地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の改札口への向かう地下道に描かれている 「トラファルガーの海戦」のタイル画 |
サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。
トラファルガーの海戦前に作戦を練るネルソン提督 |
1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of London)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍することになる。アフガニスタンの戦場マイワンド(Maiwand)において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負う。献身的で勇気ある看護兵マレー(Murray)に助けられ、ワトスンは英国の防衛ラインまで無事運ばれるのであった。
トラファルガーの海戦における英国勝利を伝える新聞(タイムズ紙)とネルソン提督― 地下鉄チャリングクロス駅のベーカールーラインのプラットフォームの壁に描かれている |
負傷した肩の痛みと長い間の苦役によって身体が衰弱していたため、私は戦線を離れて、多くの負傷兵と共に、ペシャワルの兵舎病院へ送られた。そこで、私は体力を回復して、入院病棟周辺を歩いたり、ベランダでちょっと日光浴ができる程に良くなっていたが、我が英国インド領の呪いとも言うべき腸チフスに襲われたのである。何ヶ月もの間、私の命は絶望視されていた。やっとのことで、私の意識が戻り、回復期に入った時、私が非常に衰弱し、異常な程痩せ衰えていることを理由に、医事委員会は即刻私を英国へ送還する決定を下した。従って、私は軍隊輸送船オロンテス号で戦地を離れ、1ヶ月後にはポーツマス桟橋に上陸した。その際、私の健康は取り返しがつかない程害されていたが、寛大な政府によって、健康を回復するために9ヶ月間の休暇が認められた。
トラファルガーの海戦中、敵艦隊からの狙撃を受け、 戦死するネルソン提督 |
Worn with pain, and weak from the prolonged hardships which I had undergone, I was removed, with a great train of wounded sufferers, to the base hospital at Peshawar. Here I rallied, and had already improved so far as to be able to walk about the wards, and even to bask a little upon the verandah, when I was struck down by enteric fever, that curse of our Indian possessions. For months my life was despaired of, and when at last I came to myself and became convalescent, I was so weak and emaciated that a medical board determined that not a day should be lost in sending me back to England. I was despatched, accordingly, in the troopship Orontes, and landed a month later on Portsmouth jetty, with my health irretrievably ruined but with permission from a paternal government to spend the next nine months in attempting to improve it.
ネルソン提督は、当時、君主以外では初となる国葬を経て、 セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral)に葬られた |
ワトスンが第二次アフガン戦争の戦地を離れ、軍隊輸送船オロンテス号で戻ったポーツマス(Portsmouth)は、英国ハンプシャー州(Hampshire)内の南岸に位置する歴史的な軍港である。ポーツマスの大部分はソレント海峡(The Solent)に面したポートシー島(Portsea Island)内にあり、英国では唯一のアイランドシティーとなっている。
ネルソン記念柱(Nelson's Column)を制作する 英国の彫刻家エドワード・ホッジェス・ベイリー (Edward Hodges Bailey:1788年ー1867年)― ネルソン記念柱は、1840年から1843年にかけて制作された |
英国の歴史上、ポーツマスは、以下のような場面で登場する。
(1)獅子王リチャード(Richard the Lionheart)としても知られる英国王リチャード1世(Richard I:1157年ー1199年 在位期間:1189年ー1199年)は、第3回十字軍(1189年ー1192年)に参加するため、艦隊と兵士をポーツマスに招集してから出発している。
(2)リチャード1世の後を継いだ英国王ジョン(John:1167年ー1216年 在位期間:1199年ー1216年)は、フランス国王フィリップ2世(Phillippe II:1165年ー1223年 在位期間:1180年ー1223年)との戦争を進めるため、フランス側に面する英国南岸の海軍基地の強化に乗り出し、ポーツマスに最初のドックが建設された。
(3)百年戦争(Hundred Year's War:1337年ー1453年)の勃発により、ポーツマスはフランス艦隊による攻撃を何度も受けたため、英国王ヘンリー5世(Henry V:1387年ー1422年 在位期間:1413年ー1422年)はポーツマスで要塞の建設を進めた。時代は下り、英国王ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)の時に、要塞としてサウスシー城(Southsea Castle)が建設されている。
(4)英蘭戦争(第一次:1652年ー1654年/第二次:1665年ー1667年/第三次:1672年ー1674年)と英西戦争(1654年ー1660年)において、英国海軍提督ロバート・ブレーク(Robert Blake:1599年ー1657年)がポーツマスを母港として使用した。
(5)フランス生まれの技術者マーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel:1769年ー1849年)が、軍艦の装具で使用する滑車の大量生産化に世界で初めて成功し、ポーツマスは世界最大の造船業拠点となった。ちなみに、鉄道施設や鉄道車輛等の設計で有名なイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel:1806年ー1859年)は、彼の息子である。
トラファルガースクエア(Trafalgar Square)内に建つ ネルソン記念柱 |
(6)1805年、英国海軍提督の初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson:1758年ー1805年)率いる旗艦HMSヴィクトリー(HMS Victory)を含む英国艦隊は、ポーツマスを出航し、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)でフランスとスペインの連合艦隊を打ち破っている。ただし、ネルソン提督は、この海戦において命を落としている。
(7)第一次世界大戦(1914年ー1918年)中は、ドイツの飛行船ツェッペリンの、そして、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中は、ドイツ空軍の爆撃を受けて、ポーツマスは甚大な被害を蒙っているが、1944年6月6日に始まったノルマンディー上陸作戦(Invasion of Normandy)に参加した連合軍は、ポーツマス港から出撃している。
ネルソン記念柱のアップ |
近年、ポーツマスは、軍事拠点としての位置付けが小さくなっているものの、引き続き、英国海軍と英国海兵隊の基地と造船所は残っており、英国海軍司令部も所在している。一方で、欧州大陸との間の貨物輸送や旅客輸送等の商業港としても、ポーツマス港は栄えている。
0 件のコメント:
コメントを投稿