2026年5月31日日曜日

ジョージ・ロムニー(George Romney)- その4

ケンウッドハウス(Kenwood House → 2018年9月23日付ブログで紹介済)に所蔵 / 展示されている
ジョージ・ロムニー作「Miss Martindale」(1781年ー1782年)
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1967年に発表した長編「終りなき夜に生れつく(Endless Night → 2026年4月13日 / 4月30日付ブログで紹介済)」において、物語の語り手であるマイケル・ロジャース(Michael Rogers - 通称:マイク(Mike))が、キングストンビショップ村(Kingston Bishop)の住民で、友人となったフィルポット少佐(Major Phillpot)と一緒に出かけたバリントンマナーハウス(Barrington Manor)において開催されたオークションに出品された絵画の作者のうち、ジョージ・ロムニー(George Romney:1734年ー1802年)は英国の肖像画家で、同時代に活躍したサー・ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds:1723年ー1792年)やトマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough:1727年ー1788年)と並び称された著名な画家である。


2026年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「終りなき夜に生れてつく」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
ドライバー等の職業を転々とするその日暮らしの風来坊であるマイケル・ロジャー(通称:マイク)と

米国の大富豪(石油王)の娘で、裕福な相続人であるフェニラ・グットマン

(Fenella Guteman - 通称:エリー(Ellie))の2人は、

マイクがドライバーとして働いていた頃に知り合った芸術家気質の著名な建築家で、

余命いくばくもないルドルフ・サントニックス(Rudolf Santonix)に依頼して、

キングストンビショップ村にある

海を臨むことができる美しい眺望の景勝地「ジプシーが丘(Gipsy’s Acre)」に

自分達の夢の邸宅を建ててもらった場面が描かれている。


ジョージ・ロムニーは、1734年12月26日、家具職人(cabinet maker)の父ジョン・ロムニー(John Romney)と母アン・シンプスン(Anne Simpson)の三男として、ランカシャー州(Lancashire - 現在のカンブリア州(Cumbria))ダルトン・イン・ファーネス(Dalton-in-Furness)のベックサイド(Beckside)に出生したジョージ・ロムニーは、21歳の時(1755年)にケンダル(Kendal)へ行き、地元の肖像画家であるクリストファー・スティール(Christopher Steele)の弟子となり、絵画を正式に学び始めるが、2年後の1757年に、クリストファー・スティールとの師弟関係を解消。その頃には、彼は、地元ケンダルの後援者の間で、肖像画家 / 風景画家 / 歴史画家として有名になりつつあった。


ジョージ・ロムニーは、見習い期間中に病気に罹り、女家主の娘であるメアリー・アボット(Mary Abbot)に手厚く看護されたことが縁となり、1756年に2人は結婚し、同年に長男ジョンが生まれている。

1760年には、2人目の子供で、長女のアンが生まれたが、1762年3月、彼は、歴史画家として成功することを夢見て、妻メアリー・アボットと2人の子供(ジョン+アン)を地元ケンダルに残し、単身ロンドンへと向かった。

ロンドンにやって来たジョージ・ロムニーは、歴史画家としての生活が困窮したため、2度、地元のケンダルへと戻らざるを得なかった。

ちなみに、その後、深刻な体調不良に陥り、肖像画の仕事を縮小して、1799年の夏に地元ケンダルへ戻るまで、彼は、家族とは一度も会わないままだった。ただし、家族との連絡を絶やすことはなく、また、家族への仕送りも続けた。


1763年と1765年の2回、王立芸術協会(Royal Society of Arts)のコンペにおいて、第2位の賞を獲得すると、肖像画家として売れっ子になっていく。


1769年に開校した王立芸術院の250周年を記念して、
英国のロイヤルメールが2019年に発行した記念切手6枚のうちの1枚


古典への造詣の欠如を自覚したジョージ・ロムニーは、1773年3月に、仲間で、英国の肖像画家であるオージアス・ハンフリー(Ozias Humphry:1742年ー1810年)と一緒に、イタリア旅行へ出発。

彼らは、パリ(Paris)、リヨン(Lyon)、マルセイユ(Marseille)、ニース(Nice)、ジェノヴァ(Genoa)、リヴォルノ(Livorno)、フィレンシェ(Florence)、そして、ピサ(Pisa)を巡り、同年6月、ローマ(Roma)に到着。ジョージ・ロムニーは、第249代ローマ教皇であるクレメンス14世(Clemens XIV:1705年ー1774年 在位期間:1769年ー1774年)に謁見の上、許可を得て、ヴァチカン宮殿(Palazzi Apostolici / Palazzi Vaticani - ローマ教皇の住居)のラファエロの間(Stanze di Raffaello)に脚立を組み、フレスコ画の研究に務めた。

ローマで18ヶ月を過ごしたジョージ・ロムニーは、フィレンシェ、ボローニャ(Bologna)、ヴェネチア(Venice)、パルマやトリノ(Turin)等を経由して、1775年7月、ロンドンに戻り、仕事を再開。


キャヴェンディッシュスクエアガーデンズの入口
<筆者撮影>


キャヴェンディッシュスクエアガーデンズ内では、多くの市民や観光客等が憩いをとっている。
<筆者撮影>


彼は、英国の肖像画家であるフランシス・コーツ(Francis Cotes:1726年ー1770年)が所有していたキャヴェンディッシュスクエア32番地(32 Cavendish Square)の邸宅を取得の上、新たな本拠地として、最先端の肖像画家に上り詰めた。


キャヴェンディッシュスクエアガーデンズ内に建つ
ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャヴェンディッシュ・ベンティンク卿
(Lord William George Frederick Cavendish Bentinck:1802年ー1848年)のブロンズ像 -
彼は、英国北東部にあるノーフォーク州(Norfolk)キングスリン(King's Lynn)選出の議員だった。
<筆者撮影>


ジョージ・ロムニーは、1797年にキャヴェンディッシュスクエア32番地を離れ、ハムステッド地区(Hampstead → 2018年8月26日付ブログで紹介済)のホーリーブッシュヒル5番地(5 Holly Bush Hill)へ転居。


その後、ジョージ・ロムニーは、1794年に深刻な体調不良に陥ったため、肖像画の仕事受注を縮小。

体調不良が回復しない彼は、1799年夏、地元ケンダルの家族の元へ戻り、同地を終焉の地と決めた。地元ケンダルに家族を残したまま、単身ロンドンへと向かった1762年3月以来、35年以上ぶりの帰還だった。


忠実で献身的な妻メアリーに快く迎え入れられたジョージ・ロムニーであったが、1802年11月15日、ケンダルで息を引き取った。享年67歳で、彼の遺体は、出生地であるダルトン・イン・ファーネスのセントメアリー教会(St. Mary’s Church, Dalton-in-Furness)に葬られた。

なお、彼の妻メアリーは、97歳と言う長寿を全うして、1823年に亡くなっている。


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