- その1

ジェレミー・ブレットがシャーロック・ホームズとして主演した
英国のグラナダテレビ制作「シャーロック・ホームズの冒険」の
DVD コンプリートボックス2巻目の表紙

 サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作「瀕死の探偵(The Dying Detective → 2025年5月5日 / 5月21日付ブログで紹介済)」は、シャーロック・ホームズシリーズの短編小説56作のうち、43番目に発表された作品で、英国の「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の1913年12月号に、また、米国の「コリアーズ ウィークリー(Collier’s Weekly)」の1913年11月22日号に掲載された。

同作品は、1917年に発行されたホームズシリーズの第4短編集「シャーロック・ホームズ最後の挨拶(His Last Bow)」に収録されている。


本作品は、英国のグラナダテレビ(Granada Television Limited)が制作した「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1984年ー1994年)において、TV ドラマとして映像化された。具体的には、第6シリーズ(The Memoirs of Sherlock Holmes)の第2エピソード(通算では第37話)として、英国では1994年に放映されている。


英国で出版された「ストランドマガジン」
1913年12月号に掲載された挿絵(その3) -
病床につくシャーロック・ホームズに依頼された
ジョン・H・ワトスンは、
ノッティングヒル(Notting Hill)とケンジントン(Kensington)の間にある
ロウワーバークストリート13番地(13 Lower Burke Street
→ 2015年5月9日付ブログで紹介済)に住む
カルヴァートン・スミスの元へと向かった。

画面左側の人物がワトスンで、画面右側の人物がカルヴァートン・スミス。
挿絵:ウォルター・スタンレー・パジェット
(Walter Stanley Paget:1862年ー1935年)

なお、ウォルター・スタンリー・パジェットは、
シャーロック・ホームズシリーズのうち、

第1短編集の「シャーロック・ホームズの冒険

(The Adventures of Sherlock Holmes)」(1892年)、

第2短編集の「シャーロック・ホームズの回想

(The Memoirs of Sherlock Holmes)」(1893年)、

第3短編集の「シャーロック・ホームズの帰還

(The Return of Sherlock Holmes)」(1905年)および

長編第3作目の「バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)」

「ストランドマガジン」1901年8月号から1902年4月号にかけて連載された後、

単行本化)の挿絵を担当したシドニー・エドワード・パジェット

(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)の弟である。


配役は、以下の通り。


(1)シャーロック・ホームズ → ジェレミー・ブレット(Jeremy Brett:1933年ー1995年)

(2)ジョン・ワトスン → エドワード・ハードウィック(Edward Hardwicke:1932年ー2011年)


(3)ハドスン夫人(Mrs. Hudson)→ Rosalie Williams


<事件関係者>

(4)カルヴァートン・スミス(Culverton Smith:アマチュアの病理学者)→ Jonathan Hyde

(5)ヴィクター・サヴィジ(Victor Savage:Oxford and Lombard Bank の重役 / カルヴァートン・スミスの従兄弟)→ Richard Bonnerville

(6)アデレイド・サヴィジ(Adelaide Savage:ヴィクター・サヴィジの妻)→ Susannah Harker

(7)マリーナ・サヴィジ(Marina Savage:ヴィクターとアデレイドの娘)→ Rachel Rice

(8)ジョージ・サヴィジ(George Savage:ヴィクターとアデレイドの息子)→ 不明

(9)ジョン・ゲッドグレイヴ(John Gedgrave:ヴィクター・サヴィジを阿片窟へ誘った人物)→ Roy Hudd

(10)チャールズ・ダーマント(Charles Damant:ヴィクター・サヴィジの弁護士)→ Trevor Bowen

(11)カルナック大佐(Colonel Carnac:ヴィクター・サヴィジが開催した晩餐会への招待客)→ Rowland Davies

(12)カルナック夫人(Mrs. Carnac:ヴィクター・サヴィジが開催した晩餐会への招待客)→ Caroline John

(13)ベンスン(Benson:ヴィクター・サヴィジの馬丁)→ Keiran Flynn

(14)ステイプルズ(Staples:カルヴァートン・スミスの執事)→ Malcolm Hebden 


<警察関係者>

(15)ペンローズ・フィッシャー(Penrose Fisher:検死官)→ Shaughan Seymour

(16)モートン警部(Inspector Morton:スコットランドヤードの警部)→ John Labanowski

(17)警官(Police Sergeant)→ Colin Stevens


(4)

