2024年6月2日日曜日

リンカンシャー州(Lincolnshire) ウールズソープマナー(Woolsthorpe Manor)- その1

サー・アイザック・ニュートンが生まれたウールズソープマナーの全景写真(その1)
<筆者が
ウールズソープマナーで購入した解説書から抜粋>


英国の自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、そして、神学者として有名であるアイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年)は、1642年12月25日のクリスマスに、イングランド東海岸のリンカンシャー州(Lincolnshoire)の小都市グランサム(Grantham)郊外に所在する小さな村ウールズソープ(Woolsthorpe)内に建つウールズソープマナー(Woolsthorpe Manor)に出生した。


古い英国1ポンド紙幣に描かれているサー・アイザック・ニュートン


アイザック・ニュートンが、彼の生涯のうちで、生家のウールズソープマナーにおいて暮らしたのは、4つの時期に分けられる。


(1)

まず最初の時期は、彼が出生してから、グラマースクールに通うまでの間である。


アイザック・ニュートンの祖父であるロバート・ニュートン(Robert Newton)は、成功した農場主で、1623年の時点で、ウールズソープマナーを含む周辺の土地を既に取得していた。ロバート・ニュートンは、ウールズソープマナーを改修の上、息子であるアイザック・ニュートン(Issac Newton - アイザック・ニュートンの父で、同姓同名)と一緒に、住み始めた。

37歳のアイザック・ニュートンが、近郊の農家の娘であるハナ・アスキュー(Hannah Ayscough)と1642年4月に結婚した際、ウールズソープマナーは、結婚祝いとして、ロバート・ニュートンから彼に贈与された。

ところが、父アイザック・ニュートンは、子アイザック・ニュートンが生まれる3ヶ月程前に亡くなってしまい、また、子アイザック・ニュートンは、未熟児として出生した。


アイザック・ニュートンが3歳の時、母ハナ・アスキューは、近郊ノースウィザム(North Witham)に住む牧師(Rector)であるバーナバス・スミス(Barnabas Smith)と再婚して、ノースウィザムへ移り住んだ。

ハナ・アスキューが再婚した理由として、アイザック・ニュートンの養育費を得るためであったと言われている。

この際、母ハナ・アスキューは、アイザック・ニュートンを再婚先へと連れて行かず、彼は、ウールズソープマナーにおいて、母方の祖母であるマージョリー・アスキュー(Marjorie Ayscough)の元で養育される。

ハナ・アスキューがアイザック・ニュートンを再婚先へ連れて行かなった理由として、


*彼の祖父ロバート・ニュートンの代から続く郷士と言うタイルを存続させるため

*アイザック・ニュートンが、義父であるバーナバス・スミスのことを毛嫌いしたため

義父であるバーナバス・スミスの方が、アイザック・ニュートンを引き取ることをよしとしなかったため


等と言われているが、真偽の程は定かではない。

一方で、19歳のアイザック・ニュートンが、母と義父に向かって、「家に放火して、2人を焼き殺す!」と恫喝したとのことなので、上記の(2)の辺りが正しく、幼いながらも、母親の再婚に反発していていたことが、その理由なのではないだろうか。

なお、バーナバス・スミスと再婚した母ハナ・アスキューは、メアリー(Mary)、ベンジャミン(Benjamin)、そして、ハナ(Hannah)と言う3人の子供を設けている。


ウールズソープマナーにおいて、母方の祖母で養育されたアイザック・ニュートンは、それからの9年間、決してほったらかしにされた訳ではないものの、使用人達や農場の労働者達に囲まれていたが、孤独な時期を過ごし、農場の仕事を手伝わないで、薬草の収集、そして、水車、日時計や水時計の製作等に熱中した。


1653年に義父バーナバス・スミスが亡くなり、母ハナ・アスキューは、3人の子供達を連れて、ウールズソープマナーへと戻って来た。


1655年に、アイザック・ニュートンは、グランサムにあるグラマースクールであるキングススクール(King’s School)に入学するが、彼の自宅であるウールズソープマナーから約7マイル離れているため、母ハナ・アスキューの知り合いの薬剤師であるクラーク家に下宿する。

こうして、彼は、出生地であるウールズソープマナーから、初めて離れて暮らすことになったのである。


サー・アイザック・ニュートンが生まれたウールズソープマナーと
彼が学んだグラマースクールである
キングススクールが所在したグランサムの位置関係を示す地区
<筆者が
ウールズソープマナーで購入した解説書から抜粋>

(2)

2つ目の時期は、母ハナ・アスキューにより、キングススクールを退学させられて、ウールズソープマナーへと戻った時である。


1655年にキングススクールへ入学して、ラテン語、古代ギリシア語や初等幾何等を学び始めたアイザック・ニュートンであったが、母ハナ・アスキューは、彼に農場を手伝わせようとして、1659年にキングススクールを退学させてしまう。

彼は、ウールズソープマナーへ戻ったものの、農作業を放棄して、下宿先であったクラーク家へ頻繁に行き、化学書を読み耽った李、水車づくりに熱中した。

アイザック・ニュートンが農業に向いていないことを実感した母ハナ・アスキューは、親類や友人からの助言を受け、2年を経て、彼はキングススクールに復学する。

聖書、算術、ラテン語、古代史や初等幾何等の対策を受けた18歳のアイザック・ニュートンは、1661年6月5日にケンブリッジ大学(University of Cambridge)トリニティーカレッジ(Trinity College)へ進学したのである。


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