2024年6月30日日曜日

デヴォン州(Devon) バーアイランド(Burgh Island)

英国本島にある小村であるビッグバン・オン・シーから
沖合いに浮かぶバーアイランドを望んだ風景 -
左側に建つ建物が「バーアイランドホテル」で、
右側に建つ建物が「ピルチャードイン」と言うパブ。
<以前、デヴォン州を訪問した際に、筆者が購入した
デイヴィッド・ジェラード作「Expoloring Agatha Christie Country」
(Agatha Christie Ltd. / English Riviera Tourist Board が協力)から抜粋。>

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「白昼の悪魔(Evil Under the Sun → 2024年6月8日 / 6月12日付ブログで紹介済)」(1941年)の場合、名探偵エルキュール・ポワロは、デヴォン州(Devon)の密輸者島(Smugglers’ Island)にあるジョリーロジャーホテル(Jolly Roger Hotel)に滞在して、静かな休暇を楽しんでいるところから、物語が始まる。同ホテルには、美貌の元女優で、実業家ケネス・マーシャル(Captain Kenneth Marshall)の後妻となったアリーナ・ステュアート・マーシャル(Arlena Stuart Marshall)も宿泊しており、周囲の異性に対して、魅力を振り撒きながら、避暑地を満喫していたが、ホテルの宿泊客の数名が、アリーナ・マーシャルの存在を疎ましく感じていた。ホテル内に、不穏な空気が次第に立ち込める中、ポワロは、「白昼にも、悪魔は居る。(There is evil everywhere under the sun.)」と呟かざるを得なかった。ポワロの懸念が的中するかのように、8月25日の昼頃、アリーナ・ステュアート・マーシャルの絞殺死体が、Pixy Cove の浜辺において発見されるのであった。


以前、デヴォン州を訪問した際に、筆者が購入した
デイヴィッド・ジェラード作「Expoloring Agatha Christie Country」
(Agatha Christie Ltd. / English Riviera Tourist Board が協力)の表紙

「白昼の悪魔」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第29作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第20作目に該っている。


ビッグバン・オン・シーと
沖合いに浮かぶバーアイランドについては、
画面の地図の一番左端に描かれている。
<以前、デヴォン州を訪問した際に、筆者が購入した
デイヴィッド・ジェラード作「Expoloring Agatha Christie Country」
(Agatha Christie Ltd. / English Riviera Tourist Board が協力)から抜粋。>

「白昼の悪魔」の舞台となる「密輸者島」と「ジョリーロジャーホテル」は、架空の場所であるが、デヴォンの南海岸に所在するビッグベリー・オン・シー(Bigbury-on-Sea)と言う小村の沖合いに浮かぶ「バーアイランド(Burgh Island)」と当該島に建つ「バーアイランドホテル(Burgh Island Hotel)」が、そのモデルになっていると言われている。


バーアイランドには、元々、修道院(monastry)が建っていたが、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年)による宗教改革の一環である修道院解散を以って、取り壊されてしまった。


地下鉄チャリングクロス駅(Charing Cross Tube Station)の
ベーカルーライン(Bakerloo Line)のプラットフォームにある壁画 -
一番右手の人物が、姦通罪等を理由にして、
ロンドン塔において、2番目の王妃であるアン・ブーリンを(一番左手の人物)斬首刑に処したヘンリー8世。
(なお、画面中央の人物は、メアリー1世である。)


その後、鰯(sardine = pilchard)を捕る漁師達が、島を使用するようになった。

島には、開業が1336年にまで遡るピルチャードイン(Pilchard Inn)と呼ばれるパブが、漁師達で繁盛した。一方で、パブは、密輸業者や海賊等で賑わった。


筆者が所有している株式会社 昭文社発行の
「マップルマガジン イギリス」から抜粋。

1890年代にミュージックホールのコメディアン / 歌手 / 演奏家であるジョージ・H・チルグウィン(George H. Chirgwin:1854年ー1922年)が島に家を建て、招待客と一緒に、週末のパーティーに使われた。

1929年になると、大富豪で、映画制作者でもあるアーチボルド・ネトルフォルド(Archibald Nettlefold)が島を買い取って、アール・デコ調(Art Deco)のホテルを建設した。


