2016年10月9日日曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手3「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair at Styles)」

エルキュール・ポワロ(右側)とアーサー・ヘイスティングス大尉(左側)が
エミリー・イングルソープの命を奪った毒薬の壜が置かれたテーブルを挟んで
座っているシーンが描かれている―
画面中央が髑髏の形になっている

(3)「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair at Styles)」(1920年)

本作品は、アガサ・クリスティーの商業デビュー作であり、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編第1作目、かつ、ポワロの初登場作品に該る。

なお、本作品は、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中の1916年に執筆され、米国の Jane Lane 社から、1920年(10月)に発表されている。英国本国の場合、Jane Lane 社の英国会社である The Bodley Head 社から、1921年(1月)に出版された。


第一次世界大戦(1914年ー1918年)中に負傷したアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings - 30歳)は、英国に帰還する。旧友であるジョン・キャヴェンディッシュ(John Cavendish - 45歳)の招きで、エセックス州(Essex)にあるスタイルズ荘(Styles Court)を訪れたヘイスティングス大尉であったが、到着早々、事件に巻き込まれるのであった。


ジョン・キャヴェンディッシュの義母で、スタイルズ荘の持ち主である老婦人エミリー・イングルソープ(Emily Inglethrop - 70歳を超えている)は、20歳も年下のアルフレッド・イングルソープ(Alfred Inglethrop)と再婚して、屋敷で暮らしていた。屋敷内には、他には、


(1)ジョン・キャヴェンディッシュ → エミリーの義理の息子(兄)

(2)メアリー・キャヴェンディッシュ(Mary Cavendish)→ ジョン・キャヴェンディッシュの妻

(3)ローレンス・キャヴェンディッシュ(Lawrence Cavendish - 40歳)→ エミリー・イングルソープの義理の息子(弟)

(4)シンシア・マードック(Cynthia Murdoch)→ エミリー・イングルソープの友人の孤児で、現在は、彼女の養子

(5)エヴリン・ハワード(Evelyn Howard - 40歳位)→ エミリー・イングルソープの話相手(住み込みの婦人)


が住んでいた。


7月18日(水)の朝、エミリー・イングルソープがストリキニーネで毒殺されているのが発見された。


エミリー・イングルソープの前夫の遺言書によると、スタイルズ荘については、エミリー・イングルソープの死後、ジョン・キャヴェンディッシュが相続することになっていた。

一方、エミリー・イングルソープが保有する現金資産に関しては、彼女が毎年更新する遺言書の内容に従って分配されることになっており、彼女が作成した最新の遺言書によると、現在の夫であるアルフレッド・イングルソープが相続する内容だった。

前日の7月17日(火)、エミリー・イングルソープが、夫のアルフレッド・イングルソープか、義理の息子のジョン・キャヴェンディッシュとの間で、言い争いをしていたようだった。その後、彼女は遺言書を書き替えたが、その新しい遺言書は、どこにも見当らなかった。


エミリー・イングルソープの死により、最も大きな利益を得ることになる夫のアルフレッド・イングルソープが、まず容疑者として疑われる。

ただ、彼女が毒殺された日の夜、彼はスタイルズ荘を不在にしていたが、何故か、居所を明らかにしようとしない上に、村の薬局において、ストリキニーネを購入したしたのは、自分ではないと強く否定する。

エミリー・イングルソープの話相手であるエヴリン・ハワードは、アルフレッド・イングルソープの従妹であるにもかかわらず、以前から彼のことを憎んでいるようで、エミリー・イングルソープを毒殺した人物は、彼で間違いないと言う主張を崩さなかった。


スタイルズ荘の近くのスタイルズセントメアリー村(Styles St. Mary)にベルギーから戦火を避けて亡命していた旧友ポワロと再会したヘイスティングス大尉は、ポワロに対して、この難事件の捜査を依頼する。


スコットランドヤードのジェイムズ・ジャップ警部(Inspector James Japp)が、エミリー・イングルソープの毒殺犯人として、アルフレッド・イングルソープを逮捕しようとするが、ポワロは、ストリキニーネ購入時における薬局の記録上の署名が彼の筆跡ではないことを証明して、アルフレッド・イングルソープの逮捕を思いとどまらせた。


そのため、スコットランドヤードのジェイムズ・ジャップ警部が、アルフレッド・イングルソープの次に疑ったのは、エミリー・イングルソープの死により利益を得る上に、事件当夜のアリバイがないジョン・キャヴェンディッシュであった。

ストリキニーネ購入時における薬局の記録上の署名が彼の筆跡に酷似していること、また、アルフレッド・イングルソープとよく似た付け髭と鼻眼鏡が発見されたことが決め手となり、ジョン・キャヴェンディッシュは逮捕されてしまう。


果たして、スコットランドヤードのジェイムズ・ジャップ警部による捜査通り、ジョン・キャヴェンディッシュが、義理の母であるエミリー・イングルソープを、ストリキニーネで毒殺したのであろうか?

ポワロの灰色の脳細胞は、どのような結論を導き出すのか?


