2026年2月22日日曜日

ロンドン セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)- その3

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その1)
<筆者撮影>

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その2)
<筆者撮影>

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その3)
<筆者撮影>

12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1143年)によって1123年にロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に設立されたセントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew - 現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)の内部は、建設当初のノルマン様式を今現在も残しており、荘厳さに溢れている。

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その4)
<筆者撮影>

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その5)
<筆者撮影>

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その6)
<筆者撮影>

教会内には、セントバーソロミュー修道院の創設者であるラヒアの墓には、彼の遺体が安置されている。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会内には、
ラヒアの遺体が安置されている。
<筆者撮影>


18世紀の英国画壇を代表する国民的画家のウィリアム・ホガース(William Hogarth:1697年ー1764年 → 2026年1月17日 / 1月29日 / 2月5日付ブログで紹介済)は、1697年11月10日、ラテン語学校の教師であるリチャード・ホガース(Richard Hogarth)と母アン・ギボンズ(Anne Gibbons)の長男として、ロンドンのセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の直ぐ近くのバーソロミュークローズ(Bartholomew Close → 2026年2月13日付ブログで紹介済)に出生した後、セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会において洗礼を受けている。


ナショナルギャラリー(National Gallery)において所蔵 / 展示されている
ウィリアム・ホガース作「自画像」(1745年) 
(Portrait of the Painter and his Pug)
<筆者撮影>


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部には、ウィリアム・ホガースが洗礼を受けた際に使用された洗礼盤(1404年製作)も現存している。


画家ウィリアム・ホガースが洗礼を受けた際に使用された洗礼盤
<筆者撮影>

洗礼盤の説明
<筆者撮影>

また、上記の洗礼盤のの右横には、英国の現代美術家であるダミアン・ハースト(Damien Hirst:1965年ー)が制作した聖人セントバーソロミュー(Saint Bartholomew)の黄金像が置かれている。


ダミアン・ハーストが制作した聖人セントバーソロミューの黄金像(その1)-
左側にあるのは、
画家ウィリアム・ホガースが洗礼を受けた際に使用された洗礼盤
<筆者撮影>

ラヒアが、ローマ巡礼中に、重い病に倒れたが、彼の神への強い祈りが届いたかのように、奇跡的に病から回復。

その際、彼の夢の中に、イエス・キリストの使徒の一人である聖人セントバーソロミューが現れると、ロンドンのスミスフィールドに貧民や病人を助けるための修道院(病院)を建てるように告げたと伝えられている。


セントバーソロミュー病院博物館(St. Bartholomew's Hospital Museum)内にある
病院の歴史に関する説明資料 -
左側が 
セントバーソロミュー修道院(病院)を設立したラヒアで、
右側が彼の夢の中に現れた聖人セントバーソロミュー。
<筆者撮影>


セントバーソロミュー病院の北翼(North Wing
→ 2025年12月15日 / 12月19日 / 12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)にある
大広間の右側の壁に掲げられている
聖人バーソロミューの絵
<筆者撮影>


この聖人セントバーソロミューのお告げに従って、イングランドに戻ったラヒアは、1123年、スミスフィールドの地にセントバーソロミュー修道院を設立したのである。


ダミアン・ハーストが制作した聖人セントバーソロミューの黄金像(その2)


ダミアン・ハーストが制作した聖人セントバーソロミューの黄金像の場合、皮剥ぎの刑で殉教した姿をしており、彼の右腕には、剥がされた自身の皮膚がぶら下っている。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の内部(その7)-
左上に見えるのは、パイプオルガン。
<筆者撮影>

2026年2月21日土曜日

エルキュール・ポワロの世界 <ジグソーパズル>(The World of Hercule Poirot )- その22A

英国の HarperCollinsPublishers 社から以前に出版されていた
アガサ・クリスティー作「ABC 殺人事件」ペーパーバック版の表紙 -
地名と名前のイニシャルが一致する人物をアルファベット順に選んで、
'ABC' と名乗る犯人はその人物を殺害した後、
死体の傍らに「ABC 鉄道案内」を残している。
表紙の絵は、「ABC 鉄道案内」からの連想で描かれてる。