アーチボルド・ネトルフォルドは、ロンドンのウェストエンド(West End)で劇場も経営しており、当該劇場でアガサ・クリスティーによる戯曲が上演された関係で、アガサ・クリスティーも、ホテルに何度も宿泊している。

数度のホテル滞在経験をベースにして、アガサ・クリスティーは、「白昼の悪魔」を執筆したと言う訳である。

付け加えると、彼女の「そして誰もいなくなった(And Then There Were None)」(1939年)の舞台となる「兵隊島(Soldier Island)」のモデルも、バーアイランドである。


英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている
アガサ・クリスティー作エルキュール・ポワロシリーズ
「白昼の悪魔」のペーパーバック版表紙


1980年代に入ると、アーチボルド・ネトルフォルドが建てたアール・デコ調のホテルもかなり老朽化したため、売却に出され、これを購入したファッションコンサルタントであるトニー・ポーター(Tony Porter)とベアトリス・ポーター(Beatrice Porter)の夫妻が、ホテルを建設当時の状態に改装した。


英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、英国の俳優であるサー・デイヴィッド・スーシェ(Sir David Suchet:1946年ー)が名探偵エルキュール・ポワロを演じた「白昼の悪魔」の TV ドラマ版(→ 2023年5月10日 / 5月14日 / 5月18日付ブログで紹介済)が、「Agatha Christie’s Poirot」の第48話(第8シリーズ)として、2001年4月20日に放映されているが、当該 TV ドラマ版は、バーアイランドとバーアイランドホテルにおいて撮影されている。


第48話「白昼の悪魔」が収録された
エルキュール・ポワロシリーズの DVD コレクション No. 5 の表紙


バーアイランドは、英国本島から約250mの沖合いで、干潮時には、本島から島まで歩いて行くことが可能で、満了時には、シートラクター(Sea Tractor)と言う乗り物を使用することになる。

満潮時に、英国本島にある小村であるビッグバン・オン・シーから
沖合いに浮かぶバーアイランドまで渡る際に使用するシートラクター
<以前、デヴォン州を訪問した際に、筆者が購入した
デイヴィッド・ジェラード作「Expoloring Agatha Christie Country」
(Agatha Christie Ltd. / English Riviera Tourist Board が協力)から抜粋。>


バーアイランドは、2018年4月に、それまでの所有者だったデボラ・クラーク(Deborah Clark)とトニー・オーチャード(Tony Orchard)から投資会社(Bluehone Capital / Marechale Capital)へ売却され、2023年5月には、再度、売却に出されている。


2024年6月29日土曜日

デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 殺しの操り人形」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Instrument of Death by David Stuart Davies) - その3

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2019年に出版された
デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 殺しの操り人形」の内扉


第2の殺人(老女)に失敗した医者のグスタフ・カリガリ(Gustav Caligari)は、プラハ(Prague)からロンドンへと向かった。

ロンドンに着いたグスタフ・カリガリは、家主であるクレメンツ夫人(Mrs. Clements)と交渉の上、家賃を週8シリングから5シリングへ値切って、ケンジントン地区(Kensington → 2023年12月12日 / 12月17日付ブログで紹介済)内のセジウィックストリート34番地(34 Sedgwick Street - 現在の住所表記上、存在していないので、架空の住所と思われる)の家を借りると、そこに診療所を開いた。


ケンジントンスクエア(Kensington Square)の中央にある
ケンジントンスクエアガーデン(Kensington Square Garden)


グスタフ・カリガリが新聞広告を出すと、数日で金持ちで暇を持て余している中流階級の女性達が、彼の診療所に押し寄せた。6ヶ月も経たないうちに、彼の診療所の経営は軌道にのり、9ヶ月後には、数々の紳士クラブや催しにも招待されるようになった。

プラハの警察から逃げきったと確信したグスタフ・カリガリは、次のステージへと進む頃合いだと考えた。


グスタフ・カリガリは、バーモンジー(Bermondsey)の川の近くで見つけた浮浪者のロバート・ストラウス(Robert Straus - 身長180㎝)を薬でマインドコントロールして、自分の操り人形にしたのである。


ジョン・H・ワトスンは、アフガン戦争で負った傷が痛んだため、4日間、サリー州(Surrey)で療養した後、ロンドンのユーストン駅(Euston Station → 2015年10月31日付ブログで紹介済)へと戻って来る。1896年春の夕方だった。


