2026年3月21日土曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その2

テイト・ブリテン美術館(Tate Britain
→ 2018年2月18日付ブログで紹介済)
で販売されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー作
「Cover Design for 'The Yellow Book' Volume 1」
(1894年 / ink on paper / 26 cm x 21.6 cm)-
「イエローブック(The Yellow Book)」とは、
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーが1894年に創刊した挿絵入りの文芸誌で、
彼は同誌の美術担当編集主任を務めている。


後に英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家となるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)が1888年に彼の生まれ故郷であるサセックス州(Sussex)ブライトン(Brighton)の初等中学校(Brighton, Hove and Sussex Grammar School)を卒業した後、ビアズリー一家は、ロンドンへと移り住み、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)ピムリコ地区(Pimlico)内にあるケンブリッジストリート32番地(32 Cambridge Street)に居を構えた。


オーブリー・ビアズリーは、1888年、クラーケンウェル地区(Clerkenwell)の測量事務所に事務員として勤務し、1889年にガーディアン生命&火災保険会社の書記に転職したものの、持病の肺結核(tuberculosis)のため、年末に喀血して、休職を余儀無くされる。


テイト・ブリテン美術館に所蔵 / 展示されている
エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「Frieze of Eight Women Gathering Apples」(1876年)
<筆者撮影>


オーブリー・ビアズリーは、1891年7月12日、後に女優となる姉のメイベル・ビアズリー(Mable Beardsley:1871年ー1916年)と一緒に、英国の画家 / デザイナーであるエドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones:1833年ー1898年 → 2018年6月3日 / 6月10日 / 6月17日付bログで紹介済)のアトリエを訪れて、描き溜めた作品を見せたところ、才能を絶賛され、画家を志すように勧められた。


テイト・ブリテン美術館に所蔵 / 展示されている
エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「黄金の階段(The Golden Stairs)」(1880年)
<筆者撮影>


エドワード・バーン=ジョーンズの勧めに基づき、オーブリー・ビアズリーは、同年8月より、ウェストミンスター美術学校(Westminster School of Art)の夜間クラスに出席して、校長のフレデリック・ブラウン(Frederick Brown:1851年ー1941年 → 英国の画家 / 美術教師)に師事する。これが、オーブリー・ビアズリーにとって、生涯で唯一の正式な絵画の勉強となった。


テイト・ブリテン美術館に所蔵 / 展示されている
エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「コフェチュア王と乞食娘(King Cophetua and the Beggar Maid)」(1884年)
<筆者撮影>


テイト・ブリテン美術館に所蔵されている
初代准男爵サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ作
「コフェチュア王と乞食娘(King Cophetua and the Beggar Maid)」(1884年)


オーブリー・ビアズリーは、1892年6月に、ガーディアン生命&火災保険会社の年次休暇を使って、パリを初めて訪れ、アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa::1864年ー1901年)の絵画や版画等に魅せられる。

パリから戻ったオーブリー・ビアズリーは、同年の晩夏、同生命&火災保険会社に対して、辞表を出した。


行きつけの書店の主人であるフレデリック・エヴァンズの紹介により、出版業者のJ・M・デント(J. M. Dent)と知り合ったオーブリー・ビアズリーは、1893年から約1年半にわたって、トマス・マロリー(Thomas Malory:1399年ー1471年)作「アーサー王の死(Le Morte d’Arthur)」の挿絵を描いた。これが、彼にとって、イラストレーターとしてのデビューとなる。

この挿絵の仕事が始める際、彼はウェストミンスター美術学校を退学している。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)
で販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


その翌年、オーブリー・ビアズリーは、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇である戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」に、挿画を提供することになる。


