2026年5月30日土曜日

ジョージ・エリオット(George Eliot)- その4

ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1871年ー1872年に発表した長編小説第6作目
「ミドルマーチ」
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。


2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。


ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1860年に発表した長編小説第2作目
「フロス河の水車場」
<筆者撮影>


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)


1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。

彼女は、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss:1808年ー1874年)作「イエス伝」の英語翻訳版を刊行してくれた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)の家に寄宿。彼女は、ジョン・チャップマンが買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」に、マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)と言うペンネームを使い、同年から寄稿。1851年には、副主筆(assistant editor)へ昇格。


1857年、メアリー・アン・エヴァンズは、ブラックウッズマガジン(Blackwood’s Magazine)誌上に、彼女と不倫関係にあった英国の哲学者 / 文芸批評家ジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)の名を借りた「ジョージ・エリオット(George Eliot)」のペンネームを用いて、


*「エイモス・バートン牧師の悲運(The Sad Fortunes of the Reverend Amos Barton)」

*「ギルフィル氏の恋物語(Mr. Gilfil’s Love Story)」

*「ジャネットの改悛(Janet’s Repentance)」


の短編小説を順次発表。

1858年1月に、「牧師館物語(Scenes of Clerical Life)」として纏められ、出版された。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメール(Royal Mail)から2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


そして、スコットランド出身で、ヴィクトリア朝時代の大英帝国を代表する歴史家で、評論家でもあるトマス・カーライル(Thomas Carlyle:1795年ー1881年 → 2016年10月15日付ブログで紹介済)の影響を大きく受けたメアリー・アン・エヴァンズは、1859年には、最初の長編小説となる「アダム・ビード(Adam Bede)」を発表する。

彼女の最初の長編小説「アダム・ビード」は大変な評判を呼び、読者は作者の正体に興味を示したため、メアリー・アン・エヴァンズは、「ジョージ・エリオット」が自分のペンネームであることを認めるに至った。


ロンドンのチェルシー地区チェイニーウォーク(Cheyne Walk)沿いの
広場内に設置されているトマス・カーライル像
<筆者撮影>


以降、メアリー・アン・エヴァンズは、


*長編小説第2作目「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」(1860年)

*長編小説第3作目「サイラス・マーナー(Silas Marner)」(1861年)

*長編小説第4作目「ロモラ(Romola)」(182年ー1863年)

*長編小説第5作目「急進主義者フェリックス・ホルト(Felix Holt, the Radical)」(1866年)

*長編小説第6作目「ミドルマーチ(Middlemarch)」(1871年ー1872年)

*長編小説第7作目「ダニエル・デロンダ(Daniel Deronda)」(1876年)


と精力的に発表して、次第に文名を高めていった。

特に、複数の家庭のドラマを錯綜させて、地方都市の生態を描き出した大作「ミドルマーチ」は、後世の小説家 / 評論家であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf:1882年ー1941年)によって賞賛されている。


ナショナルポートレイトギャラリーで販売されている
ヴァージニア・ウルフの肖像写真の絵葉書
(by George Charles Beresford / 1902年7月 /
platinum print / 152 mm x 108 mm)


長編小説第7作目「ダニエル・デロンダ」を発表した後、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの2人は、ロンドンからサリー州(Surrey)ウィトリー(Witley)へ引っ越すが、その頃から、ジョージ・ヘンリー・ルイスの健康状態は不調に陥る。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメールから2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの2人は、長らく不倫関係にあったが、1877年にハノーヴァー朝(House of Hanover)の第6代女王であるヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年ー1901年 在位期間:1837年ー1901年 → 2017年12月10日 / 12月17日付ブログで紹介済)の息女ルイーズ王女(Princess Louise:1848年ー1939年)に紹介されたことにより、2人の関係は公に認められるようになった。

母親のヴィクトリア女王は、メアリー・アン・エヴァンズの著作の熱心な読者で、特に、長編小説第1作目「アダム・ビード」に感銘を受けたと伝えられている。


ヴィクトリア女王の生誕200周年を記念して、
ロイヤルメールから2019年に発行された切手6枚のうちの1枚


ジョージ・ヘンリー・ルイスが1878年11月30日に亡くなった後、メアリー・アン・エヴァンズは、彼が途中でやり残した仕事の編集を行っていたが、長らく友人だった青年実業家のジョン・ウォルター・クロス(John Walter Cross:1840年ー1924年)との間で、親密度合いを深めていく。

ジョージ・ヘンリー・ルイスが亡くなってから約18ヶ月後の1880年5月16日に、メアリー・アン・エヴァンズは、ジョン・ウォルター・クロスと結婚して、知人達を騒然とさせる。なお、ジョン・ウォルター・クロスは、メアリー・アン・エヴァンズよりも20歳以上年下だった。ジョン・ウォルター・クロスと結婚したメアリー・アン・エヴァンズは、メアリー・アン・クロス(Mary Ann Cross)と改名。


新婚旅行から戻って来たメアリー・アン・クロスとジョン・ウォルター・クロスの2人は、ロンドンのチェルシー地区(Chelsea)に住み始めたが、メアリー・アン・クロスは、喉の痛みを訴えて、体調不良となり、数年前から患っていた腎臓病も併発したため、結婚から僅か7ヶ月後の1880年12月22日にロンドンで死去した。享年61歳だった。


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