今回紹介するのは、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日付ブログで紹介済)に関係する人物である。
<エドワード5世(Edward V:1470年ー1483年 在位期間:1483年4月10日ー同年6月25日)と初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリー(Richard of Shrewsbury, 1st Duke of York and 1st Duke of Norfolk:1473年ー1483年)>
エドワード5世は、ヨーク朝(House of York)の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)と王妃エリザベス・ウッドヴィル(Elizabeth Woodville:1437年頃ー1492年)の長男で、ヨーク朝の第2代イングランド王であるが、戴冠式挙行前に退位させられた。
初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーは、エドワード4世と王妃エリザベス・ウッドヴィルの次男(第6子)である。
1483年4月9日、フランス討伐の準備中だったエドワード4世が死去したことに伴い、同年4月10日、エドワード5世は、父王の跡を継ぎ、12歳で王位を継承した。
エドワード5世がイングランドのシュロップシャー州(Shropshire)内にある居城ラドロー城(Ludlow Castle)からロンドンへと向かう中、エドワード5世の摂政(Protector)に就任した父方の叔父であるグロスター公爵リチャード(Richard, Duke of Gloucester - 後のリチャード3世(Richard III))が、母方の叔父で、父王の側近でもあった第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィル(Anthony Woodville, 2nd Earl of Rivers:1440年ー1483年)を逮捕して、エドワード5世に組する忠臣を排除する。
その後、グロスター公爵リチャードは、エドワード5世と弟の初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人をロンドン塔に幽閉した。彼ら2人は、「塔の王子達(Princes in the Tower)」と呼ばれるようになる。
2ヶ月後の同年6月25日、イングランド議会は、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの婚姻は無効のため、エドワード5世と弟の初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人は、エドワード4世の「嫡子」ではなく、「庶子」であると認定の上、エドワード5世の王位継承を無効と議決した。その結果、グロスター公爵リチャードが推挙され、リチャード3世として、ヨーク朝の第3代イングランド王に即位したのである。リチャード3世がグロスター公爵リチャードの時に逮捕した第2代リヴァーズ伯爵アンソニー・ウッドヴィルは、その際に処刑されている。
グロスター公爵リチャードだったリチャード3世によって、ロンドン塔に幽閉されたエドワード5世と弟の初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人が、その後どうなったのかについては、現在に至るまで判明していない。
1483年の夏頃までは、ロンドン塔の庭で遊ぶ兄弟の姿が見かけられたが、次第にその姿が見られなくなったため、2人は殺されたと言う噂が、ロンドン市内において、広く囁かれるようになった。
ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている リチャード3世の肖像画の葉書 (Unknown artist / Late 16th century / Oil on panel 638 mm x 470 mm) |
当時、兄弟は、リチャード3世によって暗殺されたものと考えられていたが、リチャード3世を討って、テューダー朝(House of Tudor)の初代イングランド王として即位したヘンリー7世(Henry VII:1457年ー1509年 在位期間:1485年ー1509年)によって殺されたとする学説も、現在、有力となっている。リチャード3世とヘンリー7世のいずれにとっても、エドワード5世と弟の初代ヨーク公兼初代ノーフォーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人の存在が、自分達の障害でしかなかったのは、事実である。
ナショナルポートレートギャラリーで販売されている ヘンリー7世の肖像画の葉書 (Unknown Netherlandish artist / 1505年 / Oil on panel 425 mm x 305 mm) |
1674年に、ロンドン塔の改修に携わった作業員達によって、子供の遺骨と思われるものが入った木箱が発見された。王政復古期ステュアート朝(House of Stuart)のイングランド、スコットランド、そして、アイルランドの王であるチャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年-1685年)の命により、1678年に子供の遺骨と思われるものが入った木箱は、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に安置された。1933年に、専門家が木箱内の遺骨を鑑定したものの、残念ながら、性別や年齢が特定されなかった。
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