2026年3月20日金曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その26B

英国の HarperCollinsPublishers 社から現在出版されている
アガサ・クリスティー作「もの言えぬ証人」の
ペーパーバック版の表紙 -

壁紙の絵が、謎の死を遂げたエミリー・アランデルの愛犬(テリア犬)である

ボブの形に切り取られている。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が執筆した長編としては、第21作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第14作目に該る「もの言えぬ証人(Dumb Witness)」(1937年)の場合、1936年6月28日、エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)が、エミリー・アランデル(Emily Arundell - なお、フルネームは、エミリー・ハリエット・ラヴァートン・アランデル(Emily Harriet Laverton Arundell))と名乗る老婦人から、自分の命に危険が迫っていることを示唆する内容の手紙を受け取るところから、その物語が始まる。奇妙なことに、手紙の日付は、その年の4月17日になっており、手紙が書かれてから2ヶ月後も経ってから投函されているのだった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


ポワロの相棒で、友人でもあるアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)は、「老婦人のとりとめのない妄想ではないか?」と疑問を呈したが、手紙が差し出された経緯について興味を覚えたポワロは、ヘイスティングス大尉を伴って、事実を確かめるために、エミリー・アランデルが住むバークシャー州(Berkshire)のマーケットベイジング(Market Basing)へと赴くことにした。


アーサー・ヘイスティングス大尉は、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロの左斜め後ろに居る。

<筆者撮影>


ポワロとヘイスティングス大尉の二人が、エミリー・アランデルの住所である小緑荘(Littlegreen House)を訪れると、屋敷の前には、「売家」の札が掲げられていた。疑問を抱いた二人が地元で尋ねると、エミリー・アランデル本人は、1ヶ月以上も前の1936年5月1日に亡くなっていたのである。


亡くなったエミリー・アランデルは、長女マチルダ(Matilda - なお、フルネームは、マチルダ・アン・アランデル(Matilda ann Arundell))、三女アラベラ(Arabella)、長男トマス(Thomas)および四女アグネス(Agnes - なお、フルネームは、アグネス・ジョルジーナ・メアリー・アランデル(Agnes Georgina Mary Arundell))の五人兄弟の次女で、ただ一人存命中だった。

彼女は、父親のアランデル将軍からかなりの財産を相続しており、非常に裕福であった。彼女は、生涯未婚の上、自分の財産を遺す子供が居なかったため、以下の姪と甥が将来彼女の遺産を分け合うものと思われていた。


* ベラ・タニオス(Bella Tanios):三女アラベラの娘   

* チャールズ・アランデル(Charles Arundell):長男トマスの長男で、テリーザの兄

* テリーザ・アランデル(Theresa Arundell):長男トマスの長女で、チャールズの妹


なお、ベラ・タニオスは、ジャコブ・タニオス(Dr. Jacob Tanios - ギリシア人の医者)と結婚して、2人の間には、2人の子供(娘+息子)を設けていた。

また、テリーザ・アランデルは、マーケットベイジングに住むレックス・ドナルドスン医師(Dr. Rex Donaldson)と婚約していた。


ところが、エミリー・アランデルは、亡くなるわずか数日前に、遺言書を書き換えていて、新しい遺言書により、彼女の全財産は、彼女の相手役(コンパニオン)であるウィルへルミナ・ロウスン(Wilhelmina Lawson - 通称:ミニー(Minnie))に遺贈され、彼女の本当の肉親である姪2人と甥1人に対しては、何も残されなかったのである。そのため、地元マーケットベイジングの住人達の間では、その噂でもちきりだった。


エミリー・アランデルの遺族の間で憤懣がつのる中、彼女の愛犬であった「もの言えぬ証人(Dumb Witness)」のテリア犬ボブ(Bob)は、彼女の死の真相究明に乗り出したポワロとヘイスティングス大尉に対して、何かを伝えようとしていたのである。


(56)テリア犬のボブ(Bob the dog)



テリア犬のボブは、バークシャー州のマーケットベイジングにある小緑荘の女主人だったエミリー・アランデルの愛犬である。


(57)燐光を発する煙に似たもの(phosphorescent smoke)



