![]() |
| ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている ジョージ・ロムニー作「Mrs. Musters」(1780年) <筆者撮影> |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。
1760年には、2人目の子供で、長女のアンが生まれたが、1762年3月、彼は、歴史画家として成功することを夢見て、妻メアリー・アボットと2人の子供(ジョン+アン)を地元ケンダルに残し、単身ロンドンへと向かった。
ロンドンにやって来たジョージ・ロムニーは、歴史画「ウルフ将軍の死(The Death of General Wolfe)」を描き上げ、1763年に王立芸術協会(Royal Society of Arts)のコンペに出品し、第2位の賞を獲得したものの、何故か、後になって賞金額が半分に減らされた。この賞金減額決定の背後に、サー・ジョシュア・レノルズが居たと言われており、生涯にわたって、2人の確執を呼んだ。
歴史画家としての生活は困窮したため、ジョージ・ロムニーは、2度、地元のケンダルへと戻らざるを得なかった。
ちなみに、その後、深刻な体調不良に陥り、肖像画の仕事を縮小して、1799年の夏に地元ケンダルへ戻るまで、彼は、家族とは一度も会わないままだった。ただし、家族との連絡を絶やすことはなく、また、家族への仕送りも続けた。
ジョージ・ロムニーは、1764年9月に初の海外旅行として、パリを訪問。
そして、1765年に再度、王立芸術協会のコンペにおいて、第2位の賞を獲得すると、肖像画家として売れっ子になっていく。
![]() |
| 1769年に開校した王立美術院(Royal Academy of Arts)の250周年を記念して、 英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2019年に発行した記念切手(その1) |
![]() |
| 1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、 英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その2) |
![]() |
| 1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、 英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その3) |
ジョージ・ロムニーは、肖像画家として成功をおさめたが、1768年に設立された王立芸術院(Royal Academy of Arts)への参加を要請されることはなく、また、彼自身から申し出ることもなかった。王立芸術院の会員にならなかったため、彼は、英国王室等からの支援を得ることができなかった。
![]() |
| 1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、 英国のロイヤルメールが2019年にが発行した記念切手(その4) |
![]() |
| 1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、 英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その5) |
![]() |
| 1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、 英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その6) |
ジョージ・ロムニーが王立芸術院に参加しなかった理由としては、サー・ジョシュア・レノルズとの確執が、その一つに考えられるが、一方で、ジョージ・ロムニーは、優れた芸術家は王立芸術院の会員でなくても成功できる筈と言う考えを抱いていたことも、その一つに加えられる。
彼の肖像画家として業績は、この信念を裏付けるものであったが、晩年、この件について、彼は少しばかり遺憾の意を表明している。









0 件のコメント:
コメントを投稿