2026年5月17日日曜日

ロンドン ハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate)- その2

ヴァージニア・ウルフが生まれた
ハイドパークゲイト通り22番地の建物全景
<筆者撮影>

サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle::1859年ー1930年)作「マスグレイヴ家の儀式書(The Musgrave Ritual)」の冒頭、シャーロック・ホームズがジョン・H・ワトスンに対して語った通り、ホームズは、大学卒業後、ロンドンに移り、モンタギューストリート(Montague Street → 2014年5月25日付ブログで紹介済)に部屋を借りて、諮問探偵を開業したが、残念ながら、数ヶ月経過しても、1件の仕事依頼も持ち込まれなかった。そこで、ホームズは、この暇な時間を有効活用すべく、将来役に立ちそうな学問の勉強のために、近所にある大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)の「円形閲覧室(Round Reading Room → 2026年5月6日付ブログで紹介済)」へ足繁く通った。


「ストランドマガジン(The Strand Magazine)」の
1893年5月号「マスグレイヴ家の儀式書」に掲載された挿絵 -
ジョン・H・ワトスンが、
事件解決後の倦怠期に入ったシャーロック・ホームズに対して、
部屋の住み心地を良くするために、室内の整理を提案した。
すると、少し悲しそうな顔をしたホームズは、寝室へ姿を消すと、
大きなブリキの箱を引っ張り出して来た。
ホームズは、ブリキの箱を部屋の真ん中に置き、
丸椅子に座ると、箱の蓋を開けた。
ブリキの箱の中には、ホームズが解決した
初期の事件の記録が入っていたのである。
挿絵:シドニー・エドワード・パジェット
(Sidney Edward Paget:1860年 - 1908年)


ホームズが足繁く通った「円形閲覧室」があった大英博物館周辺に住んだヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf / 本名:アデリーン・ヴァージニア・スティーブン(Adeline Virginia Stephen):1882年ー1941年)は、1882年1月25日、英国の著名な批評家 / 歴史家である父サー・レスリー・スティーヴン(Leslie Stephen:1832年ー1904年)と初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 1st Baronet:1833年ー1898年 → 2018年6月3日 / 6月10日 / 6月17日付ブログで紹介済)等のラファエル前派(Pre-Raphaelite)のモデルとして知られている母ジュリア・プリンセップ・ジャクスン(Julia Prinsep Jackson:1846年ー1895年)の次女として、ハイドパークゲイト通り22番地(22 Hyde Park Gate)に出生。

ヴァージニア・ウルフの両親は共に再婚で、サー・レスリー・スティーヴンには、1875年に亡くなった前妻との間に、娘1人が、また、ジュリア・プリンセップ・ジャクスンには、1870年に亡くなった前夫との間に、息子2人と娘1人が居た。

そして、サー・レスリー・スティーヴンとジュリア・プリンセップ・ジャクスンの間に、息子2人と娘2人が生まれた。5番目の子供で、夫妻にとって長女となるヴァネッサ・ベル(Vanessa Bell:1879年ー1961年)は、後に英国の画家 / インテリアデザイナーとなり、妹ヴァージニア・ウルフ達と一緒に、1905年に「ブルームズベリーグループ(Bloomsbury )」と呼ばれる著述家や芸術家の知的サークルを結成することになる。ヴァージニア・ウルフは、7番目の子供で、夫妻にとっては次女となる。


ハイドパークゲイト通り22番地の建物前から
北側(ハイドパークゲイト通りの入口)を見たところ
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが生まれたハイドパークゲイト通り22番地は、ロンドンの中心部にあるケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)のブロンプトン地区(Brompton)内の高級住宅街に所在している。


ハイドパークゲイト通り22番地の建物を見上げたところ
<筆者撮影>


父親のサー・レスリー・スティーヴンは、英国の著名な批評家 / 歴史家で、「英国人名辞典(Dictionary of National Biography)」の編集者として知られていることに加えて、前妻の父で、英国の小説家であるウィリアム・メイクピース・サッカレー(William Makepeace Thackeray:1811年ー1863年)との繋がりがあり、多くの著名な知識人や作家が家を訪れた。

また、母親のジュリア・プリンセップ・ジャクスンの一族から、ヴィクトリア朝社会に名を馳せた美女を輩出しており、本人も「ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)」(正確には、「ラファエロ以前兄弟団」)の画家達や写真家達のモデルを務めた関係で、知己に恵まれていた。

その結果、ヴァージニア・ウルフは、文学に造詣が深く、豊かな人脈を知己に持つ両親の下で育った。


更に、スティーヴン家の書斎には、膨大な蔵書があり、ヴァージニア・ウルフは、姉のヴァネッサと一緒に、古典や英国文学を書物から学んだ。

一方、長男のトビー(Thoby:1880年ー1906年)と次男のエイドリアン(Adrian:1883年ー1948年)は、正規の教育を受けて、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)へ進学しており、ヴァージニア・ウルフは、当時の男女不平等な慣習に対して、非常に悔しい思いを抱いていた。


ヴァージニア・ウルフが13歳になった1895年に、母親のジュリアが48歳で急死し、ヴァージニア・ウルフが15歳になった1897年に、異父姉ステラ(Stella:1869年ー1897年)が亡くなったことに伴い、彼女は神経衰弱を発病した。

にもかかわらず、ヴァージニア・ウルフは、1897年から1901年にかけて、キングス カレッジ ロンドン(King’s College London)の女子学部で、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語と歴史を履修し、いくつかの課程で学位レベルまで修めた。姉のヴァネッサも、キングス カレッジ ロンドンの女子学部において、ラテン語、イタリア語と建築を学んだ。


ハイドパークゲイト通り22番地の建物外壁には、
(1)父サー・レスリー・スティーヴン、
(2)姉ヴァネッサ・ベルと
(3)妹ヴァージニア・ウルフの
3人分のブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ハイドパークゲイト通り22番地の建物の1階(GF)の外壁には、


(1)サー・レスリー・スティーヴン(London City Council 制作)

(2)ヴァネッサ・ベル(非公認のものと思われる)

(3)ヴァージニア・ウルフ(非公認のものと思われる)


の3つのブループラークが掛けられている。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示されている
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルの肖像画
(by Sir William Orpen / 1916年 / Oil on canvas)
<筆者撮影>


ヴァージニア・ウルフが生まれたハイドパークゲイト通り22番地の右斜め前にあるハイドパークゲイト通り28番地の建物には、英国の政治家、軍人、従軍記者、作家であるウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill:1874年ー1965年)が住んでおり、ここで亡くなっている。 


ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルが亡くなった
ハイドパークゲイト通り28番地の建物全景
<筆者撮影>

ハイドパークゲイト通り28番地の建物外壁には、
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルが住み、
ここで亡くなったことを示すブループラークが掛けられている。
<筆者撮影>

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