第二次ボーア戦争(Second Anglo - Boer War:1899年10月12日ー1902年5月31日 → 2022年8月8日付ブログで紹介済)が終結した直後の1903年1月、ジェイムズ・M・ドッド氏(Mr. James M. Dodd)が、ベイカーストリート221B(221B Baker Street → 2014年6月22日 / 6月29日付ブログで紹介済)のシャーロック・ホームズの元を訪れる。
ジェイムズ・M・ドッドは、スロッグモートンストリート(Throgmorton Street → 2015年1月3日付ブログで紹介済)において、株式仲買人としていたが、1901年1月に義勇農騎兵団(Imperial Yeomanry)のミドルセックス連隊(Middlesex Corps)に入隊して、つい最近まで南アフリカに出向いていたのであった。
ジェイムズ・M・ドッドが入隊した際、既にその部隊に居たゴドフリー・エムズワース(Godfrey Emsworth)と知り合い、1年間にわたる戦闘の中で、友情を育んだ。
ゴドフリー・エムズワースは、プレトリア(Pretoria)郊外のダイヤモンドヒル(Diamond Hill)近くの戦闘において、象撃ち銃に撃たれ、病院へと送られた。
ジェイムズ・M・ドッドは、南アフリカのケープタウン(Cape Town)の病院からと、英国のサザンプトン(Southampton)から、ゴドフリー・エムズワースの手紙を受け取ったが、それ以降、彼からの便りが途絶えてしまい、6ヶ月以上も音信不通のままとなっていた。
第二次ボーア戦争が終結して、ジェイムズ・M・ドッドの部隊が英国に戻った際、彼は、ゴドフリー・エムズワースの父親であるエムズワース大佐(Colonel Emsworth - クリミア戦争で十字勲章を受賞)に対して、ゴドフリーの所在を訊ねる手紙を送ったところ、「息子は世界一周の航海に出かけたので、1年は戻ってこない。」と言う返事があったきりだった。
友情を育んだゴドフリーの性格を考えると、エムズワース大佐の返事を本当だとはとても思えないジェイムズ・M・ドッドは、戦友のゴドフリーを探し出そうと、必死になっていた。
英国への帰国後、身辺の整理がやっと片付いたジェイムズ・M・ドッドは、ゴドフリーの実家であるベッドフォード(Bedford)近くのタクスベリーオールドパーク(Tuxbury Old Park)を訪れて、エムズワース大佐から、ゴドフリーの所在を聞き出そうとするが、逆に、大佐の怒りを買ってしまう。
ゴドフリーの実家は、非常に交通の便が悪いところにあり、どの場所からも5マイル離れていた。そのため、その夜、ジェイムズ・M・ドッドは、ゴドフリーの実家に泊まることになった。
ゴドフリーの所在を訊ねるジェイムズ・M・ドッドに対して、エムズワース大佐は、取り付く島もなかった。その上、老執事のラルフ(Ralph)も泣きそうになって、彼の質問から逃げ出したとあっては、尚更だった。
英国で出版された「ストランドマガジン」 1926年11月号に掲載された挿絵(その3) - 音信不通となった戦友のゴドフリー・エムズワースの実家を訪れた ジェイムズ・M・ドッドが、その夜、窓の外を見ると、 そこには、幽霊のように真っ白な顔をしたゴドフリーが立っていた。 挿絵:ハワード・ケッピー・エルコック(1886年ー1952年) |
戦友のゴドフリーは、死んだのだろうか?それとも、彼は何か犯罪に関わったのだろうか?
そんなことを考え込んでいたジェイムズ・M・ドッドが、ふと顔を上げると、窓の外に、ゴドフリーその人が立っているのが見えた。ゴドフリーの顔は、幽霊のように、真っ白だった。
ジェイムズ・M・ドッドは、慌てて、ゴドフリーを追いかけるが、残念ながら、彼の姿を見失ってしまう。
翌日、ゴドフリーの姿を求めて、ジェイムズ・M・ドッドは、屋敷の中を探しまわろうとするが、エムズワース大佐に見つかって、彼は屋敷から追い出されてしまうことになる。
ゴドフリーの真っ白な顔を見たジェイムズ・M・ドッドは、恐怖を感じはしたが、エムズワース大佐の態度に納得がいかず、真実を知ろうとする彼の決心は、些かも揺るがなかった。
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