画面中央の男性(右手に原稿の束を、左手に羽根ペンを持った男性)が、 英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家であるウィリアム・ウィルキー・コリンズである。 |
英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、2021年に発売されたジグソーパズル「チャールズ・ディケンズの世界(The World of Charles Dickens)」のイラスト内には、ヴィクトリア朝を代表する英国の小説家であるチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)や彼が生きた時代の人物、そして、彼の作品に登場するキャラクター等が散りばめられているので、次回以降、順番に紹介していきたい。
今回紹介するのは、推理小説「月長石(The Monnstone → 2022年9月30日 / 10月13日付ブログで紹介済)」(1868年)の作者で、ヴィクトリア朝時代(1837年-1901年)に活躍した英国の小説家 / 推理作家 / 劇作家のウィリアム・ウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins:1824年ー1889年 → 2022年9月2日 / 9月4日付ブログで紹介済)である。
彼は、1824年にロイヤルアカデミー(Royal Academy)に所属する高名な風景画家であるウィリアム・コリンズ(William Collins)の長男としてロンドンに出生し、父親の名前に因んで、ウィリアム・ウィルキー・コリンズと名付けられるが、名付け親(godfather)であるディヴィッド・ウィルキー(David Wilkie)からもらったミドルネームを用いて、ウィルキー・コリンズと呼ばれるようになった。
彼の出生後、彼の両親がロンドン市内で何度も引っ越しをしたため、1828年に生まれた4歳下の弟チャールズ・オールストン・コリンズ(Charles Allston Collins)と一緒に、彼らの母親から自宅で初期教育を受けた。また、彼の両親は宗教的に厳格だったため、自分達の子供達に教会への参列を強制したが、彼自身は嫌だったようである。
1836年から1838年に架けて、彼は、家族とともに、イタリア、そして、フランスに移住し、そこでイタリア語とフランス語を学ぶ。
欧州から英国に戻ったウィルキー・コリンズは、私立学校に入学するが、そこでいじめに遭う。就寝前に、いじめっ子から必ず一つ物語を話すように強制された彼は、次第に物語を創作することに喜びを見出していく。
1840年、17歳の時、彼は父親の友人が営む紅茶商へ見習いとして入る。彼は見習いの仕事を嫌っていたが、最終的に、そこで5年間働き通した。
父親は彼を牧師にしようとしたが、父親の宗教的な几帳面さや保守的な考えに反発する彼が全く興味を示さないため、諦める。そして、1846年、安定的な収入を願った父親のために、彼はリンカーン法曹院(Lincoln’s Inn → 2017年3月19日付ブログで紹介済)に入り、法学を学び始めた。
リンカーン法曹院の グレートホール/ニューホールと入口の門 |
しかしながら、彼は紅茶商の見習いとして働いているときも、また、リンカーン法曹院で法学を学んでいる時も、残りの大部分の時間を小説の執筆に費やしていたのである。
1847年に父親が死去すると、ウィルキー・コリンズは「父ウィリアム・コリンズの回想録(Memoirs of the Life of William Collins, Esq., R.A.)」を出版する。これが、彼の処女作に該る。
途中、画家を目指したこともあったが、1850年に彼は処女小説「アントニナ(Antonina)」を発表して、本格的に作家としての道を歩み始める。
その後、彼は法学を修めたものの、実際に法律家として活動したことはないが、後に発表する小説の中で、彼はその時に学んだ法律の知識を活かすことになる。
1851年3月、ウィルキー・コリンズは、共通の友人(画家)の紹介で、彼と同じくヴィクトリア朝時代を代表する英国の小説家であるチャールズ・ディケンズと知り合う。
彼は、チャールズ・ディケンズが出版する雑誌「暮らしの言葉(Household Works)」に定期的に寄稿したり、また、チャールズ・ディケンズや共通の友人達と一緒に、フランス、スイスやイタリアを旅行したりして、親交を深め、二人は生涯にわたる親友かつ協力者となった。
ちょうど、この頃、痛風(関節炎)の最初の発作がウィルキー・コリンズを襲い、鎮痛剤として服用した阿片チンキに次第に耽溺するようになり、この悪癖が彼の晩年を苦しめることになる。
1860年代に入ると、ウィルキー・コリンズは、最盛期を迎える。彼の代表作と言われる以下の4作品は、この年代に集中している。
(1)「白衣の女(The Woman in White)」(1860年) → 1859年11月から1860年8月まで雑誌に連載され、連載後直ぐに出版されて、1860年11月までに第8版まで重ね、大ヒットとなった。
(2)「ノーネーム(No Name)」(1862年) → 1862年から1863年にかけて、雑誌に連載。
(3)「アーマデイル(Armadale)」(1866年) → 1864年から1866年にかけて、雑誌に連載。
(4)「月長石(The Monnstone)」(1868年) → 1868年1月から同年8月にかけて、雑誌に連載。英国の詩人 / 劇作家 / 文芸評論家であるトマス・スターンズ・エリオット(Thomas Stearns Eliot:1888年-1965年)は、この作品を「最初の最大にして最良の推理小説」と絶賛している。
ただし、その名声の裏で、彼の阿片チンキへの傾斜は、遥かに悪化の状況を辿っていたのである。
ウィルキー・コリンズは、結婚という形態に批判的であり、生涯結婚はしなかったが、1850年代に出会ったキャロライン・グレーヴス(Caroline Graves)という未亡人の女性と、(彼が全く結婚に同意しないため、彼女が別の男性と結婚していた2年間(1868年ー1870年)を除いて、)彼が1889年に亡くなるまで同居して、彼女の連れ子(ハリエット(Harriet))を自分の娘として育てた。ウィルキー・コリンズがキャロライン・グレーヴス達と一緒に同居していた家が、グロースタープレイス65番地(65 Gloucester Place)にある。
推理小説「月長石」の作者であるウィリアム・ウィルキーコリンズが 住んでいたグロースタープレイス65番地の全景写真 |
その一方で、彼は、1868年に知り合った19歳年下の女性マーサ・ルッド(Martha Rudd)との間に、3人の私生児(娘2人+息子1人)を設け、自分の家の近くに住まわせ、援助を行った。
こういった二重生活を亡くなるまでの20年間近く続けたため、晩年、彼は当時の社交界から追放されるという憂き目に会った。
そして、1889年9月23日、ウィルキー・コリンズは65歳でなくなり、ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetary)に葬られた。キャロライン・グレーヴスは、1895年に亡くなり、彼と一緒の墓に入った。また、マーサ・ルッドは、1919年に亡くなっている。
0 件のコメント:
コメントを投稿