ポワロは、調査の過程において、「エミリー・アランデルが亡くなる少し前、小緑荘で降霊会が催された際、彼女の口から光るオーラが出るのを見た。」と言う証言を得た。

その証言を聞いたポワロは、「エミリー・アランデルの命を狙う犯人が、彼女が服用していた肝臓の薬のカプセルの1つを燐(リン)が入ったものにすり替えた」と推理する。燐の毒による死は、肝不全の症状に似ていることを、ポワロは知っていた。つまり、降霊会に出席した人達が目撃したエミリー・アランデルの口から出た光るオーラは、彼女が犯人に摂取させられた燐によるものだった。


(58)階段(stairwell)



小緑荘に住むエミリー・アランデルの元を甥や姪達が訪れた日の夜、彼女は階段から転落して、それが原因で寝込んでしまう。

当初は、彼女の愛犬ボブが遊び道具のボールを階段に置き忘れたままにした結果、彼女がボールに躓いたことが、階段から転落した原因と考えられていた。

ところが、彼女が亡くなった後、小緑荘に赴いたポワロは、階段の上の両側にニスが塗られた釘が打たれているのを発見して、そこに紐が張られていたのではないかと推理する。つまり、エミリー・アランデルが階段から転落したのは、単なる事故ではなく、階段の上に張られた紐に躓いて転落させれた疑いが強まったのである。


2026年3月19日木曜日

アガサ・クリスティー作「シタフォードの謎」<小説版(愛蔵版)>(The Sittaford Mystery by Agatha Christie )- その1

2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「シタフォードの謎」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Toby James / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
南アフリカから英国へとやって来たウィレット夫人と
娘のヴァイオレット・ウィレットが借りている
シタフォード荘において催され降霊術会で
霊が「
トリヴェリアン大佐が死んだ(Trevelyan Dead)」と告げたため、
大佐の友人で、彼の安否を気遣った
ジョン・エドワード・バーナビー少佐が、
吹雪の中、大佐が住む
シタフォード村から6マイル離れたエクスハンプトン村の
ヘイゼルムーア荘を訪れる場面が描かれている。


英国の HarperCollinsPublishers 社から、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が生まれたトーキー(Torquay → 2023年9月1日 / 9月4日付ブログで紹介済)が所在するデヴォン州(Devon)が舞台となったエルキュール・ポワロシリーズの長編作品のうち、「死者のあやまち(Dead Man’s Folly)」(1956年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2023年8月18日 / 8月22日付ブログで紹介済)と「五匹の子豚(Five Little Pigs)」(1942年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2023年11月9日 / 11月13日付ブログで紹介済)が2023年に、更に、「白昼の悪魔(Evil Under the Sun)」(1941年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2024年6月8日 / 6月12日付ブログで紹介済)が刊行されてい「エンドハウスの怪事件(Peril at End House)」(1932年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2024年7月13日 / 7月21日 / 7月25日付ブログで紹介済)が2024年に出版されている。


2023年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「死者のあやまち」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by HarperCollinsPublishers Ltd. /
Cover illustration by Becky Bettesworth) -
アガサ・クリスティーの夏期の住まいである
デヴォン州のグリーンウェイ(Greenway)が、ナス屋敷として描かれている。


2023年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「五匹の子豚」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by HarperCollinsPublishers Ltd. /
Cover illustration by Becky Bettesworth) -
英国の有名な画家であるアミアス・クレイル(Amyas Crale)が
毒殺される事件現場になった砲台庭園が描かれている。


2024年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「白昼の悪魔」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -

