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| ロンドンの特別区の一つであるカムデン区のハイゲイト地区内にある ハイゲイト墓地の東区画にあるハーバート・スペンサーの墓(その5) <筆者撮影> |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第6作目に、そして、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)シリーズの長編としては、第3作目に該る「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd → 2023年9月25日 / 10月2日付ブログで紹介済)」において、事件の記録者で、キングスアボット村(King's Abbot)の富豪であるロジャー・アクロイド(Roger Ackroyd)から夕食に招待され、9月17日(金)の午後7時半に、ロジャー・アクロイドが住むフェルンリーパーク館(Fernly Park)を訪れたジェイムズ・シェパード医師(Dr. James Sheppard)とフローラ・アクロイド(Flora Ackroyd - ロジャー・アクロイドの義理の妹で、未亡人のセシル・アクロイド夫人(Mrs. Cecil Ackroyd)の娘)の間で交わされた会話に出てくる「フロス河の水車場(The Mill on the Floss)」の作者であるジョージ・エリオット(George Eliot → 2025年11月13日+2026年5月20日 / 5月25日 / 5月30日付ブログで紹介済)は、英国の作家である。実は、「ジョージ・エリオット」はペンネームで、本名はメアリー・アン・エヴァンズ(Mary Anne Evans:1819年ー1880年)。
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| 2022年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された アガサ・クリスティー作「アクロイド殺し」の 愛蔵版(ハードカバー版)の表紙 (Cover design by Holly Macdonald / Illustrations by Shutterstock.com) |
1819年11月22日、土地差配人である父ロバート・エヴァンズ(Robert Evans:1773年ー1849年)と母クリスティアナ・エヴァンズ(Christiana Evans:1788年ー1836年 / 旧姓:ピアスン(Pearson))の下、ウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)に出生したメアリー・アン・エヴァンズは、1850年、作家を志して、ロンドンへと移った。
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| ナショナルポートレイトギャラリー(National Portrait Gallery内で 所蔵 / 展示されているジョージ・エリオット (本名:メアリー・アン・エヴァンズ)の肖像画 (By Sir Frederic William Burton / chalk / 1865年 / 514 mm x 381 mm) |
英国の哲学者 / 社会学者 / 倫理学者であるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer:1820年ー1903年)の紹介により、作家を志して、1850年に故郷のウォーリック州(Warwickshire)ヌニートン(Nuneaton)からロンドンへと移ったメアリー・アン・エヴァンズは、1851年に英国の哲学者 / 文芸批評家であるジョージ・ヘンリー・ルイス(George Henry Lewes:1817年ー1878年)と知り合い、恋愛関係になる。当時、ジョージ・ヘンリー・ルイスは、アグネス・ジャーヴィス(Agnes Jervis)と結婚して、3人の子供が居る身だったが、メアリー・アン・エヴァンズとジョージ・ヘンリー・ルイスの恋愛関係は、彼が1878年11月30日に亡くなるまで、25年以上続いた。
1820年4月27日、イングランド北部のダービーシャー州(Derbyshire)ダービー(Derby)に出生したハーバート・スペンサーは、1848年から1853年までの間、経済誌「エコノミスト(The Economist)」の副編集長(sub-editor)を務めながら、著作活動を行った。
1853年に叔父の遺産を相続したハーバート・スペンサーは、「エコノミスト」の副編集長の職を辞し、在野の研究者として著述に専念。
「総合哲学体系(Synthetic Philosophy)」シリーズとして、「第一原理(First Principles)」、「生物学原理(Principles of Biology)」、「心理学原理(Principles of Psychology)」、「社会学原理(Principles of Sociology)」、そして、「倫理学原理(Principles of Ethics)」を1862年から順次刊行し、1896年に完結させたハーバート・スペンサーは、1870年代に入ると、最も有名な哲学者となり、それまでに出版した本や連載による収入で生活ができるようになった。彼の著作は、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、フランス語、ロシア語、日本語や中国語等、多くの言語に翻訳され、欧州や北米において、称賛を受けた。
1882年7月から同年11月までの間、彼は米国を訪れ、各地で熱狂的な歓迎を受ける。
ハーバート・スペンサーは、英国よりも米国でより知られるようになり、1870年代から1880年代にかけて、米国全土で空前のスペンサーブームが起きた。
1890年代に入ると、ハーバート・スペンサーは、親しい友人を次々に失い、孤立感を深めていく。
また、彼は、生涯結婚せず、医師が診断できない痛みや病気を周囲に訴えるようになる。
その結果、彼は、日に日に保守的になっていく。
1902年、ハーバート・スペンサーは、ノーベル文学賞(Nobel Prize in Literature)の候補となるものの、残念ながら、受賞には至らなかった。
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| ハイゲイト墓地の東区画にあるハーバート・スペンサーの墓(その6)- 墓の右側面に、ハーバート・スペンサーが、 1903年12月8日に死去したことが記されている。 <筆者撮影> |
ハーバート・スペンサーは、晩年まで口述で著作活動を続けたが、1903年12月8日、サセックス州(Sussex)ブライトン(Brighton)において、83歳で死去。
彼の遺灰は、ロンドンの特別区の一つであるカムデン区(London Borough of Camden)のハイゲイト地区(Highgate)内にあるハイゲイト墓地
(Highgate Cemetery → 2018年11月4日 / 11月11日付ブログで紹介済)の東区画(East Cemetery)に埋葬された。
| ハイゲイト墓地の東区画内にあるカール・マルクスの墓 – カール・マルクスの死後、彼の友人で、かつ、ドイツの社会思想家である フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels:1820年ー1895年)により、 東区画内の別の場所に墓が設けられたが、 1956年に散策道に面した現在の位置に移設され、写真の像も建てられた。 <筆者撮影> |
なお、彼の墓の向かい側には、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者 / 思想家 / 経済学者 / 革命家で、1849年に渡英した以降、ロンドンで主に活動し、「資本論(Das Kapital)」の執筆で有名なカール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx:1818年ー1883年)の墓があり、多くの観光客達が訪れている。カール・マルクスの墓が有名過ぎて、ハーバート・スペンサーの墓は、あまり見向きされていない。





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