ユーストン駅の駅舎正面


ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済に着いたワトスンを出迎えたシャーロック・ホームズは、茶色い皮の男性用手袋を見せた。

大したことが判らないワトスンに、ホームズは、手袋の内側を見せた。そこには、「S&W R357」と印されていた。

ホームズは、ワトスンに対して、


(1)「S&W」:ストランド通り(Strand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)沿いにある Sawyer and Walters

(2)「R」:右側

(3)「357」:顧客番号


と説明。


ストランド通り沿いのアメリカ両替所(American Exchange)があった場所 -
背後に見えるのは、チャリングクロス駅(Charing Cross Station
→ 2014年9月20日付ブログで紹介済)の建物。


ホームズは、スコットランドヤードのレストレード警部(Inspector Lestrade)からの依頼を受けて、サー・ジェフリー・ダムリー(Sir Jeffrey Damury)の邸宅からルビーが盗難された事件を捜査していた。


何者かがサー・ジェフリー・ダムリーの邸宅に侵入して、金庫に保管されていたルビーを奪い去ったのである。侵入者は、何故か、金庫のコンビネーションを知っていたようで、簡単に金庫を開錠していた。

そして、金庫の近くの床の上に、問題の手袋が落ちていたのだ。

ホームズが Sawyer and Walters に問い合わせたところ、手袋の持ち主は、サー・ジェフリー・ダムリーとのことだった。

レストレード警部が調べたところ、サー・ジェフリー・ダムリーは、直近6ヶ月間でカードゲームに大負けをして、多額の借金を負っていることが判明。

と言うことは、ルビーの盗難は、サー・ジェフリー・ダムリーによる自作自演で、保険金目的なのだろうか?


ホームズがワトスンに手袋の匂いを嗅がせると、薔薇の甘い香りがした。ホームズは、ワトスンに対して、「女性用香水で、非常に高価なものだ。」と告げる。

更に、ホームズは、ワトスンに、


(1)女性がこの手袋をはめており、その女性が、意図的に、あるいは、偶然に、手袋を落としていったと考えられる。

(2)そうすると、考えられる容疑者は、サー・ジェフリー・ダムリーの妻であるレディー・サラ(Lady Sarah)で、夫に盗難容疑を着せて、刑務所へ送るのが、目的だ。


と説明した。


画面奥に見えるのが、フリートストリート


ところは、レディー・サラには、鉄壁のアリバイがあった。

ホームズは、「レディー・サラの不倫相手で、若い弁護士であるゴドフリー・フォーベス(Godfrey Forbes)が、実行犯だ。彼も、ケンジントン地区に住んでいるが、弁護士業はうまくいっておらず、借金塗れだ。今朝、彼は、フリートストリート(Fleet Street → 2014年9月21日付ブログで紹介済)にあるトマスクック(Thomas Cook)へ出かけて、ブラジル行きの船の予約をした。予約は自分の分だけなので、彼は、レディー・サラを見捨てて、一人で逃げるつもりだ。手袋に女性用香水の匂いを残したのも、レディー・サラに罪を全て着せるのが、目的だ。」と推理した。


ホームズとワトスンの2人は、ゴドフリー・フォーベスが住むケンジントン地区の家へ急ぎ、家の鍵をこじ開けると、居間のカーテンの陰に隠れて、ゴドフリー・フォーベスが帰って来るのを待った。

そして、戻って来たゴドフリー・フォーベスを捕まえて、ホームズは彼からサー・ジェフリー・ダムリーのルビーを無事取り返したのである。


事件が解決したため、レストレード警部のオフィスにおいて、ホームズ、ワトスンとレストレード警部の3人が祝杯を挙げていると、そこへ部下の巡査が駆け込んで来る。

「レディー・サラが、自宅において、何者かに絞殺された。」との知らせだった。


ストランド通り沿いに建つサヴォイ劇場(画面左側) -
画面中央奥に建つのが、サヴォイホテル


グスタフ・カリガリが、自分の操り人形とした浮浪者のロバート・ストラウスに指示して、レディー・サラを殺害させたのである。

次のターゲットとして、グスタフ・カリガリは、サヴォイ劇場(Savoy Theatre → 2021年7月7日付ブログで紹介済)のオペラ「The Magic Rose」に出演しているルース・マーシャル(Ruth Marshall)に狙いを定める。ルース・マーシャルにとって、「The Magic Rose」が、ウェストエンド(West End)での初めての主役と言う非常に重要な局面に該っていた。