名探偵エルキュール・ポワロは、デヴォン州の密輸業者島(Smugglers’ Island)にある

Jolly Roger Hotel に滞在して、静かな休暇を楽しんでいた。

同ホテルには、美貌の元女優で、実業家ケネス・マーシャル(Captain Kenneth Marshall)の後妻となった

アリーナ・ステュアート・マーシャル(Arlena Stuart Marshall)が、

この島で何者かによって殺害されることになる。


2024年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「エンドハウスの怪事件」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
「コーニッシュ リヴィエラ(Cornish Riviera)」と呼ばれる
コンウォール州(Cornwall)のセントルー村(St. Loo - 架空の場所)に近い
マジェスティックホテル(Majestic Hotel)において、
エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングス大尉は、優雅な休暇を楽しんでいた。
一方、新聞では、世界一周飛行に挑戦中の飛行家である
マイケル・シートン大尉(Captain Michael Seton)が、
太平洋上で行方不明になっていることを伝えていた。
テラスから庭へと通じる階段でポワロが足を踏み外したところ、
丁度運良くそこに通りかかったニック・バックリー(Nick Buckley -
本名:マグダラ・バックリー(Magdala Buckley))に助けられる。
彼女は、ホテルからほんの目と鼻の先にある岬の突端に立つ
やや古びた屋敷エンドハウス(End House)の若き女主人であった。


また、映画化に先立って、「ハロウィーンパーティー(Hallowe’en Party)」(1969年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2023年10月6日 / 10月11日付ブログで紹介済)も、2023年に出ている。


2023年に英国の HarperCollins Publishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「ハロウィーンパーティー」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design by Sarah Foster / HarperCollinsPublishers Ltd.
Cover images by Shutterstock.com)


更に、2025年には、動物をテーマにした「もの言えぬ証人(Dumb Witness)」(1937年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2025年6月29日 / 7月3日付ブログで紹介済)と「鳩のなかの猫(Cat Among the Pigeons)」(1959年)の愛蔵版(ハードバック版 → 2025年8月3日 / 8月4日付ブログで紹介済)が出版された。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「もの言えぬ証人」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
小緑荘の女主人であるエミリー・アランデルの
飼い犬であるボブ(Bob)と犬の遊び道具のボールが描かれている。
また、
エミリー・アランデルが転落して、
寝込む原因となった階段が、画面右手に描かれている。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
小説のタイトルの上に留まっている鳩達と
床の上に静かに座り、鳩達を狙っている猫が描かれている。


今回は、昨年(2025年)の冬に出た「シタフォードの謎(東京創元社)/ シタフォードの秘密(早川書房)(The Sittaford Mystery)」(1931年)について、紹介したい。

本作品は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第11作目に該り、エルキュール・ポワロやミス・ジェーン・マープル等が登場しないノンシリーズ作品である。

なお、「シタフォードの謎」の場合、米国版のタイトルは、「Murder at Hazelmoor」が使用されている。


事件の舞台となるのは、デヴォン州(Devon)ダートムーア(Dartmoor)の周辺部に所在するシタフォード(Sittaford)と言う小さな村である。


海軍のジョーゼフ・アーサー・トリヴェリアン大佐(Captain Joseph Arthur Trevelyan)は、10年前に退役した後、シタフォード村に退き、シタフォード荘(Sittaford House)と言う屋敷を建てて、そこに住んでいた。

ある年の10月の終わり頃、不動産エージェント経由、冬の間、シタフォード荘を借りたいと言う依頼があり、先方が提示した家賃の額も非常に良かったため、ジョーゼフ・アーサー・トリヴェリアン大佐は、シタフォード村を出ると、シタフォード村から6マイル離れたエクスハンプトン(Exhampton)と言う村に所在するヘイゼルムーア荘(Hazelmoor)を借りて、転居していた。

そして、南アフリカから英国へとやって来たウィレット夫人(Mrs. Willett)と娘のヴァイオレット・ウィレット(Miss Violet Willett)の2人がシタフォード荘に入居して、約2ヶ月が経過する。


なお、シタフォード荘の周りには、6つのコテージがあり、以下の人物が住んでいた。


*1号コテージ:ジョン・エドワード・バーナビー少佐(Major John Edward Burnaby - ジョーゼフ・アーサー・トリヴェリアン大佐の友人)

*2号コテージ:ワイアット大尉(Captain Wyatt - 病人)+使用人(インド人)のアブドゥル(Abdul)

*3号コテージ:ライクロフト氏(Mr. Rycroft - 心霊研究会(Psychical Research Society)会員)

*4号コテージ:キャロライン・パーシハウス(Miss Caroline Percehouse - 未婚の婦人)+ロナルド・ガーフィールド(Ronald Garfield - キャロラインの甥 / 愛称:ロニー(Ronnie))

