2026年1月31日土曜日

ロンドン ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)

ケンジントンガーデンズの北西の入口近くにある看板
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1944年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第14作目に該る「爬虫類館の殺人He Wouldn’t Kill Patience → 2025年11月17日 / 11月19日付ブログで紹介済)」の舞台は、第2次世界大戦(1939年-1945年)下の首都ロンドンである。


京創元社が発行する創元推理文庫「爬虫類館の殺人」の表紙
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ
カバーデザイン:折原 若緒
  カバーフォーマット:本山 木犀


ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)内にあるロイヤルアルバート動物園(Royal Albert Zoological Gardens)は、園長であるエドワード・ベントン(Edward Benton)によって運営されていた。ロイヤルアルバート動物園の中でも、世界の蛇、蜥蜴や毒蜘蛛等を集めた爬虫類館は、その名物で、人気を集めていた。



そんなロイヤルアルバート動物園であったが、ドイツ軍の爆撃による空襲の脅威下、閉園の危機を迎える。ドイツ軍の爆撃による空襲により、毒蛇、毒蜥蜴や毒蜘蛛、更に、毒のある昆虫等が逃げ出して、サウスケンジントン中を這い回るリスクを抱えていたからである。



1940年9月6日(金)の午後、爬虫類館内において、長年にわたって反目している奇術師の両家に属するケアリー・クイント(Carey Quint - 奇術師の青年)とマッジ・パリサー(Madge Palliser - 奇術師の女性)の2人は、飼育員のマイク・パーソンズと一騒動を起こして、保管用のガラスケースを壊してしまい、大蜥蜴(ジャイアントグリーンアミーバ)とアメリカドクトカゲが逃げ出す要因をつくってしまった。そして、そこに偶々居合わせた陸軍省の御意見番であるヘンリー・メリヴェール卿は、危うく2匹の蜥蜴に噛まれるところだった。

こうして、「爬虫類館の殺人」の物語は始まる。



設定上、エドワード・ベントンが園長として運営するロイヤルアルバート動物園は、ケンジントンガーデンズ内にあることになっているが、あくまでも、これは架空の話であり、ロイヤルアルバート動物園がケンジントンガーデンズ内に存在したことはない。


1911年からある樹木の幹が保存されている。
<筆者撮影>


彼らのロマンス - ロマンスと呼べればの話だが - が始まったのは、ロイヤル・アルバート動物園の爬虫類館でのことだった。年老いたマイク・パーソンズはその始まりを見て仰天した。ケンジントン・ガーデンズにあるロイヤル・アルバート動物園の長い歴史でも、こんな騒ぎが起こったのは、一九〇四年の秋にジェゼベルが檻から脱走しかけたとき以来だ。

(白須 清美訳)



新たな空襲警報は、その夜八時二十分に鳴り響いた。ちょうどケアリ・クイントが、ピカデリーのセント・トマス・ホールを出たところだった。


(中略)


ケアリはタクシーに手を上げた。一九四〇年の九月初めのことだったので、うまくつかまえることができた。シートに深く座り、人生の複雑さに思いを馳せると、マッジ・パリサーの姿が、まるで目の前に座っているかのように鮮やかに思い出された。その姿が自分をにらみ返しているようにさえ、ケアリには感じられた。


(中略)


その問題を悲観し、現実離れした解決法を考えているうちに、タクシーはベイズウォーター・ロードの端で彼を降ろした。

(白須 清美訳)


ケンジントンガーデンズの北西の角の入口を公園内から見たところ -
この辺りに、ロイヤルアルバート動物園はあったものと思われる。
<筆者撮影>


上記の記述から、ロイヤルアルバート動物園は、ケンジントンガーデンズの北西の角に所在していることが判る。


ケンジントンガーデンズの北西の角の入口を
ベイズウォーターロード(Bayswater Road → 2026年1月30日付ブログで紹介済)側から見たところ -
画面奥の辺りに、ロイヤルアルバート動物園はあったものと思われる。
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズは、ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)の西側に隣接する王立公園である。

ケンジントンガーデンズの大部分は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にあるが、西側の一部がケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内に属している。


