サー・アイザック・ニュートンが生まれたウールズソープマナーの全景写真(その2)- 「木の枝からリンゴが落下するのを見て、万有引力の法則を思い付いた。」と言う 有名な逸話の元となったリンゴの木が、手前に見られる。 <筆者がウールズソープマナーで購入した解説書から抜粋> |
英国の自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、そして、神学者として有名であるアイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年)が、彼の生涯のうちで、生家のウールズソープマナー(Woolsthorpe Manor)において暮らすのは、4つの時期に分けられる。
古い英国1ポンド紙幣に描かれているサー・アイザック・ニュートン |
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3つ目の時期は、彼がケンブリッジ大学(University of Cambridge)トリニティーカレッジ(Trinity College)を卒業した後である。
アイザック・ニュートンは、1665年にケンブリッジ大学トリニティーカレッジを卒業して、学士号(BA = Bachelor of Arts)を取得した後も、大学に残ったが、ペストが英国全土で大流行したため、同年から1666年にかけて、大学は閉鎖されてしまった。そのため、彼は、故郷のウールズソープ(Woolsthorpe)へと疎開した。
ウールズソープマナーに戻ったアイザック・ニュートンは、プリズムを使った分光の実験や万有引力の思索等、学問に専念。特に、「木の枝からリンゴが落下するのを見て、万有引力の法則を思い付いた。」と言う有名な逸話の出来事があったのは、この時期である。
ペストの大流行により、大学が閉鎖されたため、 ケンブリッジから故郷のウールズソープへと戻ったアイザック・ニュートンは、 生家のウールズソープマナーにおいて、 プリズムを使った分光の実験や万有引力の思索等、学問に専念した。 <筆者がウールズソープマナーで購入した解説書から抜粋> |
アイザック・ニュートンが故郷のウールズソープへ疎開したのは、1665年6月、あるいは、同年7月で、ペストが終息した後、大学へ戻ったのは、1667年4月である。つまり、彼がウールズソープに疎開していたのは、2年弱となる(ただし、1666年3月から同年6月までの期間を除く)。
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4つ目の時期は、彼が母親の晩年の世話をした時である。
1667年4月に大学へ復帰したアイザック・ニュートンは、1668年にニュートン式望遠鏡を考案して完成させたことを受けて、師で、ルーカス数学講座(Lucasian Chair of Mathematics)の初代教授であるアイザック・バロー(Isaac Barrow:1630年ー1677年)から、自らのポストを打診された。
一度固辞したが、最終的には、師の申し出を受けて、1669年に、彼は、26歳の若さで、ルーカス教授職(Lucasian Professor of Mathematics)に就く。
ルーカス教授職に就いたアイザック・ニュートンは、彼の2大著書となる「自然哲学の数学的諸原理(Principia)」(1687年刊行)と「光学(Opticks)」(1704年刊行)の執筆を精力的に行った。
また、彼が改良したニュートン式望遠鏡の第二号機が、1671年に王立協会(Royal Society)に提出され、この実績を理由に、アイザック・ニュートンは、1672年、王立協会のフェロー(Fellow of the Royal Society)に推薦された。
サー・アイザック・ニュートンが生まれたウールズソープマナーの解説書 <筆者がウールズソープマナーで購入> |
1679年に、アイザック・ニュートンは、故郷のウールズソープへ戻り、母親のハナ・アスキュー(Hannah Ayscough)の晩年の世話をした。
前述の通り、19歳の時、アイザック・ニュートンは、母と義父に対して、「家に放火して、2人を焼き殺す!」と恫喝したことがあり、後年の彼は、この一時の激情に駆られた発言を非常に悔いていたため、以降、母とは付かず離れずの関係を保っていた、とのこと。
母の葬儀を終えたアイザック・ニュートンは、同年6月に大学へと戻っている。
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