「ストランドマガジン」誌上に掲載されたウォルター・スタンレー・パジェット(Walter Stanley Paget:1862年ー1935年)による挿絵によると、カルヴァートン・スミスは、老人として描かれているが、英国 TV ドラマ版の場合、中年の男性として描かれている。これは、コナン・ドイルの原作の場合、カルヴァートン・スミスとヴィクター・サヴィジの関係は、「伯父と甥」の関係にあったが、英国 TV ドラマ版の場合、「従兄弟同士(従兄と従弟)」と言う設定に変更されているからである。

また、コナン・ドイルの原作の場合、ホームズは、ワトスンに対して、「カルヴァートン・スミスは、医者ではなく、農場主(planter)ではあるが、自分が罹患した病気に詳しい唯一の人物。」と説明しているが、英国 TV ドラマ版の場合、アマチュアの病理学者と言う設定になっている。


(5)

コナン・ドイルの原作では、名前が言及されるのみであるが、英国 TV ドラマ版の場合、銀行の重役を務めているものの、詩人になることを夢見て、詩作の想像力を高めるために、阿片窟に出入りしている人物として描かれている。

なお、ヴィクター・サヴィジ役を、TV シリーズ「ダウントンアビー(Downton Abbey)」(2010年ー2015年)への出演で有名な Hugh Bonnerville が演じている。彼のミドルネームは「Richard」で、当作品当時、Richard Bonnerville の芸名を使用していた。


(6)・(7)・(8)・(9)・(10)・(11)・(12)・(13)

英国 TV ドラマ版用に設けられた役であり、コナン・ドイルの原作には登場しない。


(15)

英国 TV ドラマ版用に設けられた役であり、コナン・ドイルの原作には登場しない。


2025年5月26日月曜日

エドワード7世(Edward VII)- その2

ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)内で
所蔵 / 展示されているエドワード7世の胸像
(By Sydney March / Electrotype bronze / 1924年 /
based on a portrait of 1901)- その1


エドワード7世(Edward VII:1841年ー1910年 在位期間:1901年ー1910年)は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝(House of Saxe-Coburg and Gotha)の初代英国国王 / インド皇帝は、1841年11月9日、ハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王で、かつ、初代インド女帝であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年)と王配のアルバート公(Albert Prince Consort:1819年ー1861年)の第2子(長男)として出生し、同年12月4日にウェールズ公(Prince of Wales)の称号を得ている。そして、1842年1月25日に洗礼を受け、「アルバート・エドワード(Albert Edward)」と名付けられ、「バーティー(Bertie)」と愛称された。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手(その1)-
画面手前左側の人物がアルバート公で、
画面手前右側の人物がヴィクトリア女王


英国王室に皇太子が生まれたのは、1762年8月12日にジョージ(後のジョージ4世(George IV:1762年ー1830年 在位期間:1820年ー1830年))以来、約80年ぶりだった。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ヴィクトリア女王の胸像
(By Sir Francis Leggatt Chantrey / Marble / 1841年)
-
エドワード7世が生まれた頃に制作されていると言える。


アルバート・エドワードは、幼少期・少年期の間、母(ヴィクトリア女王)と父(アルバート公)による厳格な教育方針の下、家庭教育で育てられたが、次第に、両親は、バーティーに期待をかけなくなってしまう。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
英国のロイヤルメールから2019年に発行された切手(その2)


アルバート・エドワードは、1859年10月にオックスフォード大学(University of Oxford → 2015年11月21日付ブログで紹介済)に入学するが、これは、英国の歴代国王では、初めての大学入学である。

その後、1861年10月にはケンブリッジ大学(University of Cambridge)へ転送するものの、不良行為のため、問題が多かった。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
ヴィクトリア女王の肖像画
(By Sir George Hayter / Oil on canvas / 1863年 /
based on a portrait of 1838)

ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
アルバート公の肖像画
(By Franz Xaver Winterhalter / Oil on canvas / 1867年 /
based on a portrait of 1859)

1861年11月のある日、外国の大衆紙上、アルバート・エドワードと女優のネリー・クリフデンの交際報道が掲載され、父のアルバート公は、ケンブリッジ大学から呼び出しを受ける。当時、ケンブリッジ大学の総長でもあったアルバート公は、風邪気味で体調が悪かったにもかかわらず、無理を押して、アルバート・エドワードが居住するケンブリッジ(Cambridge)へと向かった。