レディー・サラの殺害犯人を突き止めようとするホームズ / ワトスンの2人とグスタフ・カリガリは、こうして相見えることになる。


2024年6月28日金曜日

薔薇戦争(Wars of the Roses)- その3

英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「エッジコートムーアの戦い」(1469年7月26日)が描かれている。


1455年5月22日、ロンドン北方のセントオールバンズ(St. Albans)において、「薔薇戦争(Wars of the Roses)」の火蓋が切って落とされた。

薔薇戦争は、プランタジネット朝(House of Plantagenet)の第7代イングランド王であるエドワード3世(Edward III:1312年ー1377年 在位期間:1327年ー1377年)の血を引く家柄であるランカスター家(House of Lancaster)とヨーク家(House of York)の間の権力闘争である。ランカスター家が「赤薔薇」を、そして、ヨーク家が「白薔薇」を徽章としていたため、現在、「薔薇戦争」と呼ばれているが、この命名は、後世のことである。


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ランカスター家とヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


「第1次セントオールバンズの戦い(First Battle of St. Albans)」が契機となり、以後30年間にわたって、ランカスター家とヨーク家の間の内戦が、イングランド各地で繰り広げられrるが、「薔薇戦争」は、以下の3つの期に分けられる。


*第一次内乱(1459年ー1468年)

*第二次内乱(1469年ー1471年)

*第三次内乱(1485年)


今回は、「第二次内乱」について、述べる


プランタジネット朝の第7代イングランド王であるエドワード3世の血を引く家柄である
ヨーク家の系図 -
英国のプーシキン出版(Pushkin Press)から
2023年に刊行されている
 Pushkin Vertigo シリーズの一つである

ジョセフィン・テイ作「時の娘」から抜粋。


第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 3rd Duke of York:1411年ー1460年)の長男をヨーク朝の初代イングランド王であるエドワード4世(Edward VI:1442年ー1483年 在位期間:1461年-1483年 / ただし、1470年から1471年にかけて、数ヶ月間の中断あり)として擁立することの立役者となった母方の従兄に該る実力者であるウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル(Richard Neville, Earl of Warwick:1428年-1471年)は、父親の領地を相続した上に、没収されたランカスター派貴族の領地も与えられて、イングランド最大の土地所有者になっていた。

また、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、五港長官職とカレー(Calais)守備隊司令職も与えられた。

上記のように、大躍進を遂げたウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、親仏派の立場を取り、フランス(ヴァロワ朝)の王であるルイ11世(Louis XI:1423年ー1483年 在位期間:1461年ー1483年)との間で、エドワード4世とフランス王族の縁組交渉を進めていた。


ところが、


(1)エドワード4世は、1464年5月1日に、ランカスター派騎士の未亡人であるエリザベス・ウッドヴィル(Elizabeth Woodville:1437年頃ー1492年)と、密かに身分違いの結婚をした。その後、エドワード4世は、この結婚を「覆せない事柄」として公表したため、彼とフランス王族の縁組交渉を進めていたウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、破談で面目が丸潰れになった。そのため、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、エドワード4世と激しく対立するようになる。


(2)

また、エドワード4世は、独断専行で、妻エリザベス・ウッドヴィルの父と多くの弟妹達に対して、爵位や官職を授与したり、貴族との政略結婚を盛んに行ったりした。このように、エドワード4世がウッドヴィル一族を重用したために、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルを初めとするネヴィル家や他の貴族達の怒りを買ってしまう。


(3)

更に、エドワード4世は、フランス国王との同盟ではなく、ブルゴーニュ公シャルル(Charles de Valois-Bourgogne:1433年ー1477年)に、妹のマーガレット・オブ・ヨーク(Margaret of York:1446年ー1503年)を嫁がせて、同盟を結んだため、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルが進めようとしていた外交政策とは大きく相違することになった。


その結果、1469年4月に、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、エドワード4世の弟である初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネット(George Plantagenet, 1st Duke of Clarence;1449年ー1478年)と一緒に、エドワード4世に対する反逆を開始する。

初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットは、兄であるエドワード4世の意に反して、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの娘であるイザベル・ネヴィル(Isabel Neville:1451年ー1476年)と結婚していた。