画面奥に左右に植えられている生垣が、
ケンジントンガーデンズの西端と高級住宅街との境界線に該る。
<筆者撮影>

ハイドパーク一帯は、11世紀頃からウェストミンスター修道院(Westminster Abbey:現ウェストミンスター寺院)が所有していた。


ケンブリッジ大学(University of Cambridge)創立800周年を記念して、
英国の児童文学作家 / イラストレーターである
クェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が描いた
ヘンリー8世とキングスカレッジ合唱団の絵葉書
<筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum
→ 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入>


そして、時代は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)による統治時まで下る。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
アン・ブーリンの肖像画の葉書
(Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel
543 mm x 416 mm) 


ヘンリー8世は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚とキャサリン王妃の侍女メアリー・ブーリン(Mary Boleyn:1499年 / 1500年頃ー1543年)の妹(諸説あり)であるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)との結婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らを英国国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会から英国国教会の分離を行った。

ヘンリー8世が宗教改革の一環として実施した修道院解散(Dissolution of the monasteries:1536年ー1539年)政策に基づき、ウェストミンスター修道院の土地を召し上げた以降、英国王家の狩猟場として使用された。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
チャールズ1世の肖像画の葉書
(Daniel Mytens
 / 1631年 / Oil on canvas
2159 mm x 1346 mm) 


公園として一般に開放されるようになったのは、ステュアート朝(House of Stuart)のチャールズ1世(Charles Ⅰ:1600年ー1649年 → 2017年4月29日付ブログで紹介済)治世の1637年のことである。隣接するケンジントンガーデンズは、当時はまだハイドパークの一部であった。

ナショナルポートレートギャラリーで所蔵 / 展示されているアン女王の肖像画
(By Michael Dahl
 / Oil on canvas / 1702年)
<筆者撮影>


セントポール大聖堂(St. Paul's Cathedral
→ 2018年8月18日 / 8月25日 / 9月1日付ブログで紹介済)の西側正面前の広場には、
1666年のロンドン大火(The Great Fire of London →
2018年9月8日 / 9月15日 / 9月22日 / 9月29日付ブログで紹介済)後に
同大聖堂が再建された1710年当時の君主で、
最初のグレイトブリテン王国君主となったアン女王の像が設置されている。
<筆者撮影>


ステュアート朝の第6代国王であるアン(Anne Stuart:1665年-1714年 在位期間:1702年ー1714年)による指示に基づき、英国の造園家であるヘンリー・ワイズ(Henry Wise:1653年ー1738年)とチャールズ・ブリッジマン(1690年ー1738年)が、ハイドパークの造園化を進めた。この時に、ラウンド池(Round Pond)が設けられた。


ラウンド池を西側から眺めたところ
<筆者撮影>


ハノーヴァー朝(House of Hanover)のジョージ2世(George Ⅱ:1683年ー1760年)の妃のキャロライン王妃(Queen Caroline:1683年ー1737年)は、国情に疎く、思慮にも欠けると言われた国王の助言役となり、当時の首相ロバート・ウォルポール(Robert Walpole:1676年ー1745年)と連携して、国王に代わり、安定した統治を行ったことで知られている。

彼女は、学問や芸術に加えて、造園にも造詣が深く、彼女の指示で公園内にサーペンタイン湖(The Serpentine)が設けられた。サーペンタイン湖が完成したのは、1733年である。


北側からサーペンタイン湖を見たところ
<筆者撮影>


サーペンタイン湖が設けられたことに伴い、公園の東側はハイドパークに、そして、公園の西側はケンジントンガーデンズとして、正式に分けられることとなった。また、1826年に湖の途中に橋が架けられたことに伴い、北側の湖をザ・ロング・ウォーター(The Long Water)に、そして、南側の湖をサーペンタイン湖として分けて呼ばれるようになった。


イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター
<筆者撮影


厳密に言うと、公園内を南北に延びるウェストキャリッジドライブ(West Carriage Drive → 2024年11月5日付ブログで紹介済 / The Ring とも呼ばれている)が、現在、ハイドパーク(公園の東側)とケンジントンガーデンズ(公園の西側)の境界線となっている。