アガサ・クリスティーの没後40周年を記念して発行された切手には、旧友ジョン・キャヴェンディッシュの義母エミリー・イングルソープの命を奪った毒薬の壜を挟んで、ヘイスティングス大尉がポワロと事件の真相を解明しようとしているシーンが描かれている。
切手中央は、髑髏(どくろ)の形になっていて、ヘイスティングス大尉(左側)とポワロ(右側)の頭部が髑髏の両目に、テーブルの上に置かれたランプが髑髏の鼻に、そして、テーブルに敷かれたテーブルクロスが髑髏の歯を表している。

1914年に結婚した最初の夫アーチボルド・クリスティー大尉(Captain Archibald Christie:1889年ー1962年)が、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中、フランスへ出征している間、アガサ・クリスティーは薬剤師の助手として奉仕活動に従事していた。その際に、彼女は毒薬の知識を得ており、本作品において、その経験が存分に生かされている。

2016年10月8日土曜日

スタニスラス=アンドレ・ステーマン作「六死人」('Six hommes morts' per Stanislas-Andre Steeman)

東京創元社の創元推理文庫から出版されている
スタニスラス=アンドレ・ステーマン作「六死人」―
カバー画は、安田忠幸氏によるもの

5年前、大成功をおさめて、大金持ちになる夢を胸に抱き、六人の青年達が世界中へ冒険の旅に出発した。彼らは、

(1)ジョルジュ・サンテール(Georges Senterre)
(2)ジャン・ペルロンジュール(Jean Perlonjour)
(3)アンリ・ナモット(Henri Namotte)
(4)ネストル・グリッブ(Nestor Gribbe)
(5)ユベール・ティニョル(Hubert Tignol)
(6)マルセル・ジェルニコ(Marcel Gernicot)

の6人だった。彼らは5年後の再会を約束し、稼いだお金を皆で山分けにすること、つまり、仮に誰か成功しなかった者が居たとしても、6人が5年間で稼いだお金を平等に分配する取り決めを結んだ。そして、5年が経ち、再会のため、彼ら6人は帰国の途に着いていた。或る者は予定通り大金持ちになり、また、或る者は尾羽打ち枯らして、故郷へ向かっていたのである。

故郷には、ジョルジュ・サンテールとジャン・ペルロンジュールが既に戻って来ていた。幸いにして、ジョルジュ・サンテールは大成功をおさめたが、残念ながら、ジャン・ペルロンジュールは、良い時もあったものの、居間はすっからかんの状態だった。

午後8時になると、ジョルジュ・サンテールは、ジャン・ペルロンジュールをレストラン「ボレアル」での夕食に誘い、ジョルジュのアパルトマンを出る。レストランでの食事を終えて、街を散歩する二人。レストランで新聞売りから買った新聞をポケットから抜き出して、両手で扇いでいたジャン・ペルロンジュールは、急にある記事に目をとめて、悲痛な驚きの声をあげる。新聞記事によると、今日マルセイユに入港したアキテーヌ号の航海中に事故が発生した、とのこと。北京から帰国途中にあった船客のアンリ・ナモットが上甲板から海へ転落したため、直ちに救命ボートが海に下ろされ、入念な捜索が懸命に行われたが、船から落ちた船客を発見することはできなかったのである。また、彼が海へ転落した原因は未だに不明であった。新聞記事を読んで茫然自失となる二人。

その夜、ジョルジュ・サンテールはあまりよく眠れなかった。午前3時過ぎ、彼がベッドで寝返りを打っていた時、玄関の呼び鈴が鳴り、アパルトマンの静寂を破る。彼がベッドを離れ、玄関へ向かうと、配達夫が電報を届けに来ていた。ジョルジュ・サンテールがその電報を開封すると、それは友人の一人マルセル・ジェルニコからだった。「アンリ・ナモットと一緒にアキテーヌ号に乗っていた。できれば明日帰る。」という内容であった。

翌日の夜、マルセル・ジェルニコの恋人であるアスンシオンがジョルジュ・サンテールのアパルトマンを訪ねて来る。しばらくして姿をみせたマルセル・ジェルニコによると、アンリ・ナモットと彼の二人は、サングラスをかけ、赤髭を生やした男に北京から付け狙われており、その男がアンリ・ナモットをアキテーヌ号の上甲板から海へ突き落とした、とのこと。更に、その男は故郷の街まで尾行して来たと言うのだ。彼らが話を続けていると、通りを挟んで、アパルトマンの向かい側にあるホテルのある窓に、長身で肩幅の広い男の影が浮かび上がり、突然拳銃の発射音が響き渡った。撃たれたマルセル。ジェルニコをアスンシオンが手当てする間、ジョルジュ・サンテールが近所に住む医者を呼んで急いで戻って来ると、部屋にはアスンシオンが仰向けに倒れていて、マルセル・ジェルニコの姿はどこにもなかったのである。

そして、アンリ・ナモットが船の上甲板から海へ転落した(突き落とされた?)事件に端を発して、5年前に世界中へ旅立った六人の青年達が一人、また一人と何者かに次々に殺されていく。

本作品「六死人(Six hommes morts)」は、ベルギーの小説家であるスタニスラス=アンドレ・ステーマン(Stanislas-Andre Steeman:1908年ー1970年)によって、1931年に発表された。
フランドル人とスラブ人の血を半々に受け継いだ彼は、1908年にベルギーのリエージュに出生した。
1924年に彼はブリュッセルの「ラ・ナシオン・ベルジュ(La Nation belge)」誌に記者として入社して、同僚のジャーナリストであるサンテール(Sintair)と共作で探偵小説を執筆する。1929年からは単独で執筆を始め、1931年に「六死人」でフランス冒険小説大賞を受賞して、一躍名声を手に入れる。冒険小説大賞とは、フランスの歴史あるミステリー賞で、パリのシャンゼリゼ書店が主催していたものである。