第二次内乱時には、以下の会戦が行われている。


(1)1469年7月26日:エッジコートムーアの戦い(Battle of Edgecote Moor)→ ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル軍が勝利


ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、カレーの軍勢を率いて、ケント州(Kent)に上陸。

ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルが扇動した反乱の鎮圧に、エドワード4世は赴くが、逆に、敗北して、捕らえられ、幽閉の憂き目に遭う。

ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの権力掌握を支持する貴族は僅かであり、エドワード4世は、幽閉先からロンドンへと戻り、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルとの表面的な和解を行う。


(2)1470年3月12日:ルーズコートフィールドの戦い(Battle of Losecote Field)→ ヨーク派軍が勝利


リンカンシャー州(Lincolnshire)で発生した反乱の鎮圧のため、エドワード4世は、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルとは疎遠な者を選抜して、現地へと赴き、反乱軍を打ち破る。

捕らえられた首謀者は、「反乱は、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルと初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットの教唆によるものだ。」と証言したため、両名は、反逆者と宣告され、フランスへ逃亡する羽目となった。


「第一次内乱(1459年ー1468年)」中、ランカスター朝の第3代イングランド王であるヘンリー6世(Henry VI:1421年ー1471年 在位期間:1422年ー1461年)の王妃マーガレット・オブ・アンジュー(Margaret of Anjou:1429年ー1482年)と王太子(Prince of Wales)のエドワード・オブ・ウェストミンスター(Edward of Westminster:1453年ー1471年)は、フランスへ既に亡命していた。

エドワード4世と彼の義弟となったブルゴーニュ公シャルルの同盟を警戒したフランス王のシャルル11世は、フランスへと逃亡して来たウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルに対して、マーガレット王妃との同盟を提案。シャルル11世の提案を受けて、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルとマーガレット王妃の間に、同盟が成立し、その証として、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルの娘アン・ネヴィル(Anne Neville:1456年ー1485年)とマーガレット王妃の王子エドワード・オブ・ウェストミンスターが結婚する運びとなった。


ランカスター派へと寝返ったウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットと一緒に、イングランド南西部のダートマス(Dartmouth → 2023年9月6日付ブログで紹介済)に上陸。ヨークシャー州(Yorkshire)での反乱鎮圧に向かったエドワード4世の隙を突き、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、1470年10月、ロンドンを奪い返し、幽閉されていたヘンリー6世を復位させた。

その後、ロンドンから北上するウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルに背後を突かれたエドワード4世は、彼の義弟ブルゴーニュ公シャルルの元へ亡命したため、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは、エドワード4世を国外へと追いやることに成功。


(3)1471年4月14日:バーネットの戦い(Battle of Barnet)→ ヨーク派軍が勝利


英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「バーネットの戦い」(1471年4月14日)が描かれている。

義弟ブルゴーニュ公シャルルの資金援助を受けたエドワード4世は、1471年3月15日、ヨークシャー州の海岸に上陸し、支持者の軍勢を編成すると、ロンドンへ向けて南下。これに、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルのことを見限った初代クラレンス公爵ジョージ・プランタジネットも合流。

同年4月11日、エドワード4世軍は、ロンドンへと入城して、ヘンリー6世を捕らえる。

同年4月14日、エドワード4世軍とウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル軍は、バーネット(Barnet)にて対峙。深い霧のため、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィル軍は、同士討ちを演じて、総崩れとなった。結果として、エドワード4世軍の勝利に終わり、ウォーリック伯爵リチャード・ネヴィルは敗死。


(4)1471年5月4日:テュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury)→ ヨーク派軍が勝利


英国のロイヤルメールから2021年に発行された「薔薇戦争」の記念切手の1枚で、
「テュークスベリーの戦い」(1471年5月4日)が描かれている。

マーガレット王妃とエドワード・オブ・ウェストミンスターが率いる軍は、バーネットの戦いの数日前に、イングランドに上陸したものの、同戦いには間に合わなかった。

1471年5月4日、テュークスベリー(Tewkesbury)において、両軍は会戦し、マーガレット王妃とエドワード・オブ・ウェストミンスターは捕らえられた。同日、エドワード・オブ・ウェストミンスターは、処刑された。

