英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、2020年に発売されたジグソーパズル「シェイクスピアの世界(The World of Shakespeare)」には、のイラスト内には、イングランドの劇作家 / 詩人であるウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare:1564年ー1616年 → 2023年5月19日付ブログで紹介済)や彼が生きた時代の人物、彼の劇が上演されたグローブ座、そして、彼が発表した史劇、悲劇や喜劇に登場するキャラクター等が散りばめられているので、前回に続き、順番に紹介していきたい。
今回紹介するのは、前回に続いて、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日付ブログで紹介済)に関係する人物である。
<リチャード3世(Richard III:1452年ー1485年 在位期間:1483年ー1485年)>
リチャード3世は、ヨーク朝(House of York)の第3代かつ最後のイングランド王である。
リチャード3世は、第3代ヨーク公爵リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年-1460年)とセシリー・ネヴィル(Cecily Neville:1415年ー1495年)の八男で、兄には、
(1)長男 - ヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)
(2)次男 - ラトランド伯爵エドムンド・プランタジネット(Edmund Plantagenet, Earl of Rutland:1443年ー1460年)
(3)六男 - 初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネット(George Plantagenet, 1st Duke of Clarence;1449年ー1478年)
が居る。
幼少の頃に父親を失ったリチャードは、兄エドワードや母方の従兄に該る実力者であるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル(Richard Neville, Earl of Warwick:1428年-1471年)の庇護を受けた。
1461年に兄がエドワード4世として、ヨーク朝の初代イングランド王に即位すると、リチャードは、グロスター公爵(Duke of Gloucester 在位期間:1461年-1483年)に叙せられた。
政権内の勢力闘争の結果、ランカスター派に寝返ったウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルによって、兄エドワード4世が1470年に王位から追放される。グロスター公爵リチャードは、幼少期に庇護を受けた恩があるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルから誘いを受けたもの、一貫して兄に忠誠を誓い、翌年の1471年、兄の王位復位に貢献する。
その一方で、グロスター公爵リチャードは、1472年に、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの娘であるアン・ネヴィル(Anne Neville:1456年ー1485年)と結婚。
アン・ネヴィルの姉イザベル・ネヴィル(Isabel Neville:1451年ー1476年)と既に結婚していた兄の初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットとの間で、グロスター公爵リチャードは、広大なウォーリック伯爵領の相続をめぐり、対立を深めていく。
兄の初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットは、妻イザベルの死去(1476年)に伴い、ウォーリック伯爵領の相続争いに敗れた上に、エドワード4世への反逆疑惑を理由に、ロンドン塔へと送られて、1478年に処刑された。その結果、グロスター公爵リチャードは、ウォーリック伯爵領を独占相続した。
兄のラトランド伯爵エドムンド・プランタジネットも1460年に死去していたこともあり、グロスター公爵リチャードは、兄エドワード4世に次ぐ実力者としての地位を確立したのである。
それも束の間で、兄エドワード4世の王妃であるエリザベス・ウッドヴィル(Elizabeth Woodville:1437年頃ー1492年)の一族が政権内で勢力を伸ばし始めたため、グロスター公爵リチャードは、これと敵対するようになる。
1483年4月9日、フランス討伐の準備中だったエドワード4世が死去したことに伴い、同年4月10日、彼の長男であるエドワード5世(Edward V:1470年ー1483年 在位期間:1483年4月10日ー同年6月25日 → 2023年月日付ブログで紹介済)が、父王の跡を継ぎ、12歳で王位を継承して、ヨーク朝の第2代イングランド王となった。エドワード5世が若かったため、彼の叔父であるグロスター公爵リチャードが、摂政(Protector)に就任。
エドワード5世がイングランドのシュロップシャー州(Shropshire)内にある居城ラドロー城(Ludlow Castle)からロンドンへと向かう中、グロスター公爵リチャードは、第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィル(Anthony Woodville, 2nd Earl of Rivers:1440年ー1483年)を初めとする王妃エリザベス・ウッドヴィル一派を逮捕して、エドワード5世に組する忠臣を排除。
更に、グロスター公爵リチャードは、エドワード5世と彼の弟である初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリー(Richard of Shrewsbury, 1st Duke of York and 1st Duke of Norfolk:1473年ー1483年 → 2023年月日付ブログで紹介済)をロンドン塔に幽閉した。彼ら2人は、「塔の王子達(Princes in the Tower)」と呼ばれるようになる。
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の ベーカールーライン(Bakerloo Line)用ホームの壁に描かれている リチャード3世(一番右側の人物)の肖像画 |
ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている リチャード3世の肖像画の葉書 (Unknown artist / Late 16th century / Oil on panel 638 mm x 470 mm) |
2ヶ月後の同年6月25日、グロスター公爵リチャードは、イングランド議会に、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの婚姻は無効のため、エドワード5世と弟の初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人は、エドワード4世の「嫡子」ではなく、「庶子」であると認定の上、エドワード5世の王位継承を無効と議決させた。グロスター公爵リチャードが逮捕した第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィルは、その際に処刑されている。
その結果、同年6月26日、グロスター公爵リチャードは、イングランド議会によって推挙され、リチャード3世として、ヨーク朝の第3代イングランド王に即位したのである。
リチャード3世即位に貢献した第2代バッキンガム公爵ヘンリー・スタッフォード(Henry Stafford, 2nd Duke of Buckingham:1454年ー1483年)が、1483年10月に反乱を起こす。リチャード3世は、これを鎮圧したが、他にも反乱の火種がくすぶり続け、政情は不安定な状態のままに進んだ。
1484年4月、リチャード3世の一人息子で、王太子(Prince of Wales)のエドワード・オブ・ミドルハム(Edward of Middleham:1473年ー1484年)が夭逝した上に、1485年3月には、王妃アン・ネヴィルも病死すると言う不幸が続く。
1485年8月、ランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー(Henry Tudor, Earl of Richmond:1457年ー1509年)が、王位請求者として、フランスから侵入。
ヨーク派の国王リチャード3世軍とランカスター派のリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダー軍は、同年8月22日、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)において、相まみえた。リチャード3世は、味方の裏切りもあって、孤軍奮戦するが、戦死した。
地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)内の ベーカールーライン(Bakerloo Line)用ホームの壁に描かれている ヘンリー7世(中央の人物)の肖像画 |
ナショナルポートレートギャラリーで販売されている ヘンリー7世の肖像画の葉書 (Unknown Netherlandish artist / 1505年 / Oil on panel 425 mm x 305 mm) |
その結果、1485年8月22日、リッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーは、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王ヘンリー7世(Henry VII - 在位期間:1485年ー1509年)として即位し、エリザベス・オブ・ヨーク(Elizabeth of York:1466年ー1503年)を王妃として迎える。
なお、エリザベス・オブ・ヨークは、ヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世の王女、ヨーク朝の第2代イングランド王であるエドワード5世の姉で、ヨーク朝の第3代かつ最後のイングランド王であるリチャード3世の姪である。
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