「六死人」は、アガサ・クリスティー作「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」(1939年)よりも8年前に刊行され、所謂、孤島ものというか、クローズドサークルものというか、ある一定の人数に限定された人達が一人ずつ殺されていくタイプの本格ミステリーの先駆者的な役割を果たしており、後世の批評家達も一致して指摘している。本作品は、無駄な描写を極力省いて、謎解き一本に絞った構成で、また、物語の最後には(当時としては)見事などんでん返しがあり、かなりの迫力を感じさせる。

2016年10月2日日曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手2「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」

デヴォン州の沖合いに浮かぶ兵隊島―
兵隊島は人間(男性?)の顔の形になっていて、明かりが灯る屋敷の窓が目に該っている

(2)「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」(1939年)

本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては第26作目に該る。アガサ・クリスティーの作品の中でも、代表作に挙げられているのが、本作品である。

1930年代後半の8月のこと、英国デヴォン州(Devon)の沖合いに浮かぶ兵隊島(Soldier Island)に、年齢も職業も異なる8人の男女が招かれる。彼らを島で迎えた執事と料理人の夫婦は、エリック・ノーマン・オーウェン氏(Mr. Ulick Norman Owen)とユナ・ナンシー・オーウェン夫人(Mrs. Una Nancy Owen)に自分達は雇われていると招待客に告げる。しかし、彼らの招待主で、この島の所有者であるオーウェン夫妻は、いつまで待っても、姿を現さないままだった。

招待客が自分達の招待主や招待状の話をし始めると、皆の説明が全く噛み合なかった。その結果、招待状が虚偽のものであることが、彼らには判ってきた。招待客の不安がつのる中、晩餐会が始まるが、その最中、招待客8人と執事 / 料理人夫婦が過去に犯した罪を告発する謎の声が室内に響き渡る。謎の声による告発を聞いた以下の10人は戦慄する。

(1)ヴェラ・エリザベス・クレイソーン(Vera Elizabeth Claythorne)
体育教師の若い女性で、家庭教師をしていた子供に無理な距離を泳がせることを許可し、その結果、その子供を溺死させたと告発された。
(2)フィリップ・ロンバード(Philip Lombard)
元陸軍中尉で、東アフリカにおいて先住民族から食料を奪った後、彼ら21人を見捨てて死なせたと告発された。
(3)エドワード・ジョージ・アームストロング(Edward George Armstrong)
医師で、酔って酩酊したまま手術を行い、患者を死なせたと告発された。
(4)ウィリアム・ヘンリー・ブロア(William Henry Blore)
元警部で、偽証により無実の人間に銀行強盗の罪を負わせて、死に追いやったと告発された。
(5)ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ(Lawrence John Wargrave)
高名な元判事で、陪審員を誘導して、無実の被告を有罪として、死刑に処したと告発された。
(6)エミリー・キャロライン・ブレント(Emily Caroline Brent)
信仰心の厚い老婦人で、使用人の娘に厳しく接して、その結果、彼女を自殺させたと告発された。
(7)ジョン・ゴードン・マッカーサー(John Gordon MacArthur)
退役した老将軍で、妻の愛人だった部下を故意に死地へ追いやったと告発された。
(8)アンソニー・ジェイムズ・マーストン(Anthony James Marston)
遊び好きの上、生意気な青年で、自動車事故により二人の子供を死なせたと告発された。
(9)トマス・ロジャーズ(Thomas Rogers)
(10)エセル・ロジャーズ(Ethel Rogers)
仕えていた老女が発作を起こした際、彼らは必要な薬を投与しないで、老女を死なせたと告発された。

彼らを告発する謎の声は蓄音機からのもので、トマス・ロジャーズによると、オーウェン夫妻から、最初の日、晩餐会の際に録音したメッセージを流すよう、手紙で指示を受けていたと言う。謎の声による告発を聞いて彼の妻エセル・ロジャーズが気を失ってしまうという混乱の直後、毒物が入った飲み物を飲んだアンソニー・ジェイムズ・マーストンが急死するのであった。

その翌朝、エセル・ロジャーズがいつまで経っても起きて来ず、死亡しているのが発見される。残された8人は、アンソニー・ジェイムズ・マーストンとエセル・ロジャーズの死に方が屋敷内に飾ってある童謡「10人の子供の兵隊」の内容に酷似していること、また、食堂のテーブルの上に置いてあった兵隊人形が10個から8個へと減っていることに気付く。それに加えて、迎えの船が兵隊島へやって来ないことが判り、残された8人は兵隊島に閉じ込められた状態になってしまう。

童謡「10人の子供の兵隊」の調べにのって、一人また一人と、残された8人が正体不明の何者かに殺害されていく。それに伴って、食堂のテーブルの上にある兵隊人形の数も減っていくのである。彼らを兵隊島へ招待したオーウェン夫妻とは一体何者なのか?オーウェン夫妻の名前を略すと、どちらも「U. N. Owen」、つまり、「UNKOWN(招正体不明の者)」となる。オーウェン夫妻が正体不明の殺人犯で、残された人の中に居るのか?それとも、屋敷内のどこか、あるいは、兵隊島のどこかに隠れ潜んでいるのだろうか?恐怖が満ちる中、また一人、残された人と兵隊人形が減っていくのであった。

