英国で出版された「ストランドマガジン」 1891年7月号に掲載された挿絵(その5) - ボヘミア国王の依頼を引き受けた シャーロック・ホームズは、馬丁に変装すると、 アイリーン・アドラーが住む ブライオニーロッジへと出かけた。 挿絵:シドニー・エドワード・パジェット (Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年) |
1888年3月20日の夜、ボヘミア国王(King of Bohemia)のカッセル・フェルシュタイン大公ウィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモント・フォン・オルムシュタイン(Wilhelm Gottsreich Sigismond von Ormstein, Grand Duke of Cassel-Felstein)から、5年前、王太子だった彼が秘密裡に交際していたアイリーン・アドラー(Irene Adler)と一緒に撮影した写真を取り戻す依頼を引き受けたシャーロック・ホームズは、馬丁(groom)に変装すると、翌朝の8時過ぎに、セントジョンズウッド地区(St. John’s Woood → 2014年8月17日付ブログで紹介済)サーペンタインアベニュー(Serpentine Avenue)にあるブライオニーロッジ(Briony Lodge)へと向かった。ボヘミア国王によると、アイリーン・アドラーは、そこに住んでいる、とのことだった。
セントジョンズウッド ハイストリート(St. John's Wood High Street)と プリンス アルバート ロード(Prince Albert Road)が交差する角のフラット |
馬丁に変装したホームズが、ブライオニーロッジを見張ったり、周辺で情報を収集したところ、インナーテンプル(Inner Temple → 2014年8月25日付ブログで紹介済)の弁護士であるゴドフリー・ノートン(Godfrey Norton)と言う男性が、毎日、アイリーン・アドラーの元を訪れていることを知る。
インナーテンプルにある弁護士事務所の入口 |
ホームズが、引き続き、ブライオニーロッジを見張っていると、アイリーン・アドラーの元を訪れたゴドフリー・ノートンが、30分程して出て来て、馬車を拾うと、エッジウェアロード(Edgware Road → 2016年1月30日付ブログで紹介済)にあるセントモニカ教会(Church of St. Monica → 2014年8月24日付ブログで紹介済)へと走り去った。
マーブルアーチ(Marble Arch)から北上するエッジウェアロードを望む |
続いて、アイリーン・アドラーもブライオニーロッジから姿を現わすと、馬車を呼び止めて、行き先として、セントモニカ教会の名前を告げた。
ホームズも、お金を奮発して、馬車で2人の後を追った。
オールドマリルボーンロード(Old Marylebone Road)沿いに建つ セントマーク教会(Church of St. Mark)の塔を下から見上げたところ - セントモニカ教会は実在していないが、 場所的には、セントマーク教会が、その候補地である。 |
ホームズが、セントモニカ教会に到着すると、教会内には、アイリーン・アドラー、ゴドフリー・ノートンと牧師(clergyman)の3人が居た。
ホームズには想定外であったが、馬丁に変装した彼は、アイリーン・アドラーとゴドフリー・ノートンの2人が結婚する立会人をさせられてしまったのである。
結婚式を終えた後、ゴドフリー・ノートンはインナーテンプルへ向かい、アイリーン・アドラーはブライオニーロッジへ戻った。
結婚したアイリーン・アドラーとゴドフリー・ノートンの2人が新婚旅行に出かけた場合、ボヘミア国王から依頼を受けた問題の写真を取り戻すことは、非常に難しくなる可能性が高かった。
問題の写真がブライオニーロッジ内に保管されているものと推理したホームズは、写真を取り戻す計画を直ぐに実行に移すことに決めて、相棒のジョン・H・ワトスンに対して、助力を頼んだ。
馬丁の変装を解き、牧師に変装し直したホームズは、ワトスンを伴い、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)を出ると、アイリーン・アドラーが住むブライオニーロッジへと出発したのである。
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