続いて、同年5月14日、既に捕らえていたヘンリー6世も殺害され、ランカスター家の王位継承権者は、ほぼ根絶やしとなった。

マーガレット王妃は、ロンドン塔(Tower of London → 2018年4月8日 / 4月15日 / 4月22日付ブログで紹介済)に幽閉。5年後にフランス王のシャルル11世が身代金を支払ったため、フランスへ帰国するものの、アンジュー家領の相続権を全て剥奪されて、失意と貧窮の中、1482年に亡くなった。


「薔薇戦争」の第二次内乱は、ここに終結。 


2024年6月27日木曜日

ロジャー・スカーレット作「猫の足」(Cat’s Paw by Roger Scarlett)- その2

米国の Penzler Publishers 社から
American Mystery Classics シリーズの1冊として
2022年に出版された
ロジャー・スカーレット作「猫の足」の裏表紙
< Cover Image : Andy Ross
           Cover Design : Mauricio Diaz >


イヴリン・ペイジ(Evelyn Page:1902年ー1977年)とドロシー・ブレア(Dorothy Blair:1903年ー1976年)と言う女性2人のペンネームである米国の推理作家であるロジャー・スカーレット(Roger Scarlett)の第3作目である「猫の足(Cat’s Paw)」(1931年)は、以下の4つのパートに分かれている。


(1)「Prologue : The Question」

(2)「Part I : The Evidence」

(3)「Part II : The Case」

(4)「Part III : The Solution」


これは、ロジャー・スカーレットによる他の4作である


*「ビーコン街の殺人(The Beacon Hill Murders)」(1930年)

*「白魔(Back-Bay Murder Mystery)」(1930年)

*「エンジェル家の殺人(Murder Among the Angells → 2024年4月2日 / 4月5日 / 4月8日付ブログで紹介済)」(1932年)

*「ローリング邸の殺人(In the First Degree)」(1933年)


とは、異なる構成を採っている。


(1)「Prologue : The Question」- 現在、休暇中であるボストン(Boston)警察の犯罪捜査部(Bureau of Criminal Investigation)のノートン・ケイン警部(Inspector Norton Kane)からの依頼を受けて、弁護士で、事件の記録者であるアンダーウッド(Mr. Underwood)が、グリーンノー家(Greenough family)で発生した事件の記録を取りまとめると言う物語の導入部が描かれる。


(2)「Part I : The Evidence」- グリーンノー家において、事件が発生するまでの経緯が描かれる。


(3)「Part II : The Case」- 事件発生後、モラン巡査部長(Sergeant Moran)が現場に到着して、休暇中のノートン・ケイン警部に代わって、捜査を進める過程が描かれる。


(4)「Part III : The Solution」- 休暇から戻ったノートン・ケイン警部が、アンダーウッドが取りまとめた事件記録やモラン巡査部長による捜査記録等に基づいて、事件を解決する過程が描かれる。


(1)「Prologue : The Question」


弁護士で、事件の記録者であるアンダーウッドは、36時間前に、ボストン警察の犯罪捜査部のノートン・ケイン警部から、電報を受け取る。ノートン・ケイン警部は、現在、休暇中で、ボストンへと戻る船上に居た。

ノートン・ケイン警部は、アンダーウッドに対して、「ボストン警察に連絡をとって、グリーンノー家で発生した事件の記録を全て取りまとめてほしい。」と依頼してきたのである。

ノートン・ケイン警部からの電報を受け取ったアンダーウッドは、早速、作業に取り掛かる。そして、6月19日の夜、ボストンへと戻って来たノートン・ケイン警部に、アンダーウッドは、グリーンノー家で発生した事件の詳細について、語り始めるのであった。


(2)「Part I : The Evidence」


物語は、1931年6月13日、大富豪のマーティン・グリーンノー(Martin Greenough)が住むボストンのフェンウェイ屋敷(Fenway estate)と呼ばれるゴシック建築の広大な邸宅から始まる。

