2026年5月26日火曜日

ジョージ・ロムニー(George Romney)- その3

ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作「Mrs. Musters」(1780年)
<筆者撮影>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。

2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ジョージ・ロムニーは、1734年12月26日、家具職人(cabinet maker)の父ジョン・ロムニー(John Romney)と母アン・シンプスン(Anne Simpson)の三男として、ランカシャー州(Lancashire - 現在のカンブリア州(Cumbria))ダルトン・イン・ファーネス(Dalton-in-Furness)のベックサイド(Beckside)に出生したジョージ・ロムニーは、21歳の時(1755年)にケンダル(Kendal)へ行き、地元の肖像画家であるクリストファー・スティール(Christopher Steele)の弟子となり、絵画を正式に学び始めるが、2年後の1757年に、クリストファー・スティールとの師弟関係を解消。その頃には、彼は、地元ケンダルの後援者の間で、肖像画家 / 風景画家 / 歴史画家として有名になりつつあった。

ジョージ・ロムニーは、見習い期間中に病気に罹り、女家主の娘であるメアリー・アボット(Mary Abbot)に手厚く看護されたことが縁となり、1756年に2人は結婚し、同年に長男ジョンが生まれている。

1760年には、2人目の子供で、長女のアンが生まれたが、1762年3月、彼は、歴史画家として成功することを夢見て、妻メアリー・アボットと2人の子供(ジョン+アン)を地元ケンダルに残し、単身ロンドンへと向かった。


ロンドンにやって来たジョージ・ロムニーは、歴史画「ウルフ将軍の死(The Death of General Wolfe)」を描き上げ、1763年に王立芸術協会(Royal Society of Arts)のコンペに出品し、第2位の賞を獲得したものの、何故か、後になって賞金額が半分に減らされた。この賞金減額決定の背後に、サー・ジョシュア・レノルズが居たと言われており、生涯にわたって、2人の確執を呼んだ。

歴史画家としての生活は困窮したため、ジョージ・ロムニーは、2度、地元のケンダルへと戻らざるを得なかった。

ちなみに、その後、深刻な体調不良に陥り、肖像画の仕事を縮小して、1799年の夏に地元ケンダルへ戻るまで、彼は、家族とは一度も会わないままだった。ただし、家族との連絡を絶やすことはなく、また、家族への仕送りも続けた。


ジョージ・ロムニーは、1764年9月に初の海外旅行として、パリを訪問。

そして、1765年に再度、王立芸術協会のコンペにおいて、第2位の賞を獲得すると、肖像画家として売れっ子になっていく。


1769年に開校した王立美術院(Royal Academy of Arts)の250周年を記念して、
英国のロイヤルメール(Royal Mail)が2019年に発行した記念切手(その1)


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その2)

1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その3)


ジョージ・ロムニーは、肖像画家として成功をおさめたが、1768年に設立された王立芸術院(Royal Academy of Arts)への参加を要請されることはなく、また、彼自身から申し出ることもなかった。王立芸術院の会員にならなかったため、彼は、英国王室等からの支援を得ることができなかった。


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年にが発行した記念切手(その4)


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その5)


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手(その6)


ジョージ・ロムニーが王立芸術院に参加しなかった理由としては、サー・ジョシュア・レノルズとの確執が、その一つに考えられるが、一方で、ジョージ・ロムニーは、優れた芸術家は王立芸術院の会員でなくても成功できる筈と言う考えを抱いていたことも、その一つに加えられる。

彼の肖像画家として業績は、この信念を裏付けるものであったが、晩年、この件について、彼は少しばかり遺憾の意を表明している。


0 件のコメント:

コメントを投稿