手前にみえるのが、ハイドパークとケンジントガーデンズを東西に分けているウェストキャレッジドライブ。
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内に設置されている案内板 -
ウェストキャレッジドライブが、
ハイドパークとケンジントガーデンズを東西に分ける境界線となっている。
<筆者撮影>


1841年になって、ケンジントンガーデンズは、一般に開放された。


ケンジントンガーデンズ内には、現在、


*ケンジントン宮殿(Kensington Place)


ケンジントン宮殿の入口から、同宮殿を見たところ
<筆者撮影>


*ヴィクトリア女王像(Queen Victoria Statue)


ヴィクトリア女王像は、東の方角を向いて設置されている。
<筆者撮影>


*アルバート公記念碑(Albert Memorial → 2016年3月13日付ブログで紹介済)


アルバート公記念碑の全景
<筆者撮影>


金色に輝くアルバート公像
<筆者撮影>


*サーペンタインギャラリー(Serpentine Gallery)

*ラウンド池

*ザ・ロング・ウォーター

*イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)


ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その1)
<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内にあるイタリアンガーデンズ(その2)
<筆者撮影>


*ピーターパン像(Peter Pan Statue)


ザ・ロング・ウォーターの西岸に建つピーターパンの像 -
ジェイムズ・バリーは、1912年5月に、
養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 /
彼の親友であるディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像を建てた。
英国の彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton:1860年ー1928年)は、
実際には、別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、
ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。
ジェイムズ・バリーによると、
「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。

<筆者撮影>


等の見どころがある。


ケンジントンガーデンズへ北側からアクセスする場合、セントラルライン(Central Line)が停車する地下鉄ランカスターゲート駅(Lancaster Gate Tube Station)と地下鉄クイーンズウェイ駅(Queensway Tube Station)からが便利である。

また、南側からアクセスする場合は、サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)の2線が停車する地下鉄ハイストリートケンジントン駅(High Street Kensington Tube Station → 2016年6月25日付ブログで紹介済)からが近い。


ケンジントンハイストリート(Kensington High Street)の北側から見た
地下鉄ハイストリートケンジントン駅
<筆者撮影>


「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名な劇作家/童話作家であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)が、1902年から1909年にかけて、ケンジントンガーデンズの北側にあるベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road → 2015年7月25日付ブログで紹介済)に住んでいた。


レンスターテラス(Leinster Terrace)の入口から見たベイズウォーターロード100番地
<筆者撮影>


サー・ジェイムズ・バリーがベイズウォーターロード100番地に住んでいたことを示すブループラーク
<筆者撮影>


ジェイムズ・バリーは、このベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作品を執筆している。


*「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)- 第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。

*戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)

*「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)

*「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)


上記の「ケンジントン公園のピーターパン」において、ケンジントンガーデンズが物語の舞台として使用されていて、ピーターパンがネヴァーランド(Neverland)へ冒険に行く前日譚が描かれている。 


2026年1月30日金曜日

ロンドン ベイズウォーターロード(Bayswater Road)

地下鉄ランカスターゲート駅近くのベイズウォーターロードと
その北側に建つフラット(その1)
<筆者撮影>

米国のペンシルヴェニア州(Pennsylvania)に出生して、英国人のクラリス・クルーヴス(Clarice Cleaves)との結婚後、1932年から1946年にかけて英国のブリストル(Bristol)に居を構えていた米国の推理作家で、「不可能犯罪の巨匠」とも呼ばれているジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr:1906年ー1977年)が、カーター・ディクスン(Carter Dickson)という別名義で1944年に発表した推理小説で、ヘンリー・メリヴェール卿(Sir Henry Merrivale)シリーズの長編第14作目に該る「爬虫類館の殺人He Wouldn’t Kill Patience → 2025年11月17日 / 11月19日付ブログで紹介済)」の舞台は、第2次世界大戦(1939年-1945年)下の首都ロンドンである。


京創元社が発行する創元推理文庫「爬虫類館の殺人」の表紙
    カバーイラスト:ヤマモト マサアキ
カバーデザイン:折原 若緒
  カバーフォーマット:本山 木犀


