ガウアーストリート115番地の建物 (現在、ユニヴァーシティー・オブ・ロンドンの生物学の建物となっている)の外壁には、 チャールズ・ダーウィンが、1838年から1842年の間、 この建物に住んでいたことを示すブループラークが架けられている。 |
英国の自然科学者、地質学者、そして、生物学者として、後に有名になるチャールズ・ロバート・ダーウィン(以下、チャールズ・ダーウィン / Charles Robert Darwin:1809年ー1882年)は、英国海軍の測量艦ビーグル号(HMS Beagle → 2022年1月16日付ブログで紹介済)による約5年に及ぶ航海(1831年12月27日ー1836年10月2日)を終えて、英国に戻って来ると、彼の恩師で、ケンブリッジ大学(University of Cambridge)の植物学教授であるジョン・スティーヴンス・ヘンズロー(John Stevens Henslow:1796年ー1861年)との再会を果たす。
その後、ロンドンへと向かったチャールズ・ダーウィンは、ビーグル号の報告書の執筆と編集を進めていたが、この頃、原因不明の体調不良(頭痛、胃炎や心臓の不調等)に悩まされ始めた。ビーグル号の航海中に南米で罹患した熱病の後遺症と言う説、標本として採集したオオサシガメを媒介にしたシャーガス病と呼ばれる感染症に罹ったと言う説、また、執筆や編集のストレスや雄大な大自然に触れた5年に及ぶ航海と人口増加や貧困が進むロンドンのギャップの神経性疾患と言う説等が、チャールズ・ダーウィンの体調不良の要因として考えられるものの、彼を生涯悩ませた体調不良の原因について、彼の存命中には、明らかにならなかった。
ユニヴァーシティー・オブ・ロンドンの生物学の建物の入口 (現在、入口は使用させておらず、別の入口が使用されている)には、 チャールズ・ダーウィンの肖像写真が2枚架けられている。 |
原因不明の体調不良に苦しみながら、独身生活を続けるチャールズ・ダーウィンは、故郷で幼馴染みの従姉妹であるエマ・ウェッジウッド(Emma Wedgwood:1808年ー1896年)に再会し、彼女との結婚を意識し始めた。
彼の姉であるキャロライン・サラ・ダーウィン(Caroline Sarah Darwin:1800年ー1888年)とエマの兄であるジョサイア・ウェッジウッド3世(Josiah Wedgwood III:1795年ー1880年)が1838年に結婚すると、チャールズ・ダーウィンは、結婚のメリットとデメリットをリストにして検討した後、同年11月にプロポーズを行い、翌年の1839年1月29日に、エマ・ウェッジウッドと結婚した。
ユニヴァーシティー・オブ・ロンドンの生物学の建物の入口 (現在、入口は使用させておらず、別の入口が使用されている)の右側には、 チャールズ・ダーウィンの胸像が置かれている。 |
エマへのプロポーズ後、新居探しを始めたチャールズ・ダーウィンは、ガウアーストリート115番地(115 Gower Street)に家を見つけ、1838年のクリスマスの頃、引越しを行った。
ガウアーストリート115番地は、現在、前後の番地を含めて、ユニヴァーシティー・カレッジ・ロンドン(University College London → 2015年8月16日付ブログで紹介済)の生物学(Biological Sciences)の建物となっている。
ユニヴァーシティー・オブ・ロンドンの生物学の建物の入口 (現在、入口は使用させておらず、別の入口が使用されている)の右側には、 地球上における生命の進化の歴史図が置かれている。 |
1839年5月には、ビーグル号航海の記録が、艦長(captain)を務めたロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy:1805年ー1865年)の著作と合わせた3巻ほんの1冊として出版され、好評を博す。これは、1843年までにわたり、全5巻の「ビーグル号航海の動物学(Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle)」として独立して刊行された。更に、1842年から、全3巻の「ビーグル号航海の地質学(Geology of the Voyage of H.M.S. Beagle)」が出版された。
筆者がダウンハウスで購入した冊子(パンフレット)の表紙 (ダウンハウスを管理する English Heritage が販売) |
1839年1月に結婚して、同年12月に長男のウィリアム・エラズマス(William Erasmus:1839年ー1914年)、そして、1841年3月に長女のアン・エリザベス(Anne Elizabeth:1841年ー1851年)の2人の子供を設けていたチャールズ・ダーウィンと妻のエマは、今後の子育てを考慮、騒音に満ちて、空気が悪いロンドン市内よりも、ロンドン郊外での生活を望んだ。資金の援助について、父親のロバート・ダーウィン(Robert Darwin:1766年ー1848年)からの了解を得たチャールズとエマの2人は家探しを始め、1842年7月後半、ダウンハウス(Down House → 2017年9月3日付ブログで紹介済)を訪れた。
ダウンハウスを訪れた最初の日は、天候が悪い上に、寒かったため、印象はあまり良くなかったものの、天候が回復した翌日、3階建ての家から見えるダウン村の景色に満足した2人は、家の状態があまり良くなかったが、長い間、家探しを続けて疲れ果てていたため、この家へ引っ越すことに決めた。実際、この頃、妻のエマは第三子を妊娠しており、これ以上家探しを続けるには、無理があったのである。
チャールズ・ダーウィンは、当初1年間賃借して住み、状況を確かめた上で、家を購入しようとしたが、持ち主であるジェイムズ・ドルモンド牧師(Reverend James Drummond)は賃貸をよしとせず、売却を望んだ。牧師の要望を聞き入れて、家の購入を決めたダーウィン一家は同年9月中旬(エマと子供達:9月14日+チャールズ:9月17日)にダウンハウスへ引っ越したのである。
筆者がダウンハウスで購入したプログラム(パンフレット)の裏表紙 (ダウンハウスを管理する English Heritage が販売) |
ダウンハウスへ引っ越した直後の同年9月23日、エマは次女メアリー・エレノア(Mary Eleanor)を出産したが、残念ながら、同年10月16日、彼女は亡くなってしまう。
次女メアリー・エレノアの早世の悲しみを乗り越えたチャールズ・ダーウィンは、翌年の1843年3月末から、ダウンハウスの大掛かりな改装工事に着手する。
ダーウィン一家がこの家に暮らし始めた以降、1843年から1856年にかけて、ダーウィン夫妻は、更に7人の子宝に恵まれる。
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