2016年9月17日土曜日

ポーツマス(Portsmouth)

地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の改札口への向かう地下道に描かれている
「トラファルガーの海戦」のタイル画

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。

トラファルガーの海戦前に作戦を練るネルソン提督

1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of London)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍することになる。アフガニスタンの戦場マイワンド(Maiwand)において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負う。献身的で勇気ある看護兵マレー(Murray)に助けられ、ワトスンは英国の防衛ラインまで無事運ばれるのであった。

トラファルガーの海戦における英国勝利を伝える新聞(タイムズ紙)とネルソン提督―
地下鉄チャリングクロス駅のベイカールーラインのプラットフォームの壁に描かれている

負傷した肩の痛みと長い間の苦役によって身体が衰弱していたため、私は戦線を離れて、多くの負傷兵と共に、ペシャワルの兵舎病院へ送られた。そこで、私は体力を回復して、入院病棟周辺を歩いたり、ベランダでちょっと日光浴ができる程に良くなっていたが、我が英国インド領の呪いとも言うべき腸チフスに襲われたのである。何ヶ月もの間、私の命は絶望視されていた。やっとのことで、私の意識が戻り、回復期に入った時、私が非常に衰弱し、異常な程痩せ衰えていることを理由に、医事委員会は即刻私を英国へ送還する決定を下した。従って、私は軍隊輸送船オロンテス号で戦地を離れ、1ヶ月後にはポーツマス桟橋に上陸した。その際、私の健康は取り返しがつかない程害されていたが、寛大な政府によって、健康を回復するために9ヶ月間の休暇が認められた。

トラファルガーの海戦中、敵艦隊からの狙撃を受け、
戦死するネルソン提督

Worn with pain, and weak from the prolonged hardships which I had undergone, I was removed, with a great train of wounded sufferers, to the base hospital at Peshawar. Here I rallied, and had already improved so far as to be able to walk about the wards, and even to bask a little upon the verandah, when I was struck down by enteric fever, that curse of our Indian possessions. For months my life was despaired of, and when at last I came to myself and became convalescent, I was so weak and emaciated that a medical board determined that not a day should be lost in sending me back to England. I was despatched, accordingly, in the troopship Orontes, and landed a month later on Portsmouth jetty, with my health irretrievably ruined but with permission from a paternal government to spend the next nine months in attempting to improve it.

ネルソン提督は、当時、君主以外では初となる国葬を経て、
セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)に葬られた

ワトスンが第二次アフガン戦争の戦地を離れ、軍隊輸送船オロンテス号で戻ったポーツマス(Portsmouth)は、英国ハンプシャー州(Hampshire)内の南岸に位置する歴史的な軍港である。ポーツマスの大部分はソレント海峡(The Solent)に面したポートシー島(Portsea Island)内にあり、英国では唯一のアイランドシティーとなっている。

ネルソン記念柱(Nelson's Column)を制作する
英国の彫刻家エドワード・ホッジェス・ベイリー
(Edward Hodges Bailey:1788年ー1867年)―
ネルソン記念柱は、1840年から1843年にかけて制作された