ケンジントンガーデンズ(Kensington Gardens)内にあるロイヤルアルバート動物園(Royal Albert Zoological Gardens)は、園長であるエドワード・ベントン(Edward Benton)によって運営されていた。ロイヤルアルバート動物園の中でも、世界の蛇、蜥蜴や毒蜘蛛等を集めた爬虫類館は、その名物で、人気を集めていた。



そんなロイヤルアルバート動物園であったが、ドイツ軍の爆撃による空襲の脅威下、閉園の危機を迎える。ドイツ軍の爆撃による空襲により、毒蛇、毒蜥蜴や毒蜘蛛、更に、毒のある昆虫等が逃げ出して、サウスケンジントン中を這い回るリスクを抱えていたからである。


地下鉄ランカスターゲート駅近くのベイズウォーターロードと
その北側に建つフラット(その2)
<筆者撮影>


1940年9月6日(金)の午後、爬虫類館内において、長年にわたって反目している奇術師の両家に属するケアリー・クイント(Carey Quint - 奇術師の青年)とマッジ・パリサー(Madge Palliser - 奇術師の女性)の2人は、飼育員のマイク・パーソンズと一騒動を起こして、保管用のガラスケースを壊してしまい、大蜥蜴(ジャイアントグリーンアミーバ)とアメリカドクトカゲが逃げ出す要因をつくってしまった。そして、そこに偶々居合わせた陸軍省の御意見番であるヘンリー・メリヴェール卿は、危うく2匹の蜥蜴に噛まれるところだった。

こうして、「爬虫類館の殺人」の物語は始まる。


地下鉄ランカスターゲート駅近くのベイズウォーターロードと
その北側に建つフラット(その3)
<筆者撮影>


設定上、エドワード・ベントンが園長として運営するロイヤルアルバート動物園は、ケンジントンガーデンズ内にあることになっているが、具体的な場所について、原作には、以下のような記述がある。



新たな空襲警報は、その夜八時二十分に鳴り響いた。ちょうどケアリ・クイントが、ピカデリーのセント・トマス・ホールを出たところだった。


(中略)


ケアリはタクシーに手を上げた。一九四〇年の九月初めのことだったので、うまくつかまえることができた。シートに深く座り、人生の複雑さに思いを馳せると、マッジ・パリサーの姿が、まるで目の前に座っているかのように鮮やかに思い出された。その姿が自分をにらみ返しているようにさえ、ケアリには感じられた。


(中略)


その問題を悲観し、現実離れした解決法を考えているうちに、タクシーはベイズウォーター・ロードの端で彼を降ろした。

(白須 清美訳)


地下鉄クイーンズウェイ駅近くのベイズウォーターロードと
その北側に建つフラット
<筆者撮影>


上記の記述から、ロイヤルアルバート動物園は、ケンジントンガーデンズの北西の角に所在していることが判る。


地下鉄クイーンズウェイ駅近くのベイズウォーターロードと
その北側に建つヒルトンホテル
<筆者撮影>


ベイズウォーターロード(Bayswater Road)は、ハイドパーク(Hyde Park → 2015年3月14日付ブログで紹介済)と隣接するケンジントンガーデンズの北側を東西に延びる通りである。

ベイズウォーターロードの東側は、セントラルライン(Central Line)が停車する地下鉄マーブルアーチ駅(Marble Arch Tube Station)近くのマーブルアーチ(Marble Arch)から始まり、セントラルラインの線路と並行して、西へ延びて、地下鉄ランカスターゲート駅(Lancaster Gate Tube Station)と地下鉄クイーンズウェイ駅(Queensway Tube Station)の前を通り、セントラルライン、サークルライン(Circle Line)とディストリクトライン(District Line)の3線が停車する地下鉄ノッティングヒルゲート駅(Notting Hill Gate Tube Station)の手前で終わっている。

ベイズウォーターロードの大部分は、ロンドンの中心部であるシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にあるが、西側の一部がケンジントン&チェルシー王立区(Royal Borough of Kensington and Chelsea)内に及んでいる。


ケンジントンガーデンズ内から見たヒルトンホテル
<筆者撮影>


ベイズウォーターロードの西端は、ケンジントンガーデンズの北側であるが、ベイズウォーターロードの東端は、ハイドパークの北側に該るため、ロイヤルアルバート動物園は、ケンジントンガーデンズの北西の角に所在していると考えた次第。


