2016年に英国の Faber & Faber 社から出版された ウィリアム・ワーズワース詩集の表紙 <Poems selected by Seamus Heaney> (Series design by Faber / Illustration : Glenn Tomkinson) |
ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年)は、1787年に、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)のセントジョンズカレッジ(St. John’s College)へと進学する。
大学に入学したものの、学業にはあまり熱心ではなかった彼は、詩作や自然に対する思いを募らせ、夏季長期休暇の都度、ホークスヘッド(Hawkshead)へと戻り、湖水地方を散策。
1790年には、友人と一緒に、欧州大陸へ出かけ、フランス、スイス(アルプス山脈)、そして、イタリアを徒歩で旅した。
1791年に学位を得て、大学を卒業。
大学卒業後、ウィリアム・ワーズワースは、1791年11月にフランスへ再度渡航して、長期に滞在。フランス語の研鑽が目的であったが、フランス革命(French Revolution)の熱狂的な初期段階にあったフランスに滞在した彼は、次第に革命思想に魅了されていく。
その最中、ウィリアム・ワーズワースは、フランス人医師の遺児で、上流階級の年上の女性であるアネット・ヴァロン(Annette Vallon)と恋仲になる。1792年末、彼女は彼の娘となるキャロライン(Caroline)を出産。
ところが、経済的な理由と英仏間の緊張等から、彼は、一旦、一人で英国へ帰国せざるを得なかった。
1793年になり、ルイ16世の処刑と英仏間開戦があったため、彼はフランスへ戻ることができず、彼とアネット・ヴァロンの2人は、その後10年間にわたり、会うことができなかった。また、彼は、恐怖政治(Reign of Terror)へと移行したフランス革命に深く幻滅していく。
フランスへ戻ることができなくなったウィリアム・ワーズワースは、1793年に「An Evening Walk」と「Descriptibve Sketches」と言う最初の詩集2作品を出版するものの、残念ながら、世間から良い評価を得るには至らなかった。
英仏間開戦によりフランスへ戻れず、アネット・ヴァロンや娘のキャロラインに会えないことに加えて、自分の詩集が良い評価を得られなかった彼は、精神的な危機(モラルクライシス)へ陥っていく。そのため、彼は、友人や知人を頼って、英国各地を転々とする。
英国各地を彷徨したウィリアム・ワーズワースは、1795年、英国のロマン派詩人で、批評家 / 哲学者でもあるサミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge:1772年ー1834年)とサマーセット州(Somerset)のブリストル(Bristol)で出会う。2人は、直ぐに意気投合して、親友となった。
妹のドロシー(Dorothy Wordsworth:1771年ー1855年)と再会した彼は、1795年から2年間、彼女と一緒に、ドーセット州(Dorset)のレイスダウンハウス(Racedown House)に住む。
そして、彼は、1797年に、サマーセット州にあるサミュエル・テイラー・コールリッジの住居の近くのアルフォックデンハウス(Alfoxden House)へと転居した。
サミュエル・テイラー・コールリッジとの親交と妹のドロシーとの再会 / 同居が契機となって、ウィリアム・ワーズワースは、次第に精神的な危機から立ち直っていくのである。
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