英国の歴史上、ポーツマスは、以下のような場面で登場する。
(1)獅子王リチャード(Richard the Lionheart)としても知られる英国王リチャード1世(Richard I:1157年ー1199年 在位期間:1189年ー1199年)は、第3回十字軍(1189年ー1192年)に参加するため、艦隊と兵士をポーツマスに招集してから出発している。
(2)リチャード1世の後を継いだ英国王ジョン(John:1167年ー1216年 在位期間:1199年ー1216年)は、フランス国王フィリップ2世(Phillippe II:1165年ー1223年 在位期間:1180年ー1223年)との戦争を進めるため、フランス側に面する英国南岸の海軍基地の強化に乗り出し、ポーツマスに最初のドックが建設された。
(3)百年戦争(Hundred Year's War:1337年ー1453年)の勃発により、ポーツマスはフランス艦隊による攻撃を何度も受けたため、英国王ヘンリー5世(Henry V:1387年ー1422年 在位期間:1413年ー1422年)はポーツマスで要塞の建設を進めた。時代は下り、英国王ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)の時に、要塞としてサウスシー城(Southsea Castle)が建設されている。
(4)英蘭戦争(第一次:1652年ー1654年/第二次:1665年ー1667年/第三次:1672年ー1674年)と英西戦争(1654年ー1660年)において、英国海軍提督ロバート・ブレーク(Robert Blake:1599年ー1657年)がポーツマスを母港として使用した。
(5)フランス生まれの技術者マーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel:1769年ー1849年)が、軍艦の装具で使用する滑車の大量生産化に世界で初めて成功し、ポーツマスは世界最大の造船業拠点となった。ちなみに、鉄道施設や鉄道車輛等の設計で有名なイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1859年)は、彼の息子である。

トラファルガースクエア(Trafalgar Square)内に建つ
ネルソン記念柱

(6)1805年、英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)率いる旗艦HMSヴィクトリー(HMS Victory)を含む英国艦隊は、ポーツマスを出航し、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)でフランスとスペインの連合艦隊を打ち破っている。ただし、ネルソン提督は、この海戦において命を落としている。
(7)第一次世界大戦(1914年ー1918年)中は、ドイツの飛行船ツェッペリンの、そして、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中は、ドイツ空軍の爆撃を受けて、ポーツマスは甚大な被害を蒙っているが、1944年6月6日に始まったノルマンディー上陸作戦(Invasion of Normandy)に参加した連合軍は、ポーツマス港から出撃している。

ネルソン記念柱のアップ

近年、ポーツマスは、軍事拠点としての位置付けが小さくなっているものの、引き続き、英国海軍と英国海兵隊の基地と造船所は残っており、英国海軍司令部も所在している。一方で、欧州大陸との間の貨物輸送や旅客輸送等の商業港としても、ポーツマス港は栄えている。

2016年9月11日日曜日

ロンドン 聖ソフィア大聖堂/モスクワロード(St. Sophia Cathedral / Moscow Road)

聖ソフィア大聖堂の入口ホール全景

アガサ・クリスティー作「あなたの庭はどんな庭?(How Does Your Garden Grow ?)」(1935年ー短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録)は、エルキュール・ポワロの事務所にアメリア・バロウビー(Amelia Barrowby)という独身の老婦人から依頼の手紙が届くところから、物語の幕が上がる。
彼女から来た手紙に書かれている依頼の内容は、「自分の身を案じているので、自宅に来てほしい。」という非常に曖昧なものであった。この奇妙な依頼の手紙に興味を持ったポワロは、秘書のミス・レモン(Miss Lemon)に指示して、「いつでも相談に応じる。(I will do myself the honour to call upon you at any time you suggest.)」と返信をするが、その後、彼女からは何も音信もなかった。

聖ソフィア大聖堂の外観全景


暫くして、ミス・レモンが手紙の差出人であるアメリア・バロウビーが死亡したことを新聞記事で偶然見つけ、ポワロに知らせる。アメリア・バロウビーが亡くなった際、姪のデラフォンテーン夫妻(Mr. and Mrs. Delafontaine)と一緒に食事をしていたのだが、(1)アーティチョークのスープ、(2)魚のパイと(3)アップルタルト以外、何も口にしていなかった。ところが、彼女の遺体からは、ストリキニーネが発見されたのである。ストリキニーネはとても苦い味がするため、アーティチョークのスープ、魚のパイやアップルタルトに混入されていたとは思えなかった。また、彼女は珈琲も飲まず、水だけを飲んでいた。ストリキニーネが混入したと考えられるのは、彼女が飲んでいた持病用のカプセル薬だけだった。そのカプセル薬に触れたのは、ロシア人の話相手(コンパニオン)のカトリーナ・リーガー(Katrina Rieger)のみだったため、彼女へ疑いの目が向けられた。
アメリア・バロウビーの死に疑問を感じたポワロは現地へ赴き、調査を始めるのであった。