地下鉄クイーンズウェイ駅近くのベイズウォーターロードと
その北側に建つヒルトンホテルとフラット
<筆者撮影>


「ピーターパン(Peter Pan)」シリーズ等の作者として有名な劇作家/童話作家であるサー・ジェイムズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie:1860年ー1937年)が、1902年から1909年にかけて、ベイズウォーターロード100番地(100 Bayswater Road → 2015年7月25日付ブログで紹介済)に住んでいた。


レンスターテラス(Leinster Terrace)の入口から見たベイズウォーターロード100番地
<筆者撮影>


サー・ジェイムズ・バリーがベイズウォーターロード100番地に住んでいたことを示すブループラーク
<筆者撮影>


cこのベイズウォーターロード100番地をベースにして、以下の有名な作品を執筆している。


*「小さな白い鳥(The Little White Bird)」(1902年)- 第13章から第18章にピーターパンが初めて登場。

*戯曲「ピーターパンー大人になりたがらない少年(Peter Pan, or The Boy Who Wouldn't Grow Up)」(1904年)

*「ケンジントン公園のピーターパン(Peter Pan in Kensington Gardens)」(1906年)

*「ピーターパンとウェンディー(Peter and Wendy)」(1911年)


イタリアンガーデンズの南側にあるザ・ロング・ウォーター
<筆者撮影>


ザ・ロング・ウォーターの西岸に建つピーターパンの像 -
ジェイムズ・バリーは、1912年5月に、
養子マイケル(Michael Davies:1900年ー1921年 /
彼の親友であるディヴィス夫妻の四男)をモデルにしたピーターパンの像を建てた。
英国の彫刻家サー・ジョージ・フランプトン(Sir George Frampton:1860年ー1928年)は、
実際には、別の子供をモデルにして、ピーターパンの像を制作したため、
ジェイムズ・バリーを大いに失望させた。
ジェイムズ・バリーによると、
「ピーターパンの中に悪魔が表現されていない。(It doesn't show the devil in Peter.)」とのこと。

<筆者撮影>


ケンジントンガーデンズ内イタリアンガーデンズ(Italian Gardens)の南側にある湖ザ・ロング・ウォーター(The Long Water)の西岸には、ピーターパンの像(Peter Pan Statue)が建っている。


         

2026年1月29日木曜日

ウィリアム・ホガース(William Hogarth)- その2

ナショナルギャラリーにおいて所蔵 / 展示されている
ウィリアム・ホガース作
「当世風結婚」(1743年ー1745年:6枚の連作油彩画)は、
欲得ずくの政略結婚とその不幸な結末を描いている。
画面上段:左側から「第1場面:婚約(The marriage contract)」、
「第2場面:結婚直後(Shortly after the marriage)」、そして、
「第3場面:偽医者への訪問(The visit to the quack doctor)」。
画面下段:左側から「第4場面:伯爵夫人の朝見の儀(The coutess's morning levee)」、
「第5場面:伯爵の死(The killing of the earl)」、そして、
「第6場面:伯爵夫人の自殺(The suicide of the countess)」。
<筆者撮影>

英国の TV 会社 ITV 社による制作の下、「Agatha Christie’s Poirot」の第20話(第2シリーズ)かつアガサ・クリスティー生誕100周年記念スペシャルとして、1990年9月16日に放映されたアガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)作「スタイルズ荘の怪事件The Mysterious Affair at Styles → 2023年12月3日 / 12月6日付ブログで紹介済)」(1920年)の TV ドラマ版において、物語の冒頭、第一次世界大戦(1914年ー1918年)中に負傷したアーサー・ヘイスティングス中尉(Lieutenant Arthur Hastings - アガサ・クリスティーの原作では、大尉(Captain)となっている)が彼の旧友であるジョン・キャヴェンディッシュ(John Cavendish)と再会する場面が、セントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の北翼(North Wing → 2025年12月15日 / 12月19日 / 12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)にある「ホガースの階段(Hogarth Staircase → 2025年12月15日付ブログで紹介済)」と呼ばれる吹き抜け階段において撮影されている。