これが原因となり、ケンブリッジからウィンザー(Windsor)へと戻って来たアルバート公は、腸チフスを併発して、同年12月14日に崩じてしまう。まだ42歳の若さだった。


ナショナルポートレートギャラリー内で所蔵 / 展示されている
エドワード7世の胸像
(By Sydney March / Electrotype bronze / 1924年 /
based on a portrait of 1901)- その1- その2

「バーティーが、愛する夫を殺したのだ。こんな不肖の息子に、自分の後を継がせたくない。」と思った母のヴィクトリア女王は、以降、アルバート・エドワードを疎むようになり、意図的に公務から遠ざけ、貴族院議員で枢密院顧問官にもなっていた息子が政治に関与することを頑なに拒んだ。


王立ロンドン病院(The Royal London Hospital)の入口の反対側に設置されている
アレクサンドラ・オブ・デンマーク像


その一方で、ヴィクトリア女王は、息子を早く一人前にするために、夫アルバート公の死去から約1年後の1863年3月に、アルバート・エドワードをデンマーク王女のアレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844年ー1925年 / デンマーク国王クリスチャン9世の娘)と結婚させたのである。


2025年5月25日日曜日

<第1800回> ロンドン スローンスクエア(Sloane Square)


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1933年に発表したエルキュール・ポワロシリーズの長編(第7作目)「エッジウェア卿の死」(Lord Edgware Dies - 米国版タイトル:Thirteen at Dinner(晩餐会の13人) → 2015年3月19日 / 3月29日付ブログで紹介済)は、エルキュール・ポワロとアルゼンチンから一時帰国したアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)の2人が、米国からロンドン/パリ公演ツアーに来ている女芸人カーロッタ・アダムズ(Carlotta Adams)の舞台を観たところから、その物語が始まる。



背景や衣装等を必要としない彼女の「人物模写演技」は完璧で、一瞬で顔つきや声音等を変えて、その人自身になりきるのであった。第4代エッジウェア男爵ジョージ・アルフレッド・セント・ヴィンセント・マーシュ(George Alfred St. Vincent Marsh, 4th Baron Edgware)/ エッジウェア卿(Lord Edgware)と結婚している米国出身の舞台女優ジェーン・ウィルキンスン(Jane Wilkinson)の物真似に関しても見事の一言で、ポワロは深く感銘を受ける。

更に、驚くことには、ポワロとヘイスティングス大尉の真後ろの席には、ジェーン・ウィルキンスン本人と映画俳優のブライアン・マーティン(Bryan Martin)の2人が、カーロッタ・アダムズによるジェーン・ウィルキンスンの人物模写演技を楽し気に観劇していた。



女芸人カーロッタ・アダムズによる舞台が終わった後、ポワロとヘイスティングス大尉は、サヴォイホテル(Savoy Hotel → 2016年6月12日付ブログで紹介済)へと移動して、夕食をとる。

その夕食の途中、ブライアン・マーティンと一緒に居たジェーン・ウィルキンスンが、ポワロの席を訪れて、内密の会話を求める。



ジェーン・ウィルキンスンが宿泊している同ホテル3階にある彼女の部屋へと移動した後、彼女から「離婚話に応じない夫を説得してもらいたい。」という依頼を受けたポワロが、その2-3日後、リージェントゲート(Regent Gate → 2025年3月23日付ブログで紹介済)にあるエッジウェア卿の邸を訪問したところ、彼は「6ヶ月も前に、離婚に同意する旨を彼女宛に手紙で既に伝えた。」と答えるのであった。話のくい違いに納得がいかないポワロであったが、そのまま帰宅せざるを得なかった。

エッジウェア卿邸を出たその足で、ポワロとヘイスティングス大尉の2人は、サヴォイホテルへと赴き、ジェーン・ウィルキンスンと面会するものの、彼女曰く、「夫からそのような手紙を受け取っていない。」とのことだった。

更に、ポワロ達は、ジェーン・ウィルキンスンから、「夫との離婚が成立でき次第、現在交際しているマートン公爵(Duke of Merton)との再婚を考えている。」と告げられた。



その翌朝(6月30日の午前9時半)、スコットランドヤードのジャップ警部(Inspector Japp)が、ポワロの元を訪れる。

ジャップ警部から、ポワロとヘイスティングス大尉の2人は、「前夜、エッジウェア卿が、リージェントゲートの自邸の書斎において、頸部を刺され、殺害された。」と知らされる。