英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている「エルキュール・ポワロの世界(The World of Hercule Poirot)」と言うジグソーパズル内に散りばめられているエルキュール・ポワロシリーズの登場人物や各作品に関連した112個の手掛かりについて、引き続き、紹介したい。

前回に引き続き、各作品に出てくる登場人物、建物や手掛かり等が、その対象となる。


ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の完成形
<筆者撮影>


(45)ABC 鉄道案内(railway guide)



ジグソーパズルの下段中央にあるテーブルの右端近くに、ABC 鉄道案内が置かれている。


(46)絹のストッキング(silk stocking)



ジグソーパズルの中段の一番左手にあるテーブルの前に、赤い着物を着た女性がこちらに背を向けて立っているが、彼女の足元に、絹のストッキングが落ちている。


(47)ドンカスターで開催される競馬 (St. Leger Stakes horse race)



ジグソーパズルの上段中央やや左手の壁に、ドンカスター(Doncaster)で開催される競馬の絵が掛けられている。


これらから連想されるのは、アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)が1936年に発表した「ABC 殺人事件(The ABC Murders)」である。

「大空の死」は、アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第18作目に、そして、エルキュール・ポワロシリーズの長編としては、第11作目に該っている。

「ABC 殺人事件」は、ミッシングリンクをテーマにしたミステリー作品の中でも、最高峰と評価される作品で、知名度・評価ともに非常に高く、アガサ・クリスティーの代表作の一つとなっている。


アーサー・ヘイスティングス大尉は、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立つ
エルキュール・ポワロの左斜め後ろに居る。

<筆者撮影>


アフリカから戻ったアーサー・ヘイスティングス大尉(Captain Arthur Hastings → 2025年10月12日付ブログで紹介済)は、ロンドンに新しいフラットを構えた友人エルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)の元を訪れた。

そんなポワロの元に、'ABC' と名乗る謎の人物から、「アンドーヴァー(Andover)を警戒せよ。」と警告する手紙が届いていたのだ。


エルキュール・ポワロは、
ジグソーパズル「エルキュール・ポワロの世界」の中央に立っている。
<筆者撮影>


そして、その手紙通り、「A」で始まるアンドーヴァーにおいて、小さなタバコ屋を切り盛りしていた老女で、イニシャルが「A. A.」のアリス・アッシャー(Alice Asher)が殺害されたのである。その上、彼女の死体の傍らには、「ABC 鉄道案内」が置かれていた。

アリス・アッシャーの殺害犯として、大酒飲みで、妻の彼女に度々お金をせびっていた夫のフランツ・アッシャー(Franz Ascher)が、警察によって疑われる。


その最中、ABC と名乗る謎の人物からポワロの元に、第2の犯行を予告する手紙が届く。


第2の殺人事件として、「B」で始まるべクスヒル(Bexhill)において、カフェのウェイトレスとして働いていた若い女性で、イニシャルが「B. B.」のエリザベス(ベティー)・バーナード(Elizabeth (Betty) Barnard)が殺害される。

今度は、ベティー・バーナードの殺害犯として、彼女の婚約者で、不動産関係の仕事をしているドナルド・フレーザー(Donald Fraser)が、警察によって疑われる。何故なら、殺されたベティー・バーナードの場合、異性関係に少々だらしなかったため、彼女の異性関係に着いて、2人の間で、何度も言い争いが起きていたからである。


2026年2月20日金曜日

ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)- その1

ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が印刷した冊子
(Painting of from Boston Public Library /
Artist : Joseph-Siffrede Duplessis)


ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin:1706年ー1790年)は、米国の政治家 / 外交官 / 著述家 / 物理学者 / 気象学者である。

印刷業で成功を収めた後、政界へと進出した彼は、1776年に米国独立宣言の起草委員となり、トマス・ジェファースン(Thomas Jefferson:1743年ー1826年 / 後の第3代米国大統領(1801年-1809年))と一緒に、米国独立宣言に最初に署名した5人の政治家のうちの1人だったことから、「アメリカ合衆国建国の父」として称えられている。