アガサ・クリスティーの没後40周年を記念して発行された切手には、沖合いに浮かぶ兵隊島を陸地から見たシーンが描かれている。
夜間のシーンで、兵隊島内に建つ屋敷の窓には、明かりが灯っている。よく見ると、兵隊島が人間(男性?)の顔の形になっている上に、明かりが灯る邸宅の窓が目に該っている。
兵隊島の前の海に浮かぶ黄色い物には、オーウェン夫妻の名前を略した「U. N. Owen」が逆さまに表示されている。
更に、画面の左下には、童謡「10人の子供の兵隊」の内容が、これも同様に逆さまに記載されている。この童謡は、マザーグースの一つとして分類されるが、大元の「Ten Little Nigger Boys」は、英国の作詞家フランク・グリーン(Frank Green)が1869年に翻案した作品のため、「Frank Green 1869」と表示されている。

アガサ・クリスティーが1939年に「そして誰もいなくなった」を発表した時点での英語の原題は「Ten Little Niggers(10人の小さな黒んぼ)」で、作品中、これは非常に重要なファクターを占める童謡を暗示している。
ただし、「Nigger」という単語がアフリカ系アメリカ人に対する差別用語だったため、米国版のタイトルは「Ten Little Indians(10人の子供のインディアン)」に改題された。それに伴い、
*島の名前: 黒人島(Nigger Island)→ インディアン島(Indian Island)
*童謡名: 10人の小さな黒んぼ(Ten Little Niggers)→ 10人の子供のインディアン(Ten Little Indians)
*人形名: 黒人人形 → インディアン人形
へと変更された。
近年、「インディアン」も差別用語と考えられているため、英米で発行されている「そして誰もいなくなった」のタイトルには、「And Then There Were None」が使用されている。「And Then There Were None」は、童謡の歌詞の最後の一文から採られている。その結果、
*島の名前: インディアン島 → 兵隊島(Soldier Island)
*童謡名: 10人の子供のインディアン → 10人の子供の兵隊(Ten Little Soldiers)
*人形名: インディアン人形 → 兵隊人形
へという変遷を辿っているのである。

2016年10月1日土曜日

ロンドン ベイカーストリート(Baker Street)

ベイカーストリート沿いに設置されていた
シャーロック・ホームズの垂れ幕

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)の冒頭、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)にあるクライテリオンバー(Criterion Bar → 2014年6月8日付ブログで紹介済)において、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)時代に自分の助手をしていたスタンフォード青年(Stamford)と出会ったジョン・H・ワトスン(医学博士)は、同居人を捜しているというシャーロック・ホームズなる人物を紹介してもらう。スタンフォード青年と一緒に、セントバーソロミュー病院でホームズと会ったワトスンは、翌日の正午、その下宿屋の下見に行くことになった。


ホームズの提案通り、翌日、私達は待ち合わせをして、昨日会った時に彼が言っていたベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)の下宿を下見した。その下宿は、居心地の良い寝室が二つと居間が一つという構成だった。特に、居間は快適な内装で、大きな窓が二つあって明るく、その上、風通しの良い広い部屋だった。この下宿は、あらゆる点で申し分がなく、家賃についても、二人で払う分には手頃だったので、その場で交渉が成約し、私達は直ぐに引っ越すことにした。その日の夕方、私はホテルから荷物を運び込み、その翌朝、私に続いて、ホームズが箱や旅行鞄を何個か伴ってやって来た。一日二日、私達は荷解きを行い、私達の持ち物を一番使い易い場所に配置するのに忙しかった。それが終わると、私達は徐々に落ち着いて、この新しい環境に慣れるようになったのである。


We met next day as he had arranged, and inspected the room at No. 221B, Baker Street, of which he had spoken at our meeting. They consisted of a couple of comfortable bed-rooms and a single large airy sitting-room, cheerfully furnished, and illuminated by two broad windows. So desirable in every way were the apartments, and so moderate did the terms seem when divided between us, that the bargain was concluded upon the spot, and we at once entered into possession. That very evening I moved my things round from the hotel, and on the following morning Sherlock Holmes followed me with several boxes and portmanteaus. For a day or two we were busily employed in unpacking and laying out our property to the best advantage. That done, we gradually began to settle down and to accommodate ourselves to our new surroundings.


ホームズとワトスンが共同生活を送ることになった部屋221B を含む下宿屋(ハドスン夫人が営む)は、言わずと知れたベイカーストリート(Baker Street)に面している。

ベイカーストリートの中間辺りから
北側(地下鉄ベイカーストリート駅方面)を見たところ

ベイカーストリートの中間辺りから
南側(オックスフォードストリート方面)を見たところ

ベイカーストリートは、現在、リージェンツパーク(Regents' Park)の南側にあるパークロード(Park Road)との交差点を北端として始まり、地下鉄ベイカーストリート駅(Baker Street Tube Station)の前を東西に延びるマリルボーンロード(Marylebone Street)やポートマンスクエア(Portman Square)等を過ぎ、ウィグモアストリート(Wigmore Street)と交差したところから、オーチャードストリート(Orchard Street)という名前に変わる。そして、地下鉄オックスフォードサーカス駅(Oxford Circus Tube Station)から地下鉄ボンドストリート駅(Bond Street Tube Station)経由、地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)へ向かって西に延びるオックスフォードストリート(Oxford Street)に突き当たって、オーチャードストリートは終わるが、ベイカーストリートを含む直線距離は約2.5kmに及ぶ。


オーチャードストリートとオックスフォードストリートが交差する北東の角には、高級デパートの一つとして知られる「セルフリッジズ(Selfridges)」の旗艦店が入居するビルが建っている。この「セルフリッジズ」の旗艦店は、「ハロッズ(Harrods)」に次いで、英国では2番目に大きな店舗である。


