アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の商業デビュー作であり、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編第1作目、かつ、彼の初登場作品に該る「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affairs at Styles)」は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中の1916年に執筆された。
1914年に結婚した最初の夫アーチボルド・クリスティー大尉(Captain Archibald Christie:1889年ー1962年)が、第一次世界大戦中、フランスへ出征している間、アガサ・クリスティーは、薬剤師の助手として奉仕活動に従事していた。その際に、彼女は毒薬の知識を得ており、本作品において、その経験が存分に生かされている。
また、第一次世界大戦中、負傷して、デヴォン州(Devon)のトーキー(Torquay → 2023年9月1日 / 9月4日付ブログで紹介済)において手当てを受けていたベルギー兵士や、同じく、
戦火を避けて、トーキーに亡命していたベルギー人が、エルキュール・ポワロのモデルとなっている。
本作品は、エルキュール・ポワロの初登場作品であることに加えて、ポワロシリーズにおいて御馴染みのアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings)とスコットランドヤードのジェイムズ・ジャップ警部(Inspector James Japp → 後に、主任警部( Chief Inspector)に昇進)の2人も、初登場している。
アーサー・ヘイスティングス大尉がエルキュール・ポワロの活躍を記録すると言う形式は、サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)作シャーロック・ホームズシリーズにより定番となったジョン・H・ワトスンがシャーロック・ホームズの活躍を記録する形式と同じであり、推理小説における当時の主流だった。
「スタイルズ荘の怪事件」を書き上げたアガサ・クリスティーは、複数の出版社宛に原稿を送ったものの、残念ながら、採用されなかった。
アガサ・クリスティーは、The Bodley Head 社宛にも原稿を送ったが、応募したこと自体を忘れて、数ヶ月が経過した頃、同社の設立者の一人であるジョン・レーン(John Lane:1854年ー1925年)から連絡を受けた。
ジョン・レーンの指示を受けて、アガサ・クリスティーは、最終章前の「第12章 最後の環(Chapter 12 - The Last Link)」を全面的に書き直した版が、The Bodley Head 社の本社である米国の John Lane 社から、1920年(10月)に発表されている。英国本国の場合、John Lane 社の英国会社である The Bodley Head 社から、1921年(1月)に出版された。
「スタイルズ荘の怪事件」は、出版当初、新人作家としては、まずまずの2千部位しか売れなかったが、その後、アガサ・クリスティーが、推理作家としての評価を着実に上げた結果、推理小説の古典として認められるようになっていった。
何者かにストリキニーネで毒殺されたエミリー・イングルソープの 部屋の見取り図 |
「スタイルズ荘の怪事件」の愛蔵版には、最終的に出版された第12章に加えて、アガサ・クリスティーによって執筆された当初の第12章も収録されている。
なお、第12章の最終版と当初版では、以下の違いがある。
<第12章の最終版>
義母であるエミリー・イングルソープ(Emily Inglethrop)の毒殺犯人として逮捕されたジョン・キャヴェンディッシュ(John Cavendish)の弁護のために、妻のメアリー・キャヴェンディッシュ(Mary Cavendish)がロンドンのケンジントン地区(Kensington)に借りた家に、エルキュール・ポワロが、事件関係者達とジェイムズ・ジャップ警部を初めとする警察関係者達を招いて、そこで自分の推理を披露する。
<第12章の当初版>
義母であるエミリー・イングルソープの毒殺犯人として逮捕されたジョン・キャヴェンディッシュの裁判が行われているロンドンの中央刑事裁判所(Central Criminal Cout → 2016年1月17日付ブログで紹介済)に証人として出廷したエルキュール・ポワロが、そこで自分の推理を披露する。
中央刑事裁判所の上部全景 |
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