2026年5月25日月曜日

ジョージ・エリオット(George Eliot)- その3

ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)が
1861年に発表した長編小説第3作目
「サイラス・マーナー(Silas Marner)」
<筆者撮影>


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者となる「わたし」こと、キングスアボット村(King's Abbot)に住むジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)が、村の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れる。会席者を待つ間、ジェイムズ・シェパード医師は、応接間において、ロジャー・アクロイドによる蒐集品の数々を眺めていると、そこへフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)が姿を見せる。


2022年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Holly Macdonald /
Illustrations by Shutterstock.com) 


その際に交わされたジェイムズ・シェパード医師とフローラ・アクロイドの会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。


ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で
所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット
(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画
(By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 /
514 mm x 381 mm)


1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。彼女は、ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss:1808年ー1874年)作「イエス伝」の英語翻訳版を刊行してくれた英国の出版業者であるジョン・チャップマン(John Chapman:1821年ー1894年)の家に寄宿。彼女は、ジョン・チャップマンが買収した左派系の雑誌「ザ・ウェストミンスター・レヴュー(The Westminster Review)」に、マリアン・エヴァンズ(Marian Evans)と言うペンネームを使い、同年から寄稿。1851年には、副主筆(assistant editor)へ昇格。なお、ジョン・チャップマン自身が主筆(editor)を務めた。


英国の哲学者 / 社会学者 / 倫理学者であるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer:1820年ー1903年)の紹介により、メアリー・アン・エヴァンズは、1851年に英国の哲学者 / 文芸批評家であるジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)と知り合い、恋愛関係になる。当時、ジョージ・ヘンリー・ルイスは、アグネス・ジャーヴィス(Agnes Jervis)と結婚して、3人の子供が入る身だったが、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの恋愛関係は、彼が1878年11月30日に亡くなるまで、25年以上続いた。

メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの2人は、1854年7月にドイツへ事実上のハネムーン旅行に出かけている。ドイツ旅行を経て、メアリー・アン・エヴァンズは、ジョージ・ヘンリー・ルイスを自分の夫として紹介し、自分の名前もメアリー・アン・エヴァンズ・ルイス(Mary Anne Evans Lewes)と署名するようになった。ただ、公の場で不倫関係を隠さない態度は、当時の慣行には反するものであったため、世間からの反感を買った。


同年(1854年)、メアリー・アン・エヴァンズは、ドイツの哲学者ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbacj:1804年ー1872年)作「キリスト教の本質(The Essence of Christianity)」の英語翻訳版を出版。


1857年、メアリー・アン・エヴァンズは、ブラックウッズマガジン(Blackwood’s Magazine)誌上に、ジョージ・ヘンリー・ルイスの名を借りた「ジョージ・エリオット(George Eliot)」のペンネームを用いて、


*「エイモス・バートン牧師の悲運(The Sad Fortunes of the Reverend Amos Barton)」

*「ギルフィル氏の恋物語(Mr. Gilfil’s Love Story)」

*「ジャネットの改悛(Janet’s Repentance)」


の短編小説を順次発表。

1858年1月に、「牧師館物語(Scenes of Clerical Life)」として纏められ、出版された。


そして、1859年には、最初の長編小説となる「アダム・ビード(Adam Bede)」を発表する。


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