2024年9月5日木曜日

ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング(Augusta Ada King, Countess of Lovelace)- その1

ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キングの肖像画の葉書
(Margaret Sarah Carpenter
 / 1836年 / Oil on canvas
2160 mm x 1370 mm) 


ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング(Augusta Ada King, Countess of Lovelace:1815年ー1852年)は、英国のロマン派詩人である第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron:1788年ー1824年 → 2021年5月9日+2024年8月24日 / 8月30日付ブログで紹介済)の一人娘で、英国の貴族 / 数学者である。

彼女は、英国の数学者 / 哲学者 / 計算機科学者であるチャールズ・バベッジ(Charles Babbage:1791年ー1871年)が考案した初期の汎用計算機である解析機関についての著作により、「世界初のコンピュータープログラマー」として知られている。


ジョージ・ゴードン・バイロンは、1788年1月22日、ジョン・バイロン大尉(Captain John Byron:1757年ー1791年 → 第5代バイロン男爵ウィリアム・バイロン(William Byron, 5th Baron Byron:1722年ー1798年)の甥)と彼の2番目の妻であるキャサリン・ゴードン(Catherine Gordon)の間に、ロンドンで出生。

父親のジョン・バイロン大尉は、酒癖が悪く、浪費家でもあった。そのため、家庭内では夫婦喧嘩が絶えなかった。ジョージ・ゴードン・バイロンが3歳の時、ジョン・バイロン大尉は、多額の借金を残したまま、放浪先のフランスで死去。その後、ジョージ・ゴードン・バイロンは、精神疾患を抱えた母親と一緒に、アバディーン州(Aberdeenshire)へ移住し、そこで暗い幼少期を過ごす。


1798年に従祖父である第5代バイロン男爵ウィリアム・バイロンが亡くなったが、他に相続人が居なかったため、ジョージ・ゴードン・バイロンは、わずか10歳にして、第6代バイロン男爵となり、ノッティンガム州(Nottinghamshire)にある土地と館を相続し、アバディーン州からノッティンガム州へと移る。


第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、ロンドンのハーロー校(Harrow College)へ送られる。彼は、1801年から1805年にかけて、そこで学んだ後、1805年にケンブリッジ(Cambridge)のトリニティーカレッジ(Trinity College)に入学するも、学業を顧みない日々を過ごす。

彼は、1808年にケンブリッジを去ると、1809年から1811年にかけて、ポルトガル、スペインやギリシア等を旅した。

彼は、1812年に上記の旅行をベースにした「チャイルド・ハロルドの巡礼(Childe Harold’s Pilgrimage)」を出版すると、生の倦怠と憧憬を伴った詩風と異国情緒が時代の流れに合致し、大きな評判を得て、一躍、社交界の寵児となった。


社交界の寵児となった第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、乱れた生活を続けたが、1815年にアン・イザベラ・ノエル・ミルバンク(Anne Isabella Noel Millbanke:1792年ー1860年 / 愛称:アナベラ(Annabella))と結婚して、同年12月10日に2人の間に娘を設けた。

彼女が、後のラブレス伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キングとなるオーガスタ・エイダ・バイロン(Augusta Ada Byron)である。なお、彼女のファーストネームである「オーガスタ」は、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンの異母姉に該るオーガスタ・リー(Augusta Leigh:1783年ー1851年)に因んでいる。


アン・イザベラ・ノエル・バイロンとの間に娘を設けた第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンであったが、恋に憂き身をやつし続けたため、翌年(1816年)1月16日に、アン・イザベラ・ノエル・バイロンは、生後1ヶ月の娘オーガスタ・エイダ・バイロンを連れて、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンと別居。同年4月21日に、二人は離婚届に署名する。


更に、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、近親相姦や同性愛(→ 当時は、死刑に値する犯罪)といったスキャンダルにより、世間からの糾弾を受けて、英国を去ることになる。

その後、第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンは、アン・イザベラ・ノエル・ミルバンクと一人娘のオーガスタ・エイダ・バイロンの2人と再会することはなかった。


第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロンと離婚したアン・イザベラ・ノエル・ミルバンクにより、オーガスタ・エイダ・バイロンは、育てられる。

数学者ウィリアム・フレンドに数学を教わり、教養があったアン・イザベラ・ノエル・ミルバンクは、娘のオーガスタ・エイダ・バイロンに家庭教師をつけて、数学や科学の手解きを受けさせた。幼少期のオーガスタ・エイダ・バイロンは、神経が繊細で、目標が達成できないと、強いストレスによるノイローゼ症状を呈することがあったため、母のアン・イザベラ・ノエル・ミルバンクは、その矯正のため、娘に数学の教育を受けさせたと言われている。

その結果、オーガスタ・エイダ・バイロンは、数学に対して、高い興味を持ち、後に「世界初のコンピュータープログラマー」と言われるようになる素養を身につけたのである。


1835年に、オーガスタ・エイダ・バイロンは、第8代キング男爵ウィリアム・キング=ノエル(William King-Noel, 8th Baron King:1805年ー1893年)と結婚して、3人の子供を設ける。

なお、夫の第8代キング男爵ウィリアム・キング=ノエルは、1838年に初代ラブレース伯爵ウィリアム・キング=ノエル(William King-Noel, 1st earl of Lovelace)となる。


                              

0 件のコメント:

コメントを投稿