18世紀に通りを敷設した英国の建築家であるウィリアム・ベイカー(William Baker)に因んで、この通りは「ベイカーストリート」と呼ばれるようになった。
通りが敷設された当初は、高級住宅街であったが、現在は主に商業用店舗が数多く建ち並んでいる。

ベイカーストリートを敷設した
英国の建築家ウィリアム・ベイカー

ホームズとワトスンが活躍したヴィクトリア朝時代、実際にベイカーストリートと呼ばれていたのは、南端のウィグモアストリートから北端は地下鉄ベイカーストリート駅の前を通るマリルボーンロードまでで、マリルボーンロードから更に北上したパークロードとの交差点までの通りは、当時、アッパーベイカーストリート(Upper Baker Street)という別の名前が付けられていた。
現在の住所表記上、ベイカーストリート221番地は、以前、アッパーベイカーストリートと呼ばれていた通り沿いに位置しているため、コナン・ドイルがホームズシリーズを執筆した当時には、ベイカーストリート221番地は実在しておらず、架空の住所だったことになる。この辺りの経緯については、2014年6月29日付ブログを御参照いただきたい。

現在、ベイカーストリート沿いには
商業用店舗が数多く軒を並べている

コナン・ドイルの友人であったモリス博士は、「『緋色の研究』に登場する主人公のホームズの住居をどこにしたらよいか?」とコナン・ドイルから相談があった、と語っている。そこで、モリス博士はコナン・ドイルに対して、自分の父親が以前住んでいた事がある「ベイカーストリート21番地」を薦め、コナン・ドイルは実際に同地を訪ねたそうである。そして、ベイカーストリートが気に入ったコナン・ドイルは、ホームズの住居として採用する際、実際に「ベイカーストリート21番地」に住んでいる居住者に迷惑がかかるのを避けるために、番地を「ベイカーストリート21番地」から当時は実在していなかった架空の住所である「ベイカーストリート221番地B」へと、意図的に変更したのではないか、と言われている。

2016年9月25日日曜日

アガサ・クリスティー没後40周年記念切手1「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express)」


今年は、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Dame Agatha Mary Clarissa Christie:1890年9月15日ー1976年1月12日)の没後40周年に該るため、彼女の誕生日である9月15日に合わせて、記念切手が発行されたので、今週から6週にわたって、記念切手6種類を紹介したいと思う。

(1)「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express)」(1934年)

本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては第14作目、また、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては第8作目に該る。

中東のシリア(Syria)での仕事を終えて、イスタンブール(Istanbul)のホテル(The Tokatlian Hotel)に到着したエルキュール・ポワロは、そこで「直ぐにロンドンへ戻られたし。」という電報を受け取る。早速、ポワロはホテルにイスタンブール発カレー(Calais)行きのオリエント急行(Orient Express)の手配を依頼するが、通常、冬場(12月)は比較的空いている筈にもかかわらず、季節外れの満席だった。

とりあえず、駅へ向かったポワロであったが、ベルギー時代からの友人で、ホテルで再会した国際寝台車会社(Compagnie Internationale des Wagons Lits)の重役ブック氏(Mr. Bouc)が、ポワロのために、二等寝台席を確保してくれる。なお、ブック氏は、仕事の関係で、スイスのローザンヌ(Lausanne)へと向かう予定だった。

なんとかヨーロッパへの帰途についたポワロは、米国人のヘクター・ウィラード・マックイーン(Hector Willard MacQueen)と同室になる。


季節外れにもかかわらず、オリエント急行には、様々な国と職業の人達が乗り合わせていた。

その中の一人で、イスタンブールのホテルで既に見かけていた米国人の実業家であるサミュエル・エドワード・ラチェット(Samuel Edward Ratchett)が、ポワロに対して、話しかけてくる。彼は、最近脅迫状を数回受け取っていたため、身の危険を感じており、ポワロに自分の護衛を依頼してきたのであった。彼の狡猾な態度を不快に思ったポワロは、彼の依頼を即座に断る。


翌日の夜、ベオグラード(Belgrade - 現在のセルビア共和国の首都)において、アテネ(Athens)発パリ(Paris)行きの車輌が接続され、ブック氏はその車輛へと移り、自分の一等寝台席(1号室)をポワロに譲ったため、ポワロはカレーまでゆっくりと一人で過ごせる筈だった。ところが、ポワロの希望とは裏腹に、列車は、ヴィンコヴツィ(Vinkovciー現在のクロアチア(Croatia)共和国領内)近くで積雪による吹き溜まりに突っ込んで、立ち往生しつつあった。


その夜、隣室(2号室)のラチェットの部屋での出来事や廊下での騒ぎ等により、ポワロは、何度も安眠を邪魔された。そして、翌朝、車掌が、ポワロの隣室において、ラチェットが死んでいるのを発見する。彼は、刃物で全身を12箇所もメッタ刺しの上、殺害されていたのである。

ブック氏は、会社の代表者として、ポワロに対し、事件の解明を要請し、それを受諾したポワロは、別の車輛に乗っていたギリシア人の医師コンスタンティン博士(Dr. Constantine)と一緒に、ラチェットの検死を行う。ラチェットが殺害された現場には、燃やされた手紙が残っていて、ポワロは、その手紙からデイジー・アームストロング(Daisy Armstrong)という言葉を解読した。サミュエル・エドワード・ラチェットという名前は偽名であり、彼は、5年前に、米国において、幼いデイジー・アームストロングを誘拐して殺害した犯人カセッティ(Cassetti)で、身代金を持って海外へ逃亡していたのである。