*5号コテージ:カーティス氏(Mr. Curtis - シタフォード荘のの元庭師)+カーティス婦人(Mrs. Curtis - カーティス氏の妻)

*6号コテージ:デューク氏(Mr. Duke - 最近、シタフォード村に越して来た人物)


2026年3月18日水曜日

ロンドン クレイヴンストリート25番地(25 Craven Street)

米国の作家 / 小説家であるハーマン・メルヴィルが住んでいた
クレイヴンストリート25番地の建物全景
<筆者撮影>


印刷業で成功を収めた後、政界へ進出したベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年 / 米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者 → 2026年2月20日 / 2月26日付ブログで紹介済)は、英国領北米植民地における待遇改善を要求するため、1757年に、ペンシルヴェニア植民地(Pennsylvania Assembly)により、英国へと派遣される。



彼は、1757年から1775年までの約20年間、現在のシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)のストランド地区(Strand)内にあるクレイヴンストリート36番地(36 Craven Street → 2026年2月27日付ブログで紹介済)に間借りしており、現在、この建物は、「ベンジャミン・フランクリンハウス(Benjamin Franklin House)」として、一般に公開されている。


クレイヴンストリート25番地の建物を見上げたところ
<筆者撮影>


チャリングクロス駅(Charing Cross Station → 2014年9月20日付ブログで紹介済)の前を通って東西に延びるストランド通り(Stand → 2015年3月29日付ブログで紹介済)からテムズ河(River Thames)へ向かい、クレイヴンストリート(Craven Street → 2014年8月3日付ブログで紹介済)が南北に延びている。

クレイヴンストリート36番地の建物は、クレイヴンストリートの東側に、チャリングクロス駅に隣接するように建っている。


クレイヴンストリート25番地の建物入口(その1)
<筆者撮影>


クレイヴンストリートには、ベンジャミン・フランクリン以外にも、著名人が住んでいた建物がある。

ドイツの詩人 / 文芸評論家 / エッセイスト / ジャーナリストであるクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Henrich Heine:1797年ー1856年)が一時住んでいたクレイヴンストリート32番地(32 Craven Streetについては、2026年3月2日付ブログで既に紹介済であるが、クレイヴンストリートには、著名人が住んでいた建物がもう1軒ある。

それは、クレイヴンストリート25番地(25 Craven Street)の建物で、ベンジャミン・フランクリンが住んでいたクレイヴンストリート36番地やクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネが住んでいたクレイヴンストリート32番地と同じ側(=クレイヴンストリートの東側)に建っている。


クレイヴンストリート25番地の建物入口(その2)
<筆者撮影>


クレイヴンストリート25番地の建物には、米国の作家 / 小説家で、「白鯨(Moby-Dick or The Whale)」(1851年)等の作者として有名なハーマン・メルヴィル (Herman Melville:1819年ー1891年)が一時住んでいた。


日本の出版社である岩波書店から
岩波文庫として出版されている

ハーマン・メルヴィル作「白鯨(上)」の表紙
       カバーデザイン: 中野 達彦
 カバーカット: ロックウェル・ケント
(Rockwell Kent:1882年ー1971年 - 米国の画家 / イラストレーター)


1819年8月1日、米国ニューヨーク(New York)の裕福な食料品輸入商の三男として生まれたハーマン・メルヴィルだったが、家の経済状態が悪化し、父親が多額の借金を残して亡くなったため、已む無く、兄の紹介で船員となる。

船員として捕鯨船に乗ったもの、厳しい環境に嫌気が差したため、仲間と一緒に脱走し、各地に滞在した後、米国に戻ったハーマン・メルヴィルは、文筆業で身を立てようと考え、波乱万丈な航海を体験したことを踏まえて、当時流行していた海洋小説に手を染めた。


クレイヴンストリート25番地の建物外壁には、
ハーマン・メルヴィルがここに住んでいたことを示す
イングリッシュヘリテージ(English Heritage)のプラークが掛けられている。
<筆者撮影>


