横にひび割れた鏡 - ジグソーパズル「アガサ・クリスティーの世界(The World of Agatha Christie)」の一部 |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」では、「ゴシントンホール(Gossington Hall - ミス・マープルの親友であるドリー・バントリー(Dolly Bantry → 2024年8月14日付ブログで紹介済)が所有していた邸宅)」を購入して、最近、セントメアリーミード村(St. Mary Mead)に引っ越して来た米国の映画女優であるマリーナ・グレッグ(Marina Gregg)と彼女の夫で、映画監督であるジェイスン・ラッド(Jason Rudd)が開催したセントジョン野戦病院協会(St. John Ambulance)支援パーティーの席上、マリーナ・グレッグを捕まえて、長い昔話を始めた同協会の幹事を務めるヘザー・バドコック(Mrs. Heather Badcock)が、突然倒れて、死亡してしまう事件が発生する。
スコットランドヤードのダーモット・クラドック主任警部(Chief Inspector Dermot Craddock)が捜査を担当し、検死解剖の結果、ヘザー・バドコックの死因は、推奨量の6倍もの精神安定剤を摂取したことによるもので、その精神安定剤は、マリーナ・グレッグが持っていたダイキリ(daiquiri)のグラス内に混入されており、自分の飲み物をこぼしたヘザー・バドコックに対して、マリーナ・グレッグがそのグラスを手渡したのであった。
ヘザー・バドコックとマリーナ・グレッグの会話を近くで聞いていたドリー・バントリーは、ヘザー・バドコックが長話をしている間、マリーナ・グレッグが非常に奇妙な表情を浮かべていたことに気付いた。
その違和感について、ドリー・バントリーは、セントジョン野戦病院協会支援パーティーに参加できなかったミス・マープルに対して、説明を行う。
「そうではなくて、マリーナ・グレッグの顔をよ。バドコックという女の話なんか、ひとことも聞いていなかったみたいな顔つきをしていたわ。相手の肩ごしに正面の壁を見つめているのよ。その見つめかたがねえ - どうにもわたしには説明できそうにないわ」
「そんなことを言わないで、なんとか努力してみてよ」とミス・マープルは言った。「そこのところが重要な点かもしれないのだから」
「一種の凍りついたような表情だったわ」と彼女は言葉をさがしさがし説明しようとした。「まるで、なにかを見たみたいな - 情景を描写するなんてむずかしいものなのねえ。ああ、そうだわ、『レディ・オブ・シャロット』をおぼえていない?鏡は横にひび割れぬ。”ああ、わが命運もつきたり”と、シャロット姫は叫べり。マリーナもそういった表情をしていたのよ。近頃の人はテニスンなんて古臭いというけれど、わたしは若いときには心をときめかせて『レディ・オブ・シャロット』を読んだものだし、いまだってそうなのよ」
「凍りついたような表情をしていたのね」ミス・マープルは考えこんだ。
(橋本福夫訳)
英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている アガサ・クリスティー作ミス・ジェイン・マープルシリーズ 「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙 <イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)> |
アガサ・クリスティー作「鏡は横にひび割れて」の題名は、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott)」をベースにしている。
Out flew the web and floated wide -
The mirror crack’d from side to side;
“The curse is come upon me,” cried
The Lady of Shalott.
織物はとびちり、ひろがれり
鏡は横にひび割れぬ
「ああ、呪いがわが身に」と、
シャロット姫は叫べり。
(橋本福夫訳)
アルフレッド・テニスンは、ヴィクトリア朝時代に活躍した英国の詩人で、1809年8月6日、英国リンカンシャー州(Lincolnshire)サマズビー(Somersby)に、牧師の子として出生。
彼は、1827年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)のトリニティーカレッジ(Trinity College)へ入学して、1831年まで学んだ。
アルフレッド・テニスンは、1830年に単独の詩集となる「Poems Chiefly Lyrical」を発表した後、1832年に詩「シャロット姫」を発表するも、酷評の憂き目に遭い、以降、約10年間沈黙してしまう。
1842年に発表した詩集「Poems by Alfred Tennyson」で復活したアルフレッド・テニスンは、1847年に叙事詩「The Princess」を発表すると、1850年には、英国の代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth:1770年ー1850年)の後継者として、「桂冠詩人(宮廷職で、優れた詩人に与えられる称号)」となる。
その後も各種の詩の発表を行った彼は、1884年にテニスン男爵(Baron Tennyson)に叙せられた。
初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンは、1892年10月6日に死去し、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に埋葬された。
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