ラチェットの正体を知ったポワロは、ブック氏/コンスタンティン博士と一緒に、列車の乗客の事情聴取を開始する。積雪のため、立ち往生した列車の周囲には足跡がなく、外部の人間が犯人とは思えなかった。列車には、


*1号室(一等寝台席):エルキュール・ポワロ

*2号室(一等寝台席):サミュエル・エドワード・ラチェット

*3号室(一等寝台席):キャロライン・マーサ・ハバード夫人(Mrs. Caroline Martha Hubbard)- 陽気でおしゃべりな中年女性(米国人)

*4号室(二等寝台席):エドワード・ヘンリー・マスターマン(Edward Henry Masterman)- ラチェットの執事(英国人)

*5号室(二等寝台席):アントニオ・フォスカレリ(Antonio Foscarelli)- 自動車のセールスマン(米国に帰化したイタリア人)

*6号室(二等寝台席):ヘクター・ウィラード・マックイーン - ラチェットの秘書(米国人)

*7号室(二等寝台席):空室(当初、ポワロが使用していた)

*8号室(二等寝台席):ヒルデガード・シュミット(Hildegarde Schmidt)- ドラゴミロフ公爵夫人に仕える女中(ドイツ人)

*9号室(二等寝台席):空室

*10号室(二等寝台席):グレタ・オルソン(Greta Ohisson)- 信仰心の強い中年女性(スウェーデン人)

*11号室(二等寝台席):メアリー・ハーマイオニー・デベナム(Mary Hermione Debenham)- 家庭教師(英国人)

*12号室(一等寝台席):エレナ・マリア・アンドレニ伯爵夫人(Countess Elena Maria Andrenyi / 旧姓:エレナ・マリア・ゴールデンベルク(Elena Maria Goldenberg))- ルドルフ・アンドレニ伯爵の妻(ハンガリー人)

*13号室(一等寝台席):ルドルフ・アンドレニ伯爵(Count Rudolf Andrenyi)- 外交官(ハンガリー人)

*14号室(一等寝台席):ナタリア・ドラゴミロフ公爵夫人(Princess Natalia Dragomiroff)- 亡命貴族の老婦人(フランスに帰化したロシア人)

*15号室(一等寝台席):アーバスノット大佐(Colonel Arbuthnot)- 軍人(英国人)

*16号室(一等寝台席):サイラス・ベスマン・ハードマン(Cyrus Bethman Hardman)- セールスマンと言っているが、実はラチェットの身辺を護衛する私立探偵(米国人)


ポワロと被害者のラチェット以外に、12名の乗客とオリエント急行の車掌で、フランス人のピエール・ポール・ミシェル(Pierre Paul Michel)が乗っていた。

果たして、ラチェットを惨殺した犯人は、誰なのか?ところが、何故か、乗客達のアリバイは、互いに補完されていて、容疑者と思われる者は、誰も居なかった。

捜査に難航するポワロであったが、最後には驚くべき真相を明らかにするのであった。


本作品において、犯行動機の重要なファクターとなるデイジー・アームストロング誘拐殺人事件については、初の大西洋単独無着陸飛行(1927年5月20日ー同年5月21日)を成功したことで有名な米国人飛行家チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh:1902年ー1974年)の長男チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ・ジュニア(当時1歳8ヶ月)が、1932年3月1日にニュージャージー州(New Jersey)の自宅から誘拐され、約2ヶ月後に邸宅付近で死亡しているのが発見されるという実際の事件があり、アガサ・クリスティーは、この事件から着想を得たものとされている。


今回、アガサ・クリスティーの没後40周年の記念切手として採用されたのは、ラチェットが殺害された深夜、オリエント急行列車の廊下を外側から見た場面である。画面左手には、車掌のミシェルが立っており、画面中央には、ポワロの部屋を突然ノックして、彼の安眠を妨害し、立ち去って行く赤い着物を羽織った女性が描かれている。そして、積雪による吹き溜まりの中に立ち往生したオリエント急行の煙突から立ち上った煙は、帽子をかぶったポワロの形となって、ラチェットの殺害現場を見ているのである。更に、画面の一番下には、ラチェットを殺害したと思われる容疑者13名(12名の乗客と車掌)の名前が列挙されている。

2016年9月24日土曜日

ロンドン ホルボーン地区(Holborn)

ホルボーン通り(Holborn)沿いに建つホルボーンバーズ(Holborn Bars)―
1879年から1901年にかけて建設され、
Prudential Assurance の本社が入居していた

サー・アーサー・コナン・ドイル作「緋色の研究(A Study in Scarlet)」(1887年)は、元軍医局のジョン・H・ワトスン医学博士の回想録で、物語の幕を開ける。


1878年に、ワトスンはロンドン大学(University of London)で医学博士号を取得した後、ネトリー軍病院(Netley Hospital)で軍医になるために必要な研修を受けて、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan Wars:1878年ー1880年)に軍医補として従軍することになる。アフガニスタンの戦場マイワンド(Maiwand)において、ワトスンは銃で肩を撃たれて、重傷を負ってしまう。献身的で勇気ある看護兵マレー(Murray)に助けられ、ワトスンは英国の防衛ラインまで無事運ばれたが、ペシャワル(Peshawar)の兵舎病院での入院中、彼は更に腸チフスに罹患し、死線を彷徨う。そのため、彼は軍隊輸送船オロンテス号(Orontes)で戦地を離れ、英国へ送還されるのであった。