ハーマン・メルヴィルは、マルケサス諸島(Marquesas Islands)のヌク・ヒヴァ島(Nuku Hiva)での体験をベースにした処女作「タイピー(Typee)」を1846年に発表し、タヒチ島(Tahiti)周辺でのベースにした第2作「オムー(Omoo)」を1847年に出版した。


クレイヴンストリート25番地の建物外壁に掛けられている
ハーマン・メルヴィルがここに住んでいたことを示すプラークのアップ
<筆者撮影>


その後、彼は、太平洋を舞台にした寓話的作品「マーディ(Mardi and a Voyage Thither)」を1849年に発表し、リヴァプール(Liverpool)への初航海に取材した「レッドバーン(Redburn, His First Voyaga)」を同年に出版した後、英国へ旅行した際、クレイヴンストリート25番地に短期滞在した。

英国に滞在した後、ハーマン・メルヴィルは、パリ、ブリュッセル、ケルンやラインラントを巡っている。


2026年3月17日火曜日

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)- その1

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で所蔵 / 展示
されている
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの肖像画
(by Jacques-Emile Blanche / oil on canvas / 1895年)


戯曲「サロメ(Salome → 2026年3月11日 / 3月12日付ブログで紹介済)」は、アイルランド出身の詩人 / 作家 / 劇作家で、シャーロック・ホームズシリーズの作者サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle:1859年ー1930年)の友人でもあったオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O’Flahertie Wills Wilde:1854年ー1900年)による一幕物の悲劇で、新約聖書を元にしている。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
オスカー・ワイルドの写真の葉書
(Napoleon Sarony / 1882年 / Albumen panel card
305 mm x 184 mm) 


戯曲「サロメ」は、1891年にフランス語で執筆されて、1893年にパリで出版された。

同戯曲の英訳版は、1894年に出版されているが、当時、オスカー・ワイルドの同性の恋人だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス(John Sholto Douglas, 9th Marquess of Queensberry:1844年ー1900年)の三男で、作家 / 詩人 / 翻訳家のロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas:1870年ー1945年)が英訳を行ったものの、出来が悪かったため、オスカー・ワイルド自身が、その英訳を修正している。

同戯曲の英訳版には、英国のイラストレーター / 詩人 / 小説家であるオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley:1872年ー1898年)による挿画が使用されている。


オスカー・ワイルド作戯曲「サロメ」の英訳版に付されている
オードリー・ビアズリーによる挿画 - タイトルページ


ヴィクトリア朝時代の世紀末美術を代表するオーブリー・ビアズリーは、1872年8月21日、ビアズリー夫妻の長男として、イングランド南部のサセックス州(Sussex)ブライトン(Brighton)に出生。

父親のヴィンセント・ポール・ビアズリー(Vincent Paul Beadsley:1839年-1909年)は、金銀細工師の息子だったが、肺結核(tuberculosis)のため、特に職業には就いておらず、祖父から受け継いだ遺産で生活していた。

母親のエレン・アグナス・ピット(Ellen Agnus Pitt:1846年ー1932年)は、軍医(少佐)ウィリアム・ピット(William Pitt)の娘で、ブライトンでは著名かつ由緒ある家系だっため、結婚した二人の間には、社会的な格差があった。

オーブリー・ビアズリーの1歳上には、姉のメイベル・ビアズリー(Mable Beardsley:1871年ー1916年)が居り、後に女優となった。


オーブリー・ビアズリーは、父方から工芸家としての器用さを受け継ぎ、また、母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継いだ。

肺結核のため、稼ぎがなかった父ヴィンセントに代わり、母エレンが、音楽教師として働いて、オーブリー・ビアズリーに文学や音楽の本格的な教育を施した。その甲斐もあって、オーブリー・ビアズリーは、学校に上がる前に、ピアノでショパンを弾きこなせるになり、周囲から音楽の天才と呼ばれる。


