セントオールバンズ大聖堂の外観(その1) <筆者が撮影> |
百年戦争(Hundred Years’ War:1337年ー1453年)の敗戦責任の押し付け合いから発展した権力闘争の結果、1455年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、ランカスター朝の第3代イングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)が率いる軍勢と第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年ー1460年)が率いる軍勢が衝突し、戦いの火蓋が切って、落とされた。これが、「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans → 2024年6月18日付ブログで紹介済)」である。
「第1次セントオールバンズの戦い」が契機となり、以後30年間にわたって、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられる。
ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、以後30年間にわたる内戦は、現在、「薔薇戦争(Wars of the Roses)」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。
セントオールバンズ大聖堂の外観(その2) <筆者が撮影> |
セントオールバンズは、ロンドン北方のハートフォードシャー州(Hertfordshire)内にある都市である。
セントオールバンズ大聖堂の外観(その3) <筆者が撮影> |
セントオールバンズの場合、ケルト系の民族の集落、そして、ローマ人が建設したヴェルラミオン(Verlamion)から、その歴史が始まる。
なお、ヴェルラミオンは、北へ向かう旅行者のための古代ローマ道沿いに所在する最初の主要な町で、ローマ支配時代のブリテン島において、ロンディニウム(現在のロンドン)に次ぐ大きな町だった。
セントオールバンズ大聖堂の内部(その1) <筆者が撮影> |
中世時代、セントオールバンズは、ベネディクト会派のセントオールバンズ修道院周囲の東側へと発展していった。
同修道院付教会であるセントオールバンズ大聖堂(Cathedral & Abbey Church of St. Albans)については、11世紀後半にその建築が始まり、13世紀前半に完成した。
セントオールバンズ大聖堂の内部(その2) <筆者が撮影> |
同修道院の西側に建つセントオールバンズ校(St. Albans School)は、10世紀中頃に創立されたパブリックスクールで、唯一のイングランド出身者で、ローマ教皇となったハドリアヌス4世(Hadrianus IV:1100年頃ー1159年 在位期間:1154年ー1159年)が学んだ学校である。
英国の理論物理学者であるスティーヴン・ウィリアム・ホーキング(Stephen William Hawking:1942年ー2018年)も、セントオールバンズ校の出身である。
セントオールバンズ博物館 / ギャラリー (St. Albans Museum + Gallery)の外観 <筆者が撮影> |
セントオールバンズは、田舎の市場町 / 巡礼地として発展し、両大戦の間、電機産業の中心地となった。
直線距離でロンドンから約20㎞と言う近さのため、戦後、セントオールバンズには、ニュータウンの建設が行われ、現在、住民の約2割が、ロンドンまで通勤している、とのこと。
セントオールバンズには、各時代の建物や遺跡が保存されており、観光地と言う側面も有している。
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