2024年6月11日火曜日

ロンドン ジャーミンストリート87 / 88番地(87 / 88 Jermyn Street)

研究生活に疲弊して、精神不調に陥ったため、
ケンブリッジを離れて、ロンドンへ移住した
サー・アイザック・ニュートンが住んでいた
ジャーミンストリート88番地(1696年―1700年)と
同87番地(1700年―1709年)。


英国の自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、そして、神学者として有名なサー・アイザック・ニュートン(Sir Issac Newton:1642年―1727年)は、彼の人生の後半、ロンドンに住んでいた。


古い英国1ポンド紙幣に描かれているサー・アイザック・ニュートン


1642年12月25日に、リンカンシャー州(Lincolnshoire)の小さな村ウールズソープ(Woolsthrope → 2024年6月2日 / 6月7日付ブログで紹介済)に出生したアイザック・ニュートンは、1661年にケンブリッジ大学(University of Cambridge) トリニティーカレッジ(Trinity College)へ進学。

大学に入学したアイザック・ニュートンは、英国の聖職者 / 数学者で、ルーカス数学講座(Lucasian Chair of Mathematics)の初代教授であるアイザック・バロー(Isaac Barrow:1630年ー1677年)を師として、バローも、彼の才能を高く評価した。

アイザック・ニュートンは、1665年にケンブリッジ大学トリニティーカレッジを卒業した後も、大学に残る。


1668年に、アイザック・ニュートンは、ニュートン式望遠鏡を考案して完成させたことを受けて、師であるバロー教授から、自らのポストを打診された。

一度固辞したが、最終的には、師の申し出を受けて、1669年に、彼は、26歳の若さで、ルーカス教授職(Lucasian Professor of Mathematics)に就く。

ルーカス教授職に就いた彼は、彼の2大著書となる「自然哲学の数学的諸原理(Principia)」(1687年刊行)と「光学(Opticks)」(1704年刊行)の執筆を精力的に行った。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
サー・アイザック・ニュートンの肖像画の葉書
(Sir 
Godfrey Kneller Bt. / 1702年 / Oil on canvas
756 mm x 622 mm) 


その後、研究生活に疲弊して、精神不調に陥ったアイザック・ニュートンは、ケンブリッジを離れて、1696年にロンドンへと移住する。

19歳年下の教え子である初代ハリファックス伯爵チャールズ・モンタギュー(Charles Montagu, 1st earl of Halifax:1661年ー1715年)が財務大臣となっており、アイザック・ニュートンは、チャールズ・モンタギューの紹介を受けて、王立造幣局監事(Warden of the Royal Mint)の職に就き、1699年には、王立造幣局長官(Master of the Royal Mint)へと昇格した。

教え子のチャールズ・モンタギューとしては、研究生活に疲弊して、精神不調に陥った恩師のアイザック・ニュートンに対して、研究から離れて、時間的にも、体力的にも余裕のある地位や職を紹介したつもりであったが、アイザック・ニュートンは、就任早々、通貨偽造人を逮捕したことを皮切りにして、組織内の汚職を片っ端から摘発のうえ、処罰すると言う厳しい方針を打ち出した。

アイザック・ニュートンは、政治や行政の世界とは程遠い大学教授であったにもかかわらず、王立造幣局長官として、非常に鮮やかな手並みを発揮して、彼の在職中、通貨偽造が激減したと言われている。


1705年、アイザック・ニュートンは、英国のステュアート朝(House of Stuart)最後の君主であるアン女王(Queen Anne:1665年ー1714年 在位期間:1702年ー1714年)から、自然哲学の業績に対し、トリニティーカレッジにおいて、ナイトの称号(サー)を授与された。

なお、自然哲学(自然科学)の分野で、ナイトの称号を授与されたのは、アイザック・ニュートンが最初である。


上記の通り、王立造幣局監事、そして、王立造幣局長官を務めたアイザック・ニュートンは、


(1)1696年―1700年:ジャーミンストリート88番地(88 Jermyn Street)

(2)1700年―1709年:ジャーミンストリート87番地(87 Jermyn Street)


に住んでいた。



ジャーミンストリート(Jermyn Street → 2016年7月24日付ブログで紹介済)は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のセントジェイムズ地区(St. James's)内にあり、トラファルガースクエア(Trafalgar Square)からセントジェイムズ宮殿(St. James's Palace)へ向かって西に延びるパル・マル通り(Pall Mall → 2016年4月20日付ブログで紹介済)とピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)から地下鉄グリーンパーク駅(Green Park Tube Station)の前を通って地下鉄ハイドパークコーナー駅(Hyde Park Corner Tube Station → 2015年6月14日付ブログで紹介済)へ向かって西に延びるピカデリー通り(Piccadilly)とで南北に挟まれている。ジャーミンストリートの東側はヘイマーケット通り(Haymarket)から始まり、リージェントストリート(Regent Street)を横切った後、西側はセントジェイムズストリーム(St. James's Street → 2021年7月24日付ブログで紹介済)で終わる約500mの通りである。


ジャーミンストリートは、17世紀後半、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミン(Henry Jermyn, 1st Earl of St. Albans:1605年ー1684年)がセントジェイムズ地区を再開発した際に、一緒に整備され、彼の名前に因んで、ジャーミンストリートと名付けられた。ただし、当初は、現在の「Jermyn Street」ではなく、「Jarman Street」と記録されていたようである。

ちなみに、初代セントアルバンス伯爵ヘンリー・ジャーミンは、ジャーミンストリートから少し南側に下ったセントジェイムズスクエア(St. James's Square → 2015年10月25日付ブログで紹介済)にある自宅で、1684年に死去している。


ジャーミンストリート87番地の建物の壁には、
サー・アイザック・ニュートンが住んでいたことを示す
プラークが架けられている。


アイザック・ニュートンは、当初、ジャーミンストリート88番地に住んでいたが、1700年に同所より広いジャーミンストリート87番地が空いたため、そちらへ移ったのである。

残念ながら、当時の建物は、1908年に取り壊されてしまった。


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