聖ソフィア大聖堂の外観(その1)

聖ソフィア大聖堂の外観(その2)

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「あなたの庭はどんな庭?」(1991年)の回では、アメリア・バロウビーをストリキニーネで毒殺したと疑われ、姿を消してしまったコンパニオンのロシア人カトリーナ・レイガー(Katrina Reiger)の居所を突き止めたポワロは彼女に対して、警察への出頭を勧める。この場面は、聖ソフィア大聖堂(St. Sophia Cathedral)の内部で撮影されている。

聖ソフィア大聖堂の右側入口―
英語で表示されている

聖ソフィア大聖堂の左側入口―
ギリシア語で表示されている

聖ソフィア大聖堂は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベイズウォーター地区(Bayswater)内に所在しており、地下鉄ベイズウォーター駅(Bayswater Tube Station)の前を南北に延びるクイーンズウェイ通り(Queensway)の中間辺りから西に延びるモスクワロード(Moscow Road)沿いに建っている。

聖ソフィア大聖堂の正面外観全景

聖ソフィア大聖堂の右側入口ドア

ITV1で放映されたポワロシリーズでは、カトリーナが身を寄せていたのは「ロシア正教会」という設定であるが、実際には、聖ソフィア大聖堂は「ギリシア正教会」の建物である。

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その1)

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その2

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その3

聖ソフィア大聖堂は、ギリシアからロンドンのパディントン地区(Paddington)、ベイズウォーター地区(Bayswater)やノッティングヒル地区(Notting Hill)に移住したギリシア人コミュニティーのために、その建設が計画され、英国の建築家であるジョン・オルドリッド・スコット(John Oldrid Scott:1841年ー1913年)が設計を担当した。彼は英国の協会建設に数多く携わり、聖ソフィア大聖堂にはネオビザンティン建築様式を用いた。
ネオビザンティン建築様式は、5世紀から11世紀にかけて東ローマ帝国内で用いられたビザンティン様式の流れを組むもので、19世紀中頃から20世紀初頭に発展し、特にロシアや東ヨーロッパにおいて当様式を用いた大聖堂や教会が多く建設されている。ネオビザンティン建築様式は、主に円形のアーチ(梁)、ヴォールト(かまぼこ型を特徴とする天井)やドーム(屋根)等にその特徴が見い出される。
なお、ジョン・オルドリッド・スコットの父親であるサー・ジョージ・ギルバート・スコット(Sir George Gilbert Scott:1811年ー1878年)も英国の有名な建築家で、外務省(Foreign Commonweath Officeー2016年1月2日付ブログで紹介済)やアルバート公記念碑(Albert Memorialー2016年3月13日付ブログで紹介済)等の設計で知られている。
聖ソフィア大聖堂は、ジョン・オルドリッド・スコットによる設計に基づき、1878年から1879年にかけて建設された。

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その4)

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その5)

聖ソフィア大聖堂の入口ホール(その6)

聖ソフィア大聖堂の外観は控えめな印象を受けるが、大聖堂の内部に一歩入ると、壁全面が多色彩の大理石で覆われていて、非常に絢爛豪華である。ITV1で放映されたポワロシリーズにおいても画面上アップになったが、ドーム天井から吊り下げられている十字架が更に見る者を圧倒する。聖ソフィア大聖堂を訪れた日は、内部で結婚式が行われていたため、残念ながら、その十字架の写真を撮ることはできなかった。

入口ホールから撮った天井から吊り下げられている十字架

2006年に、大聖堂の地下に博物館がオープンしている。

2016年9月10日土曜日

ロンドン サウスストリート10番地(10 South Street):フローレンス・ナイチンゲールーロンドンでの所縁の地(その4)