マーティン・グリーンノーは、75歳の誕生日を迎えようとしていた。


2024年6月26日水曜日

ロンドン ベッドフォードスクエア(Bedford Square)- その2

ベッドフォードスクエアの南東の角から
ゴウアーストリート沿いのスクエアの東側を見たところ

アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「白昼の悪魔(Evil Under the Sun → 2024年6月8日 / 6月12日付ブログで紹介済)」(1941年)では、デヴォン州(Devon)の密輸業者島(Smugglers’ Island)の Pixy Cove において殺害された元女優のアリーナ・マーシャル(Arlena Marshall)の弁護士事務所 Barkett, Markett & Applegood が、ロンドンの中心部であるロンドン・カムデン特別区(London Borugh of Camden)のブルームズベリー地区(Bloomsbury)内にあるベッドフォードスクエア(Bedford Square)に所在すると記載されている。当然のことながら、Barkett, Markett & Applegood は、架空の弁護士事務所であるが、ベッドフォードスクエアは、実在の場所である。


ベッドフォードスクエアは、1775年から1783年にかけて開発された。

英国の建築家であるトマス・エヴァートン(Thomas Leverton:1743年頃ー1824年)が、ベッドフォードスクエアに面する建物の多くを設計している。

ベッドフォードスクエアの名前は、同スクエアを含むブルームズベリー地区の土地を所有していたラッセル家(Russell family)のタイトルであるベッドフォード公爵(Duke of Bedford)に因んで、名付けられた。


ベッドフォードスクエアの南西の角から
スクエア中央の庭園を見たところ

ベッドフォードスクエア内には、上流階級や中流階級が住み、同スクエアに住んでいた著名人として、英国の法廷弁護士 / 政治家である初代エルドン伯爵ジョン・スコット(John Scott, 1st Earl of Eldon:1751年ー1838年)が挙げられる。


ベッドフォードスクエア6番地の建物(その1)

ベッドフォードスクエア6番地の建物(その2)

ベッドフォードスクエア6番地の建物(その3)

初代エルドン伯爵ジョン・スコットは、1801年から1806年まで、そして、1807年から1827年までの間、大法官(Lord Chancellor)を務めている。また、彼は、ベッドフォードスクエア6番地(6 Beford Square)に住んでいたので、同番地の建物の外壁に、「初代エルドン伯爵ジョン・スコットが、ここに住んでいた」ことを示すプラークが架けられている。


ベッドフォードスクエア13番地

ベッドフォードスクエア35番地

ベッドフォードスクエア40番地

ベッドフォードスクエア41番地

ベッドフォードスクエア48番地

ベッドフォードスクエア49番地


初代エルドン伯爵ジョン・スコット以外にも、多くの著名人がベッドフォードスクエアに住んでいたため、現在、建物の外壁に、多くのプラークが架けられている。


ベッドフォードスクエア中央の庭園
(通常は、一般には解放されていない)

ベッドフォードスクエアに面して建つ住居の多くは、現在、オフィスへ改装されているが、ジョージ朝建築様式(Georgian architecture)による当時の建物の大部分が今も残っており、1番地ー10番地、11番地、12番地ー27番地、28番地ー38番地、そして、40番地ー54番地が「grade I listed buildings」に指定されている。




ベッドフォードスクエアの中央にある庭園については、通常、一般には解放されていないが、Open Garden Squares Weekend の場合のみ、一般に解放されている。


ベッドフォードスクエアは、
多くの観光客で賑わう大英博物館の近くであるものの、
週末でも、閑静な場所である。


ベッドフォードスクエアは、その東側を南北に延びるガウアーストリート(Gower Street)を間に挟んで、多くの観光客が訪れる大英博物館(British Museum → 2014年5月26日付ブログで紹介済)と隣り合っているものの、週末においても、中央の庭園を含む同スクエア内は、閑静な場所となっている。



アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1953年に発表したミス・ジェイン・マープルシリーズの長編第6作目「ポケットにライ麦を(A Pocket Full of Rye)」の場合、ロンドンにある投資信託会社の社長であるレックス・フォーテスキュー(Rex Fortescue)が、オフィスにおいて、朝の紅茶を飲んだ後、急逝するところから、物語が始まる。


検死解剖の結果、レックス・フォーテスキューの体内から、イチイの木(yew tree)から抽出される毒性のアルカロイド(toxic alkaloid)であるタキシン(taxine)が見つかり、死因は、タキシンによる中毒であることが判明した。レックス・フォーテスキューは、朝食でとったマーマレードと一緒に、タキシンを摂取したものと思われた。

