英国の Laurence King Publishing Group Ltd. より、2021年に発売されたジグソーパズル「チャールズ・ディケンズの世界(The World of Charles Dickens)」のイラスト内には、ヴィクトリア朝を代表する英国の小説家であるチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens:1812年ー1870年)や彼が生きた時代の人物、そして、彼の作品に登場するキャラクター等が散りばめられているので、次回以降、順番に紹介していきたい。
今回紹介するのは、チャールズ・ディケンズの少年時代から青年時代にかけてである。
チャールズ・ディケンズの父で、海軍の会計史(clerk in the Navy Pay Office)であるジョン・ディケンズ(John Dickens:1785年ー1851年)は、多額の借金の不払いのため、1824年にロンドンのサザーク(Southwark)にあるマーシャルシー債務者監獄(Marshalsea Debtors’ Prison)へと収監されてしまったが、数ヶ月後には、出獄が認められた。これは、ジョン・ディケンズの母(=チャールズ・ディケンズの祖母)の遺産によるものと言われている。
その際、チャールズ・ディケンズの母エリザベス・ディケンズ(Elizabeth Dickens:1789年ー1863年)は、チャールズ・ディケンズをウォーレン靴墨工場(Warren’s Blacking Factory)における過酷な労働から戻すことを直ぐには行わなかった。
その結果、チャールズ・ディケンズは、家庭内における自分の父母の役割に対して、非情な疑問を呈することになり、更に、女性に対する不信感を募らせることになった。
その後、ウォーレン靴墨工場から戻されたチャールズ・ディケンズは、カムデンタウン(Camden Town)にあるウェリントンハウスアカデミー(Wellington House Academy)へ通えることになり、1827年3月までの約2年間、通った。
ナショナルポートレートギャラリーで販売されている チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズの肖像画の葉書 (by Daniel Maclise / 1839年 / Oil on canvas 914 mm x 714 mm) |
1827年5月から1828年11月にかけて、チャールズ・ディケンズは、グレイズイン(Gray’s Inn)にあるエリス・アンド・ブラックモア法律事務所(Ellis and Blackmore, attorneys)に事務員として勤めたが、彼の興味は演劇へと向かい、本人曰く、毎日、劇場へ通った、とのこと。
その後、チャールズ・ディケンズは、ジャーナリストになることを決意し、速記術を習得すると、法律事務所を辞めて、親戚の伝を辿り、法廷の速記記者として、約4年間、働いた。
'A Wonderful Ghost Story, Being Mr. H.'s Own Narrative' (1882) by Thomas Heaphy - 大英図書館(British Library → 2014年5月31日付ブログで紹介済)で 筆者が購入した絵葉書から抜粋。 |
チャールズ・ディケンズは、20歳前後(1832年頃)、諸雑誌から仕事の声がかかるようになったが、一方で、彼の演劇に対する興味は強く、俳優にもなろうとしたようである。
チャールズ・ディケンズが「ボズ(Boz - 弟のオーガスタスに付けられた渾名に由来)」と言う筆名で書き始めた随筆の投稿が、1833年に「マンスリーマガジン(Monthly Magazine)」に掲載される。
チャールズ・ディケンズのエッセイは、後にまとめられて、1836年に彼の第1作「ボズのスケッチ集(Sketches by Boz)」として発表され、優れた批評眼が世間の注目を浴びたのである。
1834年に、チャールズ・ディケンズは、「モーニングクロニクル(Morning Chronicle)」紙の報道記者となり、ジャーナリストとして、本格的に活動していく。
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