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| セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の 建物正面(西側)を見たところ <筆者撮影> |
| 下から「ホガースの階段」と呼ばれる吹き抜け階段を下から見上げたところ - アーサー・ヘイスティングス中尉と旧友のジョン・キャヴェンティッシュの2人が 上から降りて来る場面が、この角度で撮影されている。 <筆者撮影> |
その歴史が1123年まで遡り、ヨーロッパで最も古い歴史を有するセントバーソロミュー病院は、ロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に所在する病院で、その正式名は「王立セントバーソロミュー病院(The Royal Hospital of St. Bartholomew)」であるが、「バーツ(Barts)」と言う略称が一般的に知られている。
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| ナショナルギャラリー(National Gallery)において所蔵 / 展示されている ウィリアム・ホガース作「自画像」(1745年)
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今回は、セントバーソロミュー病院を分離させられたセントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew)の後の姿で、1697年11月10日にセントバーソロミュー病院の直ぐ近くのバーソロミュークローズ(Bartholomew Close → 2026年2月13日付ブログで紹介済)に出生18世紀の英国画壇を代表する国民的画家のウィリアム・ホガース(William Hogarth:1697年ー1764年 → 2026年1月17日 / 1月29日 / 2月5日付ブログで紹介済)が洗礼を受けたセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)について、紹介したい。
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| セントバーソロミュー病院博物館(St. Bartholomew's Hospital Museum)内にある 病院の歴史に関する説明資料 - 左側が セントバーソロミュー修道院(病院)を設立したラヒアで、 右側が彼の夢の中に現れた聖人セントバーソロミュー。 <筆者撮影> |
12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1144年)が、ローマ巡礼中に、重い病に倒れたが、彼の神への強い祈りが届いたかのように、奇跡的に病から回復。
その際、彼の夢の中に、イエス・キリストの使徒の一人である聖人セントバーソロミュー(Saint Bartholomew)が現れると、ロンドンのスミスフィールドに貧民や病人を助けるための修道院(病院)を建てるように告げたと伝えられている。
| セントバーソロミュー病院の北翼にある 大広間の右側の壁に掲げられている 聖人バーソロミューの絵 <筆者撮影> |
この聖人セントバーソロミューのお告げに従って、イングランドに戻ったラヒアは、1123年、スミスフィールドの地にセントバーソロミュー修道院(現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会とセントバーソロミュー病院の両方を含む)を設立した。
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| セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会内には、 ラヒアの遺体が安置されている。 <筆者撮影> |
その際、現在のセントバーソロミュー・ザ・レス教会(The Hospital Church of St. Bartholomew the Less → 2026年1月5日 / 1月15日付ブログで紹介済)も、同年に建てられている。
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| セントバーソロミュー・ザ・レス教会の塔を見上げたところ <筆者撮影> |
セントバーソロミュー・ザ・レス教会は、建設当時、The Chapel of the Holy Cross と呼ばれており、今とは違う場所に建っていたが、1184年に現在の場所(セントバーソロミュー病院の敷地内 - ヘンリー8世門(Henry VIII Gatehouse)の直ぐ内側)へ移設された。
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| 1702年に完成したヘンリー8世門 - なお、アーチ門上にある石像は、ロンドンで唯一のヘンリー8世の石像である。 <筆者撮影> |
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| セントバーソロミュー・ザ・レス教会の入口 <筆者撮影> |
そして、時代は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)による統治時まで下る。
ヘンリー8世は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚とキャサリン王妃の侍女メアリー・ブーリン(Mary Boleyn:1499年 / 1500年頃ー1543年)の妹(諸説あり)であるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)との結婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らを英国国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会から英国国教会の分離を行った。
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| ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている アン・ブーリンの肖像画の葉書 (Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel 543 mm x 416 mm) |
ヘンリー8世が宗教改革の一環として実施した修道院解散(Dissolution of the monasteries:1536年ー1539年)政策に基づき、イングランド国内にあった多くの修道院が解散、そして、財産没収の憂き目に遭った。
セントバーソロミュー修道院から分離したセントバーソロミュー病院は、貧民救済病院として生き残ったものの、修道院からの収入の道が絶たれたため、一時は経営難に陥った。
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| セントバーソロミューパッセージ(Bartholomew Passage)から見た セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の建物裏面(東側) <筆者撮影> |
そこで、貧民救済病院として生き残ったセントバーソロミュー修道院は、1546年12月27日にシティー・オブ・ロンドン共同体(City of London Corporation - 正式名:Mayor and Commonalty and Citizens of the City of London)から認可を受ける合意に調印したことで、ヘンリー8世による再設立を受けることになった。
| セントバーソロミュー病院の北翼にある 大広間の左側の窓に設置されているステンドグラス - 1546年12月27日に、ヘンリー8世がロンドン市長に対して、 セントバーソロミュー修道院(病院)の支援を約束する書状を手渡す場面が描かれている。 <筆者撮影> |
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| 1546年12月27日に ヘンリー8世とシティー・オブ・ロンドン共同体の間で交わされた セントバーソロミュー修道院に関する合意書 (ヘンリー8世がシティー・オブ・ロンドン共同体に対して セントバーソロミュー修道院の支援を約束する書状) - セントバーソロミュー病院博物館内に展示されている。 <筆者撮影> |
1547年1月、セントバーソロミュー修道院は、法的に「ヘンリー8世設立・シティー・オブ・ロンドン・ウェストスミスフィールド救貧院(House of the Poore in West Smithfield in the suburbs of the City of London of Henry VIII’s Foundation)」と命名され、初代病院長に、ヘンリー8世の侍医(外科医)で解剖学者でもあったトマス・ヴィカリー(Thomas Vicary:1490年頃ー1561年)が就任。
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| セントバーソロミュー・ザ・レス教会内部の礼拝堂 <筆者撮影> |
ヘンリー8世による修道院解散政策に基づき、セントバーソロミュー修道院の敷地は、英国国教会の小教区として再編されて、セントバーソロミュー病院の敷地内にあったセントバーソロミュー・ザ・レス教会が教区教会となった。
これは、英国内の病院でも特異なケースで、セントバーソロミュー・ザ・レス教会は、病院の敷地内に建てられた教会として、唯一現存している。
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| クロスフェア通り(Cloth Fair)から見た セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の建物裏面(北側) <筆者撮影> |
一方、セントバーソロミュー病院を分離させられたセントバーソロミュー修道院は、そのまま放置されることとなった。














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