地下鉄チャンセリーレーン駅(Chancery Lane Tube Station)から出た辺りの
ホルボーン通り(その1)

地下鉄チャンセリーレーン駅(Chancery Lane Tube Station)から出た辺りの
ホルボーン通り(その2)

英国に戻ったワトスンは、健康を回復するための9ヶ月間の休暇が認められ、ストランド通り(Strandー2015年3月29日付ブログで紹介済)のホテルに滞在する。彼には英国内に親類縁者がなく、限られた恩給を遥かに超える浪費をしながら、無意味な生活を送っていた。財政状態が非常に逼迫してきた彼は、さすがに生活態度を変える必要性を感じていた。

ホルボーン通り沿いにあるパブ

ホルボーン通りの東側から西方面を見たところ

この結論に至った正にその日、私はクライテリオンバーに居た。その時、誰かが私の肩を叩くので、振り返ると、そこにはセントバーソロミュー病院で私の外科助手をしていた若きスタンフォードが立っていたのである。ロンドンという名の広大な荒野において懐かしい顔に出会うのは、孤独な人間にとって本当に嬉しいことだった。セントバーソロミュー病院に在籍していた頃、スタンフォード青年は私にとって親友だったという訳ではないが、その時は本当に喜んで、彼を歓迎したし、彼の方も私に会えて嬉しそうだった。スタンフォード青年に再会できて非常に嬉しかったので、私は彼をホルボーンでの昼食に誘い、辻馬車に同乗して、ホルボーンへと向かった。
「ワトスン、今まで一体どうしてたんだい?」馬車が混雑したロンドンの通りをガタガタと通り過ぎている時、彼は驚きも隠さずに尋ねた。「とても痩せこけているし、皮膚も浅黒くなっているじゃないか!」
私は彼に自分の体験談を簡単に説明したが、馬車が目的地に着いた時、話はまだ終わっていなかった。
「ひどい目に会ったな!」彼は私の不幸な体験談を全て聞き終わると、気の毒そうに言った。「今はどうしているんだい?」
「実を言うと、住む場所を探しているんだ。」と私は答えた。「そこそこの家賃で快適な部屋を見つけるという難題に取り組んでいるところさ。」
「不思議だな!」と彼は言った。「僕に部屋探しの話をしたのは、今日君で二人目だ。」

ホルボーンサーカス(Holborn Circus)の南西の角に建つビルに
セインズベリーズの本社が入居している

セインズベリーズの本社が入居しているビルのG階裏側では、
同社の小売店が営業している

On the very day that I had come to this conclusion, I was standing at the Criterion Bar when someone tapped me on the shoulder and, turning around, I recognised young Stamford, who had been a dresser under me at Barts. The sight of a friendly face in the great wilderness of London is a pleasant thing indeed to a lonely man. In old days Stamford had never been a particular crony of mine, but now I hailed him with enthusiasm, and he, in his turn, appeared to be delighted to see me. In the exuberance of my joy, I asked him to lunch with me at the Holborn, and we started off together in a hansom.
'Whatever have you been doing with yourself, Watson?' he asked in undisguised wonder, as we rattled through the crowded London streets, 'You are as thin as a lath and as brown as a nut.'
I gave him a short sketch of my adventures, and had hardly concluded it by the time that we reached our destination.
'Poor devil!' he said commiseratingly, after he had listened to my misfortunes. 'What are you up to now?'
'Looking for lodgings,' I answered. ' Trying to solve the problem as to whether it is possible to get comfortable rooms at a reasonable price.'
'That's a strange thing,' remarked my companion. 'You are the second man today that has used that expression to me.'


ホルボーンサーカス内に建つアルバート公(Albert, Prince Consort)のブロンズ像―
アルバート公は、ヴィクトリア女王(Queen Victoria:1819年―1901年
在位期間:1837年ー1901年)の夫君である

手前にはアルバート公のブロンズ像が建ち、
奥にはセインズベリーズの本社が入居するビルが聳え、
英国の新旧がうまい具合に同居している

クライテリオンバー(Criterion Barー2014年6月8日付ブログで紹介済)で再会した後、ワトスンがスタンフォード青年を昼食に誘った場所ホルボーン地区(Holborn)は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)の北側に位置するロンドン・カムデン区(London Borough of Camden)内にある。
「ホルボーン」の名前は、古製英語で(1)「窪地/盆地(hollow)」を意味する「hol」と(2)「小川(brook)」を意味する「bourne」が合わさったものに由来すると言われている。実際、ホルボーン地区辺りには、昔フリート川(River Fleet)が流れていたことに起因してる。一方で、フリート川に流れ込んでいた古い川を意味する「Old Bourne」に由来するという説もある。
ホルボーン地区は、「Holborn District」(1855年)→「Metropolitan Borough of Holborn」(1900年)→「London Borough of Camden」(1965年)という変遷を辿っている。