更に、レックス・フォーテスキューの着衣を調べたところ、不思議なことに、上着のポケットから、大量のライ麦(rye)が出てきたのである。


物語の中盤(第9章)、捜査を進めるスコットランドヤードのニール警部(Inspector Neele)から、レックス・フォーテスキューの法律事務所を尋ねられた長男のパーシヴァル・フォーテスキュー(Percival Fortescue)は、「ベッドフォードスクエアにあるビリンズビー・ホースソープ・アンド・ウォルターズ法律事務所(Billingsby, Horsethorpe & Walters)」と答えている


2024年6月25日火曜日

デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 殺しの操り人形」(The further adventures of Sherlock Holmes / The Instrument of Death by David Stuart Davies) - その2

英国の Titan Publishing Group Ltd. の Titan Books 部門から
2019年に出版された
デイヴィッド・ステュアート・デイヴィーズ作
「シャーロック・ホームズの更なる冒険 / 殺しの操り人形」の裏表紙


生まれてまもなく、母親を腸チフスで亡くしたグスタフ・カリガリ(Gustav Caligari)は、大学で外科手術を教えている父親のエメリック・カリガリ(Emeric Caligari)と2人で暮らしていた。

グスタフ・カリガリは、幼少期より身体が非常に大きい上に、陰気でサディスティックな性格で、同世代の子供達を虐めたり、小動物(猫等)や虫(蜘蛛等)を殺したりして、楽しんでいた。

その後、学校へ通い始めると、ひ弱で頭が良くない同級生達を陰で密かに虐め始めたが、陰湿な虐めが学校にばれて、グスタフ・カリガリは、放校される。父親のエメリック・カリガリは、息子のグスタフが人間の皮を被った「怪物」であることが判った。


放校後、グスタフ・カリガリの家庭教師として、数名が雇われたが、皆2ー3ヶ月で辞めてしまった。その中で、唯一残った家庭教師が、ハンス・ブルーナー(Hans Bruner)だった。

ハンス・ブルーナーが部屋に入って来た途端、グスタフ・カリガリは、「彼となら、うまくやっていける。」と感じた。ハンス・ブルーナーは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe:1749年ー1832年)による詩「魔法使いの弟子(The Sorcerer’s Apprentice / ドイツ語:Der Zauberlehrling)」(1797年)に出てくる年老いた魔術師のようだった。


フランクフルトのゲーテハウス / ゲーテ博物館(Goethe Haus / Goethe Musem
→ 2017年11月18日 / 11月25日付ブログで紹介済)で購入した
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの絵葉書
「Goethe in Der Campagna」(1848) by Karl Bennert (1815 - 1885)


グスタフ・カリガリと家庭教師のハンス・ブルーナーは、勉学の方向性として、「魔術の歴史」に定めた。

ハンス・ブルーナーの教えを受ける中、グスタフ・カリガリは、他人を操り人形のようにコントロールする考えに、次第に取り憑かれていく。


グスタフ・カリガリがプラハ医学学校(Prague Medical School)の入学試験を受ける数ヶ月前に、家庭教師のハンス・ブルーナーに病が襲いかかった。医師によると、不治の病とのことだった。


ある年の秋の夕方、グスタフ・カリガリは、病んで床に就くハンス・ブルーナーの元を訪れた。

「旅立つ私、お別れをしに来たのかい?」と尋ねるハンス・ブルーナーに近寄ったグスタフ・カリガリは、ハンスの口を手で押さえると、老人の抵抗がなくなるまで抑え続けた。

これが、グスタフ・カリガリが犯した最初の殺人だった。


同じ年、グスタフ・カリガリは、プラハ医学学校を卒業するが、父親のエメリックが亡くなり、まとまった遺産を相続した。プラハに自分の診療所を開くのに、充分な資産だった。これで、彼は、医者になるとともに、殺人を続けることができるのである。


ところが、グスタフ・カリガリは、第2の殺人(老女)に失敗してしまう。

彼が今すべきことは、2つだった。

一つ目は、逮捕を免れるために、24時間以内にプラハを去ること。幸いなことに、「もしも」のために、以前から、彼は準備を進めていた。

二つ目は、次のステージへと進むこと。即ち、今後は、殺人を行う上で、自分と被害者の間に、別の人間を介在させること。つまり、家庭教師のハンス・ブルーナーから教えを受けた魔術の通り、他人を意のままに操って、殺人を犯させるのが、安全かつ確実な方法だと、グスタフ・カリガリは、理解したのである。


そして、グスタフ・カリガリは、プラハからロンドンへと向かった。