フローレンス・ナイチンゲールが住んでいたサウスストリート10番地を示すブループラークが
8番地の建物と14番地の建物の中間の外壁に掛けられている。

古い英国10ポンド紙幣に描かれているフローレンス・ナイチンゲール

(4)住所: サウスストリート10番地(10 South Street, Mayfair, London W1K 1OE)


シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の高級地区メイフェア(Mayfair)に、フローレンス・ナイチンゲールが住んでいた場所がある。

サウスストリート沿いに置かれている植栽

マーブルアーチ(Marble Arch)からパークレーン(Park Lane)を南下して来て、ドーチェスターホテル(Dorchester Hotel)の手前で左折したところがサウスストリート(South Street)で、その10番地(パークレーン寄りの場所)にフローレンス・ナイチンゲールが住んでいた家が存在していた。残念ながら、現在、その家は残っておらず、8番地の建物と14番地の建物の外壁に跨がるように、London Country Council のブループラーク表示が残るのみである。

フローレンス・ナイチンゲールがここに住んでいたことを示す
ブループラーク

サウスストリートの両側には、比較的階数が多いフラットが建ち並んでいる。歩道が狭い上に、住民が車を駐車できるレジデントパーキングスペース(Resident Parking Space)が両側にあるため、道路も狭く、車が行き交うのが難しい位である。その結果、フローレンス・ナイチンゲールの家があったサウスストリート10番地の辺りは、やや圧迫感を感じる。日中も、人通りはほとんどない。

サウスストリートの両側には、フラットが建っている。
フローレンス・ナイチンゲールが住んでいた家があった場所は、
画面左手中央にある。
また、画面奥を横切る通りは、パークレーン。

サウスストリートを東へ進むと、建物が後退し、歩道の幅も広がるので、圧迫感もなくなる。フローレンス・ナイチンゲールの家があったのと同じ側には、エジプト大使館があり、入口は警察によって警護されている。

サウスストリートを東方面に進んだところ

次回から、「緋色の研究」の本筋(アフガニスタンで負傷したジョン・H・ワトスンが英国に戻るところ)に戻ります。

2016年9月4日日曜日

ロンドン チェルシー王立廃兵院(Royal Hospital Chelsea)

チェルシー王立廃兵院の建物全景―
建物の前には、チャールズ2世の金色に輝く像が設置されている

アガサ・クリスティー作「あなたの庭はどんな庭?(How Does Your Garden Grow ?)」(1935年ー短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録)は、エルキュール・ポワロの事務所にアメリア・バロウビー(Amelia Barrowby)という独身の老婦人から依頼の手紙が届くところから、物語の幕が上がる。
彼女から来た手紙に書かれている依頼の内容は、「自分の身を案じているので、自宅に来てほしい。」という非常に曖昧なものであった。この奇妙な依頼の手紙に興味を持ったポワロは、秘書のミス・レモン(Miss Lemon)に指示して、「いつでも相談に応じる。(I will do myself the honour to call upon you at any time you suggest.)」と返信をするが、その後、彼女からは何も音信もなかった。


暫くして、ミス・レモンが手紙の差出人であるアメリア・バロウビーが死亡したことを新聞記事で偶然見つけ、ポワロに知らせる。アメリア・バロウビーが亡くなった際、姪のデラフォンテーン夫妻(Mr. and Mrs. Delafontaine)と一緒に食事をしていたのだが、(1)アーティチョークのスープ、(2)魚のパイと(3)アップルタルト以外、何も口にしていなかった。ところが、彼女の遺体からは、ストリキニーネが発見されたのである。ストリキニーネはとても苦い味がするため、アーティチョークのスープ、魚のパイやアップルタルトに混入されていたとは思えなかった。また、彼女は珈琲も飲まず、水だけを飲んでいた。ストリキニーネが混入したと考えられるのは、彼女が飲んでいた持病用のカプセル薬だけだった。そのカプセル薬に触れたのは、ロシア人の話相手(コンパニオン)のカトリーナ・リーガー(Katrina Rieger)のみだったため、彼女へ疑いの目が向けられた。
アメリア・バロウビーの死に疑問を感じたポワロは現地へ赴き、調査を始めるのであった。