ホルボーンサーカスの南東の角に建つ
St. Andrew Holborn 教会

St. Andrew Holborn 教会の入口アップ

ホルボーン地区の真ん中を、ピカデリーサーカス(Piccadilly Circus)とシティー(City)を結ぶハイホルボーン通り(High Holborn)/ホルボーン通り(Holborn)が東西に貫いている。
19世紀頃には、ハイホルボーン通り/ホルボーン通りには宿屋や居酒屋(パブ)等が多く建ち並んでいたが、現在はオフィスビルやホテル等が増えてきている。スーパーマーケットのセインズベリーズ(Sainsbury's)の本社が入居しているビルも、上記の中に含まれる。近年、シティー内に流入する企業が増加しており、シティー内におけるオフィス供給に限界があるため、シティーに隣接するホルボーン地区内での不動産開発(特にオフィスビル)が進んでいる。オフィスビルやホテル等が建ち並ぶに従って、レストランや小売業のチェーン店等も通り沿いに集まってきている。


2016年9月18日日曜日

ロンドン ロシア正教会/エニスモアガーデンズ(Russian Orthodox Cathedral / Ennismore Gardens)

ロシア正教会の外観全景―現在、右側に建つ鐘楼の外観を補修中

アガサ・クリスティー作「あなたの庭はどんな庭?(How Does Your Garden Grow ?)」(1935年ー短編集「レガッタデーの事件(The Regatta Mystery)」に収録)は、エルキュール・ポワロの事務所にアメリア・バロウビー(Amelia Barrowby)という独身の老婦人から依頼の手紙が届くところから、物語の幕が上がる。
彼女から来た手紙に書かれている依頼の内容は、「自分の身を案じているので、自宅に来てほしい。」という非常に曖昧なものであった。この奇妙な依頼の手紙に興味を持ったポワロは、秘書のミス・レモン(Miss Lemon)に指示して、「いつでも相談に応じる。(I will do myself the honour to call upon you at any time you suggest.)」と返信をするが、その後、彼女からは何も音信もなかった。


暫くして、ミス・レモンが手紙の差出人であるアメリア・バロウビーが死亡したことを新聞記事で偶然見つけ、ポワロに知らせる。アメリア・バロウビーが亡くなった際、姪のデラフォンテーン夫妻(Mr. and Mrs. Delafontaine)と一緒に食事をしていたのだが、(1)アーティチョークのスープ、(2)魚のパイと(3)アップルタルト以外、何も口にしていなかった。ところが、彼女の遺体からは、ストリキニーネが発見されたのである。ストリキニーネはとても苦い味がするため、アーティチョークのスープ、魚のパイやアップルタルトに混入されていたとは思えなかった。また、彼女は珈琲も飲まず、水だけを飲んでいた。ストリキニーネが混入したと考えられるのは、彼女が飲んでいた持病用のカプセル薬だけだった。そのカプセル薬に触れたのは、ロシア人の話相手(コンパニオン)のカトリーナ・リーガー(Katrina Rieger)のみだったため、彼女へ疑いの目が向けられた。
アメリア・バロウビーの死に疑問を感じたポワロは現地へ赴き、調査を始めるのであった。

教会の入口右側にある英語の表示

教会の入口左側にあるロシア語の表示

英国のTV会社 ITV1 で放映されたポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「あなたの庭はどんな庭?」(1991年)の回では、アメリア・バロウビーをストリキニーネで毒殺したと疑われ、姿を消してしまったコンパニオンのロシア人カトリーナ・レイガー(Katrina Reiger)の居所を突き止めたポワロは彼女に対して、警察への出頭を勧める。この場面は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のベイズウォーター地区(Bayswater)内にあるモスクワロード(Moscow Road)沿いに建つ聖ソフィア大聖堂(St. Sophia Cathedral)の内部で撮影されている。その後、教会の外でポワロが彼女をスコットランドヤードのジャップ主任警部に引き渡す場面では、聖ソフィア大聖堂ではなく、ロシア正教会(Russian Orthodox Cathedral)の外観が使用されている。

ロシア正教会の建物外観

ロシア正教会は、ロンドンの中心部シティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のブロンプトン地区(Brompton)内に所在しており、地下鉄ナイツブリッジ駅(Knightsbridge Tube Station)から地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station)へ向かってハイドパーク(Hyde Park)の南側を東西に延びるナイツブリッジ通り(Knightsbridge)から少し南下したところにあるエニスモアガーデンズ(Ennismore Gardens)に面して建っている。

教会の入口(その1)

教会の入口(その2)

ITV1 で放映されたポワロシリーズでは、カトリーナが身を寄せていたのは「ロシア正教会」という設定であり、内部の撮影に使われた聖ソフィア大聖堂は「ギリシア正教会」の建物であるが、外観の撮影に使用されたのは、設定通り、ロシア正教会となっている。にもかかわらず、ポワロがカトリーナを連れて、教会の建物から出て来る場面では、教会の入口辺りしか写っていない。

教会の内部天井

教会内に掛けられている聖母マリアとキリストのモザイク画

当教会は、元々、「Anglican Church of All Saints」として、英国の建築家であるルイス・ヴァリアミー(Lewis Vulliamy:1791年ー1871年)によって設計され、1848年から1849年にかけて建設された。また、ルイス・ヴァリアミーの設計図をベースにして、同じく英国の建築家ロバート・ルイス・ルミュー(Robert Lewis Roumieu:1814年ー1877年)が1860年に鐘楼を建設した。鐘楼の高さは約40m。

教会の建物を入口から見上げたところ

当教会は、ロシア正教会としても使用され、1978年にロシア正教会側に正式に購入され、現在の正式名は「Cathedral of the Dormition of the Mother of God and All Saints」である。
当教会の建物は、現在、「グレードⅡ(Grade II)」の指定を受けている。