アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月27日付ブログで紹介済)」をベースにしている。
アルフレッド・テニスンは、1850年に、ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年)の後継者として、「桂冠詩人(宮廷職で、優れた詩人に与えられる称号)」となった。
ウィリアム・ワーズワースは、英国の代表的なロマン派詩人で、湖水地方(Lake District)をこよなく愛し、グラスミア湖(Lake Grasmere)畔の小さな村であるグラスミア(Grasmere)の外れに建つダヴコテージ(Cove Cottage)に、1799年から1808年までの10年間、一家と妹のドロシー(Dorothy Wordsworth:1771年ー1855年)と一緒に住んだ。湖水地方の自然を称賛した彼の作品の大半は、ここで書かれたと言われている。
ウィリアム・ワーズワースは、1770年4月7日、現在のカンブリア州(Cumbria)コッカーマス(Cockermouth)に、父ジョン・ワーズワース(John Wordsworth)と母アン・コックスン(Ann Cookson)の下、5人兄弟の第2子として誕生。
父親のジョン・ワーズワースは、代々、この地の貴族に仕える事務弁護士だったため、その関係で、ワーズワース一家は大きな邸宅に住むことができた。なお、長男のリチャード・ワーズワース(Richard Wordsworth)が、父親と同業の事務弁護士になっている。
母親のアン・コックスンは、近郊のペンリス(Penrith)において衣料品店を営む商人の娘だったが、母親の一族には、名門の親戚が居た。
ウィリアム・ワーズワースは、母親のアン・コックスンから読み書きを教わった後、地元の学校へ通ったが、1778年に母親が亡くなったことに伴い、父親のジョン・ワーズワースは、長男リチャード、次男ウィリアム、三男ジョン(John)と四男クリストファー(Christopher)の4人を、ホークスヘッド(Hawkshead)にあるグラマースクール(Grammer School)に入学させ、長女ドロシーは、ヨークシャー州(Yorkshire)の親戚の元へと送られた。このため、ウィリアムは、9年の間、妹のドロシーと再会することはなかった。ところが、父親のジョン・ワーズワースも、1783年に世を去ってしまう。
幼くして両親を亡くしたウィリアム・ワーズワースは、コッカーマスの生家を持ち主である貴族に返すことになったため、帰る家 / 家庭のない孤独な少年時代を送ったものの、湖水地方の自然が彼の心の慰めとなった。孤独な少年時代だったこともあり、この頃から、彼は英語の詩に親しみ、自ら詩作するようになっていった。
そして、ウィリアム・ワーズワースは、1787年に、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)のセントジョンズカレッジ(St. John’s College)へと進学する。
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