ロイヤルホスピタルロード側から
チェルシー王立廃兵院内に入ったところに置かれている人形

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「あなたの庭はどんな庭?」(1991年)の回では、王立園芸協会(Royal Horticultural Society)主催のチェルシーフラワーショー(RHS Chelsea Flower Show)において、姪のメアリー・デラフォンテーン(Mary Delafontaine)、彼女の夫ヘンリー・デラフォンテーン(Henry Delafontaine)や話相手のカトリーナ・レイガー(Katrina Reiger)に付き添われた老婦人アメリア・バロウビーにポワロは出会う。そして、そこで彼女から中身のない種袋を渡されたポワロは、その意味を計りかねつつ、フラットに戻ると、そこには彼女からの手紙が彼を待っていた。彼女の依頼に従って、謎の花粉症に罹ったアーサー・ヘイスティングス大尉をフラットに残し、ミス・レモンを伴って、ポワロが彼女の家ローズバンク荘へ出向くと、メイドのルーシーから、彼女が昨日亡くなったことを知らされるのであった。

退役軍人が暮らすエリア(その1)

退役軍人が暮らすエリア(その2)

ポワロが車椅子に乗った老婦人アメリア・バロウビーに出会うチェルシーフラワーショーのシーンは、チェルシー王立廃兵院(Royal Hospital Chelsea)を使用して撮影されている。
同院はロンドンの中心部ケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のチェルシー地区(Chelsea)内に所在している。

退役軍人が暮らすエリア(その3)

退役軍人が暮らすエリア(その4)

同院は英国陸軍を退役した軍人(現在は男性/女性を問わず)の養老院となっている。当院への入居条件として、
(1)一定の期間、英国陸軍に勤務していたこと
(2)65歳以上であること
(3)世話/介護してくれる配偶者や家族が居ないこと
等が挙げられる。なお、女性の退役軍人の入院が認められたのは、2009年3月になってからである。

ソーホースクエアガーデンズ(Soho Square Gardens)内に設置されている
チャールズ2世像 -
デンマーク人の彫刻家 Caius Gabriel Cibber (1630年―1700年)が制作

地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベイカールーライン(Bakerloo Line)プラットフォームの壁に描かれている
サー・クリストファー・マイケル・レンの横顔

チェルシー王立廃兵院は、王政復古期ステュアート朝の国王チャールズ2世(Charles II:1630年ー1685年 在位期間:1660年ー1685年)が設立し、セントポール大聖堂等の建設で非常に有名な英国の建築家で、かつ天文学者でもあったサー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren:1632年ー1723年)が同院の設計施工を担当した。同院の建設場所として、現在の地下鉄スローンスクエア駅(Sloane Square Tube Station)辺りから南西に延びるロイヤルホスピタルロード(Royal Hospital Road)とテムズ河(River Thames)に沿って東西に延びるチェルシーエンバンクメント通り(Chelsea Embankment)に挟まれた場所が選ばれ、1682年から1692年にかけて建設された。同院が竣工し、退役軍人への門戸を開いたのは1692年で、同院を設立したチャールズ2世の2代後の国王ウィリアム3世(William III:1650年ー1702年 在位期間:1689年ー1702年)の治世下であった。

Ranelagh Gardens 内から見たチェルシー王立廃兵院の建物

チェルシー王立廃兵院内にある Ranelagh Gardens (その1) 

後に、サー・クリストファー・マイケル・レンは同院の拡張工事を行い、オリジナルの建物の両側にウィング(翼)を追加した。なお、東翼は「ライトハウスコート(Light House Court)」、そして、西翼は「カレッジコート(College Court)」と呼ばれている。

