ケンブリッジ大学創立800周年を記念して、 英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイクが描いた ヘンリー・ド・ウィントン / ジョン・チャールズ・シリングの絵葉書 <筆者がケンブリッジのフィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum → 2024年7月20日 / 7月24日付ブログで紹介済)で購入> |
2009年にケンブリッジ大学(University of Cambridge)が創立800周年を迎えたことを記念して、英国の児童文学作家 / イラストレーターであるクェンティン・ブレイク(Quentin Blake:1932年ー)が、ケンブリッジ大学に関係する人物を描いて、寄贈した。
ケンブリッジ大学の創立800周年を記念して、クェンティン・ブレイクが描いた人物達について、(1)アイザック・ニュートン(Issac Newton:1642年―1727年 → 2024年5月26日 / 5月30日付ブログで紹介済)、(2)チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin:1809年ー1882年 → 2024年6月9日 / 6月13日付ブログで紹介済)、(3)ヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)、(4)ジョン・ディー(John Dee:1527年ー1608年、または、1609年 → 2024年7月30日付ブログで紹介済)、(5)オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell:1599年ー1658年 → 2024年8月4日付ブログで紹介済)、(6)ジョン・ミルトン(John Milton:1608年ー1674年 → 2024年8月17日付ブログで紹介済)、(7)ウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce:1759年ー1833年 → 2024年8月21日付ブログで紹介済)や(8)第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)に続き、順番に紹介していきたい。
9番目に紹介するのは、ヘンリー・ド・ウィントン(Henry de Winton)とジョン・チャールズ・シリング(John Charles Thring)の2人である。
(9)ヘンリー・ド・ウィントン(1823年ー1895年)/ ジョン・チャールズ・シリング(1824年ー1909年)
ヘンリー・ド・ウィントンは牧師、ジョン・チャールズ・シリングは牧師 / 教師で、ケンブリッジ大学在籍中に、「ケンブリッジルール(Cambridge Rules)」と呼ばれるフットボール(サッカー)のルールを作成した人物である。
ヘンリー・ド・ウィントンは、1823年11月7日、ウォルター・ウィルキンス牧師(Reverend Walter Wilkins)の四男として、ウェールズ(Wales)のポーイス(Powys)にあるヘイ-オン-ワイ(Hay-on-Wye)に出生。彼は、当初、「ヘンリー・ウィルキンス」と言う名前だったが、両親が先祖の姓である「ド・ウィントン」へと改名した結果、「ヘンリー・ド・ウィントン」となる。
ヘンリー・ド・ウィントンは、シュロップシャー州(Shropshire)の州都シュルーズベリー(Shrewsbury)のセヴァーン川(Rivr Severn)のほとりに建つ私立学校であるシュルーズベリー学校(Shrewsbury School)で学んだ後、ケンブリッジ大学のトリニティーカレッジ(Trinity College)に入学。
ジョン・チャールズ・シリングは、1824年6月11日、ジョン・ゲイル・ダルトン・シリング牧師(Reverend John Gale Dalton Thring)の五男として、サマセット州(Somerset)のアルフォード(Alford)に出生。
ヘンリー・ド・ウィントンは、ウィンチェスターカレッジ(Winchester College)、ヘンリー・ド・ウィントンと同じシュルーズベリー学校で学んだ後、ケンブリッジ大学のセントジョンズカレッジ(St. John’s College)に入学。
ケンブリッジ大学在籍中の1846年、ヘンリー・ド・ウィントンとジョン・チャールズ・シリングの2人は、フットボールクラブを創出したが、当時、フットボールは一般的ではなかったため、試合はあまり開催されず、その結果、フットボールクラブ自体は長く存続しなかった。
ただし、彼らが当時作成した「ケンブリッジルール」(出典:Wikipedia)と呼ばれるフットボールのルールが、今日のルールと基礎となっている。
(1) A goal is scored whenever the ball is forced through the goal and under the bar, except it be thrown by hand.
(2) Hands may be used only to stop a ball and place it on the ground before the feet.
(3) Kicks must be aimed only at the ball.
(4) A player may not kick the ball whilst in the air.
(5) No tripping up or heel kicking allowed.
(6) Whenever a ball is kicked beyond the side flags, it must be returned by the player who kicked it, from the spot it passed the flag line in a straight line towards the middle of the ground.
(7) When a ball is kicked behind the line of goal, it shall be kicked off from that line by one of the side whose goal it is.
(8) No player may stand within six paces of the kicker when he is kicking off.
(9) A player is 'out of play' immediately he is in front of the ball, and must return behind the ball as soon as possible. If the ball is kicked by his own side past a player, he may not touch or kick it, or advance, until one of the other side has first kicked it, or one of his own side, having followed it up, has been able, when in front of him, to kick it.
(10) No charging allowed when a player is out of play; that is, immediately the ball is behind him.
その後、ケンブリッジ大学を卒業したヘンリー・ド・ウィントンは、1875年にブレコン(Brecon)の大執事(archdeacon - 司教(bishop)の次位)となり、1895年まで務めた。
インフルエンザに罹患した彼は、1895年4月7日に亡くなった。
同じく、ケンブリッジ大学を卒業したジョン・チャールズ・シリングは、1849年に執事(deacon - 司祭(priest)の次位)、1855年に副司祭(curate)となる。
1858年にリディア・メレディス(Lydia Meredith)と結婚した彼は、1859年に兄であるエドワード・シリング(Edward Thring:1821年ー1887年)が校長を務めるアッピンガム学校(Uppingham School)に教師助手として入り、1868年、または、1869年まで教師を務めた。
1870年に生まれ故郷であるアルフォードの副司祭に戻ると、1875年から1891年まで、ブラッドフォード(Bradford)の救貧院において、教戒師(chaplain)を務めたりした。
妻リディア・メレディスとの間に8人の子供(息子5人+娘3人)を設けたジョン・チャールズ・シリングは、1909年10月3日に死去している。
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