エッジウェア卿の執事であるアルトン(Alton)と秘書であるミス・キャロル(Miss Carroll)は、「事件があった当夜の午後10時頃、ジェーン・ウィルキンスンがエッジウェア卿を訪ねて来たので、書斎へと通した」ことを証言する。

ところが、ジェーン・ウィルキンスンは、「夫が殺された当夜、テムズ河(River Thames)畔のチジック地区(Chiswick → 2016年7月23日付ブログで紹介済)内に邸宅を所有しているサー・モンタギュー・コーナー(Sir Montague Corner)が開催した盛大な晩餐会に出席していた。」と答え、また、その晩餐会に出席していた他の客達も、彼女がその場に居たことを認めた。つまり、妻で、一番疑わしいジェーン・ウィルキンスンには、アリバイがあったのだ。



ジェーン・ウィルキンスン以外にも、エッジウェア卿を嫌っていた人物は、複数居た。

一人目が、エッジウェア卿の甥であるロナルド・マーシュ(Ronald Marsh)で、 お金に困っている上に、エッジウェア卿のタイトルを狙っていた。

二人目は、エッジウェア卿の先妻の娘であるジェラルディン・マーシュ(Geraldine Marsh)で、 父親であるエッジウェア卿に追い出された後、不遇の死を遂げた母親のことで、父親を恨んでいた。



ポワロは、人物模写演技を得意とする女芸人のカーロッタ・アダムズであれば、事件当夜にリージェントゲートにあるエッジウェア卿の自邸を訪れたと執事と秘書が証言したジェーン・ウィルキンスンに成り済ますことができたのではないかと考えるが、今度は、スローンスクエア(Sloane Square)に住むカーロッタ・アダムズが、ベロナールの過剰摂取により亡くなっていることが発見される。



何者かの指示に基づき、カーロッタ・アダムズは、ジェーン・ウィルキンスンに成り済まして、リージェントゲートにあるエッジウェア卿の自邸を訪れ、彼を殺害したのだろうか?

そして、それを隠そうとする何者かによって、カーロッタ・アダムズは、過剰のベロナールを服用させられて、殺されたのか?



人物模写演技を得意とする女芸人で、ベロナールの過剰摂取により亡くなっていることが発見されたカーロッタ・アダムズが住んでいたスローンスクエアは、ロンドンの中心部ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)内に所在する広場である。



スローンスクエアは、元々、英国の建築家であるヘンリー・ホーランド父(Henry Holland Senior)とヘンリー・ホーランド子(Henry Holland Junior:1745年ー1806年)が1771年に開発した「ハンスタウン(Hans Town)」を起源とする。

イングランド系アイルランド人の内科医である初代準男爵ハンス・スローン(Sir Hans Sloane, 1st Baronet:1660年ー1753年)が同地を所有していたことに因んで、「スローンスクエア」と呼ばれるようになった。


スローンスクエアの中央に設置されている
噴水「ヴィーナスの泉」(その1)

スローンスクエアは、現在、環状交差点(roundabout)となっており、中央に公園が整備されている。その公園の中央には、「ヴィーナスの泉(The Venus Fountain)」と言う噴水が所在している。


スローンスクエアの中央に設置されている
噴水「ヴィーナスの泉」(その2)


噴水の真ん中にあるヴィーナス(愛と美の女神)像は、英国の彫刻家であるギルバート・レドワード(Gilbert Ledward:1888年ー1960年)によって、1953年に設置された。「ヴィーナスの泉」は、2006年に「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受けている。


画面奥に建っているのが、デパート「ピーター・ジョーンズ」で、
画面左奥へと延びている通りが、キングスロード(King's Road)である。


スローンスクエアの西側には、デパート「ピーター・ジョーンズ(Peter Jones)」が建っている。

同デパートは、ニュージーランド生まれの建築家であるレジナルド・ハロルド・ユーレン(Reginald Harold Uren:1906年ー1988年)によって1936年に設計され、現在、「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受けている。

デパート「ピーター・ジョーンズ」は、デパート「ジョン・ルイス(John Lewis)」の姉妹店である。


キングスロードの東側の起点に該るスローンスクエアの南西の角には、
デパート「ピーター・ジョーンズ」が建っている。


スローンスクエアの東側には、地下鉄のサークルライン(Circle Line)/ ディストリクトライン(District Line)が停まる地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)が所在している。