オーブリー・ビアズリーは、1878年、ブライトン近郊の寄宿学校ハミルトンロッジ(Hamilton Lodge)に入学し、絵を描き始めるが、1879年に肺結核の兆候が出てきたため、1881年にハミルトンロッジを退学。

オーブリー・ビアズリーの治療のため、同年(1881年)、ビアズリー一家は、ロンドン 南郊のエプソム(Epsom)へ転居、更に、1883年にロンドンへ移住する。

そして、1884年に、ビアズリー一家は、再びブライトンに戻った。 


オーブリー・ビアズリーは、1885年1月に地元の初等中学校(Brighton, Hove and Sussex Grammar School)に入学。学費については、母方の大伯母が援助した。

彼は、4年間の勉学を修めて、1888年に同初等中学校を卒業。


         

2026年3月14日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その26A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「もの言えぬ証人」ペーパーバック版の表紙 -
バークシャー州マーケットベイジングの小緑荘に住む
エミリー・ハリエット・ラヴァートン・アランデルの元を甥や姪達が訪れた日の夜、
エミリー・アランデルは階段から転落する。
彼女が亡くなった後、小緑荘に赴いたポワロは、
階段の上の両側にニスが塗られた釘が打たれているのを発見して、
そこに紐が張られていたのではないかと推理する。
つまり、エミリー・アランデルが階段から転落したのは、
単なる事故ではなく、階段の上に張られた紐に躓いて転落させれた疑いが強まった。
表紙には、階段の上に立つエミリー・アランデルが描かれていると思われる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(56)テリア犬のボブ(Bob the dog)



ジグソーパズルの下段の一番左手にあるテーブルの近くの床の上に、テリア犬のボブが居る。


(57)燐光を発する煙に似たもの(phosphorescent smoke)



ジグソーパズルの上段の一番右手にある回廊のところに、燐光を発する煙に似たものが立ち上っている。


(58)階段(stairwell)



ジグソーパズル中央に立つエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の右斜め後ろの位置に立っているジェイムズ・ハロルド・ジャップ警部(Inspector James Harold Japp / 後に主任警部(Chief Inspector)に昇進 → 2025年10月24日付ブログで紹介済)の背後にある柱の右側の部分に、階段が描かれた絵が額縁に入って掛かっている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1937年に発表したもの言えぬ証人(Dumb Witness)」である。

「もの言えぬ証人」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第21作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第14作目に該っている。


なお、「もの言えぬ証人」の場合、米国版のタイトルは、「Poirot Loses a Client(ポワロ、依頼人を失う)」が使用されている。

米国版のタイトルは、「Murder at Littlegreen House(小緑荘の殺人)」や「Mystery at Littlegreen House(小緑荘の謎)」へ改題されている。


1936年6月28日、エルキュール・ポワロは、エミリー・アランデル(Emily Arundell - なお、フルネームは、エミリー・ハリエット・ラヴァートン・アランデル(Emily Harriet Laverton Arundell))と名乗る老婦人から、自分の命に危険が迫っていることを示唆する内容の手紙を受け取る。奇妙なことに、手紙の日付は、その年の4月17日になっており、手紙が書かれてから2ヶ月後も経ってから投函されているのだった。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


ポワロの相棒で、友人でもあるアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)は、「老婦人のとりとめのない妄想ではないか?」と疑問を呈したが、手紙が差し出された経緯について興味を覚えたポワロは、ヘイスティングス大尉を伴って、事実を確かめるために、エミリー・アランデルが住むバークシャー州(Berkshire)のマーケットベイジング(Market Basing)へと赴くことにした。


アーサー・ヘイスティングス大尉は、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロの左斜め後ろに居る。

<筆者撮影>


ポワロとヘイスティングス大尉の二人が、エミリー・アランデルの住所である小緑荘(Littlegreen House)を訪れると、屋敷の前には、「売家」の札が掲げられていた。疑問を抱いた二人が地元で尋ねると、エミリー・アランデル本人は、1ヶ月以上も前の1936年5月1日に亡くなっていたのである。