ハドソン夫人が経営する京都市寺町通221B に住むシャーロック・ホームズは、洛中洛外にその名を轟かせた名探偵だったが、現在、深刻なスランプに陥っていた。昨年の晩秋にホームズが関わった「赤毛連盟事件」が、その原因であった。
ジョン・H・ワトソンは、京都市の下鴨本通に自宅兼診療所を構える医師であることに加えて、ホームズの相棒、かつ彼が手掛けた事件の記録者を務め、冒険譚を雑誌「ストランド・マガジン」に発表して、洛中洛外の探偵小説愛好家達を熱狂させていたが、ホームズのスランプによる巻き添いを食って、現在、ホームズ譚の連載は、無期限休止を余儀無くされている上に、診療所の経営も、破綻の危機に瀕していた。
<第1章 ジェイムズ・モリアーティの彷徨>
10月下旬、下鴨本通にある自宅兼診療所において、ジョン・H・ワトソンが、妻のメアリーと紅茶を飲んでいると、メイドが郵便物を持って来た。そのうちの1通は、ホームズファンの少女からで、
ホームズ譚の連載再開を強く求めていた。
テーブルに頬杖をついて考え込む夫の姿を見て、メアリーはあまり機嫌が良くなかった。彼女は、ホームズのことを、自分達の将来設計を木っ端微塵に粉砕しかねない危険因子と見做していたのである。
その日の夜、クラブで医師会の仲間であるサーストンと玉突きをする約束だったが、ホームズの様子が気にかかったワトソンは、馬車でホームズの自宅兼事務所である寺町通221B へと向かった。
ホームズの元を訪れたワトスンであったが、ホームズのスランプは相変わらずだった。
長椅子から立ち上がり、床の上に放り出してあったヴァイオリン(ストラディバリウス)を手に取ると、ホームズはギイギイと演奏を始めた。御世辞にも、ホームズの腕前は良いとは言えなかった。
すると、ステッキを持った老人が、ホームズの部屋へと飛び込んで来た。
彼は、ジェイムズ・モリアーティで、百万遍の東、吉田山の麓に所在する大学の応用物理学研究所の教授を務めている。「万国博覧会」や「月ロケット計画」等の国家的なプロジェクトに名を連ね、ベストセラーとなった通俗的な自己啓発本「魂の二項定理」の著者である。
現在、ホームズが下宿する寺町通221B の上階(3階)に住んでいるのだ。そこは、ワトソンが、メアリーと結婚する前、つまり、ホームズと同居していた時に使用していた部屋だった。
モリアーティ教授が自室へ戻って暫くすると、彼の弟子であるウォルター・カートライトが教授の元を訪ねたが、ひとしきり押し問答が続いた後、彼が階段を下りてくる。
そこで、ハドソン夫人が、カートライトをホームズの部屋へと誘う。彼は、20歳そこそこの青年で、その青白い顔には、哀しげな表情が浮かんでいた。
彼によると、「モリアーティ教授は、学生時代の恩師で、昨年の春からは、応用物理学研究所の正式な研究員として、教授の下で勤務していました。ところが、昨年の秋頃から、教授は研究所に姿を見せなくなり、そして、一身上の都合を理由に、唐突に辞職してしまったんです。」とのこと。
ウォルター・カートライトとしては、ホームズに、何故にジェイムズ・モリアーティ教授が下宿屋に引き籠もっているのか、その理由を調べてほしい、と依頼するのであった。
<第2章 アイリーン・アドラーの挑戦>
11月最初の日曜日、ジョン・H・ワトソンは、ハドソン夫人と一緒に、馬車に揺られていた。目的地は、南禅寺界隈、名高い霊媒であるリッチボロウ夫人の邸宅「ポンディシェリ・ロッジ」だった。
ホームズの深刻なスランプに回復の兆しは全くなく、更に、ジェイムズ・モリアーティ教授と京都警視庁(スコットランドヤード)のエースだったにもかかわらず、長期的な不調に陥ったレストレード警部までが、ホームズの元に入り浸り、寺町通221B において、「負け犬同盟」の集会を開いているのだ。
ワトソンとハドソン夫人から、ホームズのスランプの原因を尋ねられたリッチボロウ夫人は、水晶玉を手にかざすと、その奥に、俯き加減のため、顔はよく見えないが、ほっそりとして、どこか淋しげな少女の姿が浮かび上がった。
リッチボロウ夫人は、「この人物が、ホームズさんのスランプの原因と思われます。」と告げる。
一方、ハドソン夫人は、リッチボロウ夫人の助言を受けて、寺町通221B の向かいをもう一軒、手に入れていた。既に改装工事も終わり、素敵な下宿人も見つけていた。
彼女は、アイリーン・アドラーと言う京都市の南座の大劇場に出演していた舞台女優で、昨年の秋に電撃的に引退した後、今回、ホームズが下宿する寺町通221B の向かいの建物において、探偵事務所を開業する。
そして、彼女は、ホームズに対して、挑戦状を叩き付けた。
デイリー・クロニクル紙に特別欄を設けて、二人が解決した事件の件数を掲載し、今年の大晦日までに、より多くの事件を解決した方が、「名探偵」の称号を得る、と言う訳なのだ。
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