12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1143年)によって1123年にロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に設立されたセントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew - 現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)とセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の両方を含む)は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)による統治時に重大な局面を迎える。
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| セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会内には、 ラヒアの遺体が安置されている。 <筆者撮影> |
ヘンリー8世は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚とキャサリン王妃の侍女メアリー・ブーリン(Mary Boleyn:1499年 / 1500年頃ー1543年)の妹(諸説あり)であるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)との結婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らを英国国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会から英国国教会の分離を行った。
| セントバーソロミュー病院の北翼(North Wing → 2025年12月15日 / 12月19日 / 12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)にある 大広間の再奥の壁に掲げられている ヘンリー8世の肖像画のアップ <筆者撮影> |
ヘンリー8世が宗教改革の一環として実施した修道院解散(Dissolution of the monasteries:1536年ー1539年)政策に基づき、イングランド国内にあった多くの修道院が解散、そして、財産没収の憂き目に遭った。
セントバーソロミュー修道院から分離したセントバーソロミュー病院は、貧民救済病院として生き残ったものの、修道院からの収入の道が絶たれたため、一時は経営難に陥った。
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| ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている アン・ブーリンの肖像画の葉書 (Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel 543 mm x 416 mm) |
そこで、貧民救済病院として生き残ったセントバーソロミュー修道院は、1546年12月27日にシティー・オブ・ロンドン共同体(City of London Corporation - 正式名:Mayor and Commonalty and Citizens of the City of London)から認可を受ける合意に調印したことで、ヘンリー8世による再設立を受けることになった。
| セントバーソロミュー病院の北翼にある 大広間の左側の窓に設置されているステンドグラス - 1546年12月27日に、ヘンリー8世がロンドン市長に対して、 セントバーソロミュー修道院(病院)の支援を約束する書状を手渡す場面が描かれている。 <筆者撮影> |
そして、1547年1月、セントバーソロミュー修道院は、法的に「ヘンリー8世設立・シティー・オブ・ロンドン・ウェストスミスフィールド救貧院(House of the Poore in West Smithfield in the suburbs of the City of London of Henry VIII’s Foundation)」と命名された。
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| 1546年12月27日に ヘンリー8世とシティー・オブ・ロンドン共同体の間で交わされた セントバーソロミュー修道院に関する合意書 (ヘンリー8世がシティー・オブ・ロンドン共同体に対して セントバーソロミュー修道院の支援を約束する書状) - セントバーソロミュー病院博物館内に展示されている。 <筆者撮影> |
ヘンリー8世による修道院解散政策に基づき、セントバーソロミュー修道院の敷地は、英国国教会の小教区として再編されて、セントバーソロミュー病院の敷地内にあったセントバーソロミュー・ザ・レス教会(The Hospital Church of St. Bartholomew the Less → 2026年1月5日 / 1月15日付ブログで紹介済)が教区教会となる。
一方、セントバーソロミュー病院を分離させられたセントバーソロミュー修道院は、そのまま放置されることとなった。
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| ナショナルポートレートギャラリー (National Portrait Gallery)で販売されている メアリー1世の肖像画の葉書 (Master John / 1544年 / Oil on panel 711 mm x 508 mm) |
テューダー朝の第4代イングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)による統治時、セントバーソロミュー修道院は、修道院として復活。
そして、テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)が、セントバーソロミュー修道院を英国国教会の教会(セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会)へ変えている。
英国国教会の教会となったセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の一部は、その後の2-3世紀に渡り、鍛冶場(blacksmith’s forge)、学校、家屋、印刷所やレース / 縁取り工場(lace and fringe factory)等に使用された。
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の最初の修復工事は、1863年から1868年に掛けて行われ、その後、英国の建築家であるサー・アシュトン・ウェッブ(Sir Aston Webb:1849年ー1930年)が担当した大規模な修復工事が、1884年から1921年にかけて実施された。
なお、サー・アシュトン・ウェッブは、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)の外壁やヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)等の設計も担当している。
幸いにして、セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ロンドン 空襲による大きな被害を被ることはなく、1950年に Grade I listed building に指定され、現在に至っている。





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