2023年12月11日月曜日

チャールズ・ディケンズの世界<ジグソーパズル>(The World of Charles Dickens )- その8(2)

画面中央に建つ男性(黒い帽子を被り紫色のコートを羽織り、左手に杖を持った男性)が、
チャールズ・ディケンズと同時代のヴィクトリア朝時代に活躍した
小説家のウィリアム・メイクピース・サッカレーである。


ウィリアム・メイクピース・サッカレー(William Makepeace Thackeray:1811年ー1863年)は、1836年8月に、主にインドに駐在したマシュー・ショー大佐(Matthew Shawe)の娘であるイザベラ・ショー(Isabella Shawe:1816年ー1894年)との結婚を機に、新聞社の通信員となるが、又もや長続きせず、僅か2年で退職してしまう。

ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、妻のイザベラとの間に、アン・イザベラ(Anne Isabella:1837年ー1919年)、ジェーン(Jane:生後8ヶ月で死亡)とハリエット・マリアン(Harriet Marian:1840年ー1875年)の3人の娘を儲ける。


イザベラと結婚して、長女アン・イザベラが生まれたウィリアム・メイクピース・サッカレーは、生活費をとにかく稼ぐ必要があり、「フレイザーズマガジン(Fraser’s Magazine)」に芸術評論や小説等を、また、「タイムズ紙(The Times)」に小説批評を寄稿して、食いつないだ。


ウィリアム・メイクピース・サッカレーの妻イザベラは、1840年に三女ハリエット・マリアンを出産した後、鬱病を発症する。

1840年9月、彼は、症状が悪化したイザベラを、アイルランドへの旅行に連れて行くが、その途中、彼女は海に身を投げてしまう。彼女は、なんとか一命をとりとめたが、1840年11月から1842年2月までの間、医療施設を出たり、入ったりし続けた。

ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、いろいろと手を尽くすものの、残念ながら、どれもうまくいかず、イザベラは、1845年までパリの精神病院に入院した。

その後、ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、イザベラを英国へと連れ帰り、サポートを受けつつ、彼が亡くなる1863年まで、看護を続けた。彼が亡くなった後は、イザベラは、他の家族の看護を受けながら、夫よりも30年以上長生きをして、1894年に亡くなっている。


ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、「パリスケッチブック(Paris Sketch Book)」(1840年)と「アイルランドスケッチブック(The Irish Sketch Book)」(1843年)の紀行本で、ある程度の成功を収めた。

また、彼は、1843年から1854年までの間、新たに発刊された雑誌「パンチ誌(Punch)」に寄稿し、そこで発表した小説「俗物の書(The Book of Snobs)」(1846年ー1847年)と小説「虚栄の市(Vanity Fair)」(1847年ー1848年)により、自分が属する中流階級の人間性、特に、その腐敗や俗物根性を痛烈に暴露、作家としての地位を確立して、ヴィクトリア朝を代表する英国の小説家であるチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年 → 2023年月日付ブログで紹介済)と並び、称されるようになる。


ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、


・「ペンデニス(Pendennis)」(1848年-1850年)

・「ヘンリー・エズモンド(The History of Henry Esmond)」(1852年)

・「ニューカム家の人々(The Newcomes)」(1854年ー1855年)

・「バラと指輪(The Rose and the Ring)」(1854年)


等を発表し続けたが、1850年代に入ると、体調を悪くさせ、暴飲暴食や運動嫌いが、彼の体調悪化を更に加速させた。


ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、当初、チャールズ・ディケンズと友人関係にあったが、サッカレーを酷評した批評家をディケンズが支持したことが原因となり、サッカレーが亡くなる前年の1862年まで、両者は仲違いしていた。


1863年12月24日、外食から戻って来たウィリアム・メイクピース・サッカレーは、就寝前に心臓麻痺を起こして、52歳で亡くなった。「デニス・デュヴァル(Denis Duval)」の執筆半ばだった。

同年12月29日、彼は、ロンドン西部にあるケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery)に葬られた。


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