「シャロット姫」を描いた英国の画家で有るジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが住んでいた ホールロード10番地の建物外観(その1) |
アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1962年に発表したミス・マープルシリーズ作品の長編第8作目「鏡は横にひび割れて(Mirror Crack’d from Side to Side)」の題名は、ヴィクトリア朝時代に活躍した英国の詩人である初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson:1809年ー1892年)による詩「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月27日付ブログで紹介済)」をベースにしている。
英国の Harper Collins Publishers 社から出版されている アガサ・クリスティー作ミス・ジェイン・マープルシリーズ 「鏡は横にひび割れて」のペーパーバック版の表紙 <イラスト:ビル・ブラッグ氏(Mr. Bill Bragg)> |
Out flew the web and floated wide -
The mirror crack’d from side to side;
“The curse is come upon me,” cried
The Lady of Shalott.
織物はとびちり、ひろがれり
鏡は横にひび割れぬ
「ああ、呪いがわが身に」と、
シャロット姫は叫べり。
(橋本福夫訳)
グローヴエンドロードを過ぎて、 サーカスロードから名前が変わったホールロードを南下する(その1) |
英国の画家であるジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse:1849年ー1917年)が、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンによる詩「シャロット姫」におけるクライマックスの場面を、1888年に「シャロット姫(The Lady of Shalott → 2024年9月28日付ブログで紹介済)」として描いている。
グローヴエンドロードを過ぎて、 サーカスロードから名前が変わったホールロードを南下する(その2) |
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが住んでいた家が、ロンドンの中心部に所在するシティー・オブ・ウェストミンスター区(City of Westminster)内にある。
グローヴエンドロードを過ぎて、 サーカスロードから名前が変わったホールロードを南下する(その3)- 前方に見える左右に延びる通りは、メイダヴェール通り。 |
地下鉄ベイカーストリート駅(Baker Street Tube Station)からロンドン北西部に所在する高級住宅地区であるセントジョンズウッド地区(St. John’s Wood → 2014年8月17日付ブログで紹介済)へと向かい、リージェンツパーク(Regent’s Park → 2016年11月19日付ブログで紹介済)を右手にしつつ、ベイカーストリート(Baker Street → 2016年10月1日付ブログで紹介済)、パークロード(Park Road)、そして、ウェリントンロード(Wellington Road)を北上する。
進行方向左手に見えるローズクリケット場(Lord’s Cricket Ground)を過ぎ、地下鉄セントジョンズウッド駅(St. John’s Wood Tube Station)を目前にしたところで、ウェリントンロードからサーカスロード(Circus Road)へと左折する。
南西方向へ下るサーカスロードは、交差するグローヴエンドロード(Grove End Road)を過ぎると、ホールロード(Hall Road)へと名前を変える。
更に、ホールロードを南西方向へと下り、交差するメイダヴェール通り(Maide Vale)へ達する前の進行方向右手に、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが住んでいたホールロード10番地(10 Hall Road, Maida Vale, London NW8 9PD)の建物がある。
ホールロード10番地の建物外観(その2) |
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、1849年4月6日、画家の両親であるウィリアム・ウォーターハウス(William Waterhouse)とイザベラ・ウォーターハウス(Isabella Waterhouse)の子として、ローマ(Rome)に出生。
彼が5歳の時(1854年)、ウォーターハウス一家は、英国へと戻り、当時設立されて間もないヴィクトリア&アルバート美術館(Victoria and Albert Museum)に近い、ロンドンのサウスケンジントン地区(South Kensington)に住む。
少年期、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、画家である父ウィリアムの元で絵画を学び、1871年に英国王立美術院(Royal Academy)に入学した後、彫刻、その後、絵画を学んだ。
ホールロード10番地の建物外観(その3) |
1874年、25歳になったジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、寓意画「眠りと異母兄弟の死(Sleep and his Half-brother Death)」を英国王立美術院の夏の展示会において発表して、好評を得る。
これにより、彼は、以降、1890年と1915年の2回を除き、1917年に死去するまでの毎年、英国王立美術院の展示会へ招かれた。
ホールロード10番地の建物外観(その4) |
1883年、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、ロンドンのイーリング(Ealing)に住む美術教師の娘であるエステル・ケンワージー(Esther Kenworthy:1857年ー1944年)と結婚。エステル・ケンワージー自身も、絵画を英国王立美術院の展覧会等に出品している。
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが、初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンによる詩「シャロット姫」におけるクライマックスの場面を、「シャロット姫」として描いていたのは、1888年である。
ホールロード10番地の建物外観(その5) |
1895年に、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、英国王立美術院の最高芸術院会員(full Academician)へと選出される。
彼は、セントジョンズウッド美術学校(St. John’s Wood Art School)で教鞭を執り、セントジョンズウッド芸術クラブ(St. John’s Wood Arts Club)にも参加。
その後、彼は、英国王立美術院評議会(Royal Academy Council)にも所属。
ホールロード10番地の建物外壁には、 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが 1900年から1917年までの間、 ここに住んでいたことを示すブループラークが架けられている。 |
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスは、1915年頃には癌に侵され、それでも絵を描き続けたが、2年後の1917年2月10日に死去、享年67歳だった。
彼の遺体は、ケンサルグリーン墓地(Kensal Green Cemetery → 2023年12月15日付ブログで紹介済)に葬られた。
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