チェルシー王立廃兵院内にある Ranelagh Gardens (その2) 

Ranelagh Gardens 内に設置されている退役軍人の像

チェルシー王立廃兵院の建物の前には、設立者である国王チャールズ2世の金色に輝く像が設置されている。チャールズ2世の誕生日(1630年5月29日)と王位に着いた日(1660年5月29日)が奇しくも同じ5月29日で、この日を「チェルシー王立廃兵院設立日(The Royal Hospital Founder's Day)」として祝われ、英国王室メンバーが同院に住む退役軍人を訪問する習わしとなっている。

第一次世界大戦の従軍中に亡くなった兵士の追悼モニュメント

チェルシーフラワーショーは、王立園芸協会が主催し、毎年5月に開催されるガーデンショーで、当初は、ケンジントン地区(Kensington)にある RHS ガーデンで開催されたが、1913年からチェルシー王立廃兵院に会場が移された。

チェルシーフラワーショーは、20世紀後半からその人気が出始めて、今では毎年約16万人が観覧に訪れる程の盛況である。その人気のため、2005年から開催機関が4日間から5日間に延長された。ただし、最初の2日間については、入場できるのは、王立園芸協会会員のみに限定されている。また、英国王室メンバーは、王立園芸協会への公園活動の一環として、同ショーの下見に訪れている。

2016年9月3日土曜日

ロンドン フローレンス・ナイチンゲール博物館(Florence Nightingale Museum):フローレンス・ナイチンゲールーロンドンでの所縁の地(その3)

フローレンス・ナイチンゲール博物館の入場口に置かれている
フローレンス・ナイチンゲールの胸像

古い英国10ポンド紙幣に描かれているフローレンス・ナイチンゲール

(3)フローレンス・ナイチンゲール博物館(Florence Nightingale Museum)
   住所: ランベスパレスロード2番地
                  (2 Lambeth Palace Road, London SE1 7EW)

フローレンス・ナイチンゲール博物館の入口(その1)

フローレンス・ナイチンゲール博物館の入口(その2)

テムズ河(River Thames)の南岸にあるウォータールー駅(Waterloo Station)から徒歩5分程のところに、セントトマス病院(St. Thomas' Hospital)が所在しており、その病院の一角にフローレンス・ナイチンゲール博物館は位置している。

ナイチンゲール姉妹の肖像画が中央に置かれている。

フローレンス・ナイチンゲールがギリシアのアテネ(Athens)で助けたフクロウで、
アテネに因み、ギリシア神話のオリュンポス十二神の一人で、
知恵を司る女神であるアテナ(Athena)と彼女は名付けて、ペットにした。
以降、アテナはフローレンス・ナイチンゲールの肩に留まったり、
彼女の服のポケットに入ったりして、常に彼女に行く所に同行した。
フローレンス・ナイチンゲールがクリミア戦争に看護婦として従軍した際には同行せず、
残念ながら、彼女の従軍中に、アテナは死んでしまった。

同博物館は、彼女の生涯を後世に伝えるために設立されたもので、クリミア戦争(Crimean War:1853年ー1856年)の戦場で彼女が用いた看護キット等、多くの遺品や写真等が展示されている。訪問時には、フローレンス・ナイチンゲールの伝記(日本語版)も、博物館の一角に所蔵されていた。

クリミア戦争への従軍中に看護活動を行う
フローレンス・ナイチンゲール

クリミア戦争後、フローレンス・ナイチンゲールは
軍病院の開設等、看護活動の重要性について
世間が認知するよう、尽力した

同博物館は、ロンドン内の観光名所がある場所からやや外れているものの、ウェストミンスター橋(Westminster Bridge)を渡ったテムズ河の北岸には、国会議事堂(House of Parliament)やウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)等があるため、同博物館を訪れる観光客は割合と多い。