下から「ホガースの階段」と呼ばれる吹き抜け階段を見上げたところ -
アーサー・ヘイスティングス中尉と旧友のジョン・キャヴェンティッシュの2人が
上から降りて来る場面が、この角度で撮影されている。
<筆者撮影>


(1)右側の壁:「善きサマリア人(The Good Samaritan)」(1737年)

サマリア人善意で救命行為を行なっている場面が描かれている。


吹き抜け階段の上から見たウィリアム・ホガース作「善きサマリア人」
<筆者撮影>


(2)左側の壁:「ベテスダの池(The Pool of Bethesda)」(1736年)

万病を治す聖なる池において、病人が傷を癒している場面が描かれている。


吹き抜け階段の上から見たウィリアム・ホガース作「ベテスダの池」
<筆者撮影>


これらの壁画を描いた18世紀の英国画壇を代表する国民的画家のウィリアム・ホガース(William Hogarth:1697年ー1764年)は、1697年11月10日、ラテン語学校の教師であるリチャード・ホガース(Richard Hogarth)と母アン・ギボンズ(Anne Gibbons)の長男として、ロンドンのセントバーソロミュー病院の直ぐ近くのバーソロミュークローズ(Bartholomew Close)に出生。


ナショナルギャラリーにおいて所蔵 / 展示されている
ウィリアム・ホガース作「自画像」(1745年) 
(Portrait of the Painter and his Pug)

<筆者撮影>


成長したウィリアム・ホガースは、当初、銀細工師(engraver)の弟子として働き始めたが、父リチャード・ホガースの破産、投獄、その後の死(1718年)を経て、版画家として生計を立てながら、絵画学校セントマーティンズレーンアカデミー(St. Martin’s Lane Academy)等で本格的に絵画を学ぶ。


ウィリアム・ホガースは、1725年からコヴェントガーデン(Covent Garden)の絵画学校で学んでいた際、同絵画学校を開いた英国の画家で、宮廷画家でもあったサー・ジェイムズ・ソーンヒル(Sir James Thornhill:1675年ー1734年)の娘であるジェーン・ソーンヒル(Jane Thornhill:1709年頃ー1789年)と駆け落ちをした後、サー・ジェイムズ・ソーンヒルの反対にもかかわらず、1729年3月23日に正式に結婚。

この頃から、彼は油彩画も手掛けるようになる。


ナショナルギャラリーの
ウィリアム・ホガースの作品が展示されている室内(その1)
<筆者撮影>

ジェーン・ソーンヒルと結婚したウィリアム・ホガースは、


*「娼婦一代記」(1732年:銅版画)→ 油彩画は、1755年に焼失

*「放蕩者一代記(A Rake’s Progress)」(1732年ー1732年:8枚の連作油彩画 / 1735年:銅版画)→ 油彩画は、サー・ジョン・ソーンズ博物館(Sir John Soane’s Museum → 2025年5月22日 / 5月30日 / 6月3日 / 6月13日付ブログで紹介済)が所蔵。


リンカーンズ・イン・フィールズ12番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟
<筆者撮影>


リンカーンズ・イン・フィールズ13番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟
<筆者撮影>


リンカーンズ・イン・フィールズ14番地の建物 -
サー・ジョン・ソーンズ博物館の一棟
<筆者撮影>


*「当世風結婚(Marriage A-la-Mode)」(1743年ー1745年:6枚の連作油彩画/ 1745年:銅版画)→ 油彩画は、ナショナルギャラリー(National Gallery)が所蔵。


等の当時の世相を痛烈に風刺した作品を発表して、庶民に人気を博し、風刺画の父と呼ばれるようになった。


ナショナルギャラリーの
ウィリアム・ホガースの作品が展示されている室内(その2)
<筆者撮影>


また、銅版画集の海賊版に悩まされたウィリアム・ホガースは、英国議会に対して、著作権の保護を訴え、「ホガース法」と呼ばれる著作権法の成立に尽力。

彼の尽力の結果、著作権法は1735年に施行され、画家の社会的地位の向上を促したのである。