1657年に英国ノーザンプトンシャー州(Northamptonshire)のエクトン(Ecton)に生まれたジョサイア・フランクリン(Josiah Franklin:1657年ー1745年)は、当初、1677年に同地でアン・チャイルド(Anne Child)と結婚。

ジョサイアとアンのフランクリン夫妻は、1683年に英国領北米植民地のマサチューセッツ湾植民地(Massachusetts Bay Colony)であるボストン(Boston)へ移民したが、妻のアンが同年7月9日に死去したため、ジョサイア・フランクリンは、同年11月25日にマサチューセッツ湾植民地のナンタケット(Nantucket)出身のアビア・フォルジャー(Abiah Folger:1667年ー1752年)と再婚。

そして、ベンジャミン・フランクリンは、獣脂蝋燭製造業者である父ジョサイア・フランクリンと母アビア・フォルジャーの下、グレゴリオ暦1706年1月17日(ユリウス暦1705年1月6日)、ボストンに出生。ジョサイア・フランクリンは、二度の結婚で17人の子供をもうけているが、ベンジャミン・フランクリンは、15番目の子供だった。


1718年(12歳)に、ベンジャミン・フランクリンは、印刷業を営んでいた兄ジェイムズ(James)の徒弟となる。

1721年(15歳)に、兄ジェイムズがボストンで「ニューイングランドクーラント(The New-England Courant)」紙を発行したことに伴い、ベンジャミン・フランクリンは、次第に記者や編集者として頭角を現したが、1723年(17歳)に、兄ジェイムズとの喧嘩の末に、彼との縁を切り、ボストンを後にして、当初はニューヨークへ赴いたものの、印刷工の職はなかったため、直ぐにフィラデルフィア(Philadelphia)へ移り、職を得た。


その後、ベンジャミン・フランクリンは、フィラデルフィア知事(Philadelphia governor)であるサー・ウィリアム・キース(Sir William Keith:1669年ー1749年)の勧めにより、ロンドン 行きを決意。

お金も、友人も、そして、何の伝手もないまま、ベンジャミン・フランクリンは、1724年(18歳)12月24日にロンドンに到着。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)による統治時、セントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew)から英国国教会(Church of England)の教会へと変わったセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great → 2026年2月17日 / 2月19日付ブログで紹介済)は、教会の一部を印刷所に貸し出していた。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の
建物正面(西側)を見たところ
<筆者撮影>


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の入口を示す看板
<筆者撮影>


ベンジャミン・フランクリンは、この印刷所の店主であるサミュエル・パルマー(Samuel Palmer)に植字工(compositor / typesetter)として雇われて、1725年から働き始めた。この植字工が、ベンジャミン・フランクリンにとって、ロンドンにおける最初の仕事だった。


ベンジャミン・フランクリンの渡英300周年を記念して、
セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会が印刷した冊子から抜粋
(Photo by samleven on free images.com /
Statue by Joseph Brown)


ベンジャミン・フランクリンがサミュエル・パルマーの下で植字工として働いたのは、1年に満たず、1726年(20歳)に、彼は英国からフィラデルフィアへ戻り、印刷業を再開したのである。


2026年2月17日火曜日

ロンドン セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)- その2

セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の建物内部
<筆者撮影>


12世紀のイングランド王であるヘンリー1世碩学王(Henry I Beauclerc:1068年頃ー1135年 在位期間:1100年ー1135年)の寵臣ラヒア(Rahere:?ー1143年)によって1123年にロンドンのスミスフィールド(Smithfield)に設立されたセントバーソロミュー修道院(Priory of St. Bartholomew - 現在のセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会(The Priory Church of St. Bartholomew the Great)とセントバーソロミュー病院(St. Bartholomew's Hospital → 2014年6月14日付ブログで紹介済)の両方を含む)は、テューダー朝(House of Tudor)の第2代イングランド王であるヘンリー8世(Henry VIII:1491年ー1547年 在位期間:1509年ー1547年 → 2024年7月26日付ブログで紹介済)による統治時に重大な局面を迎える。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会内には、
ラヒアの遺体が安置されている。
<筆者撮影>


ヘンリー8世は、男の世継ぎ(嫡子)が生まれていない王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon:1487年ー1536年)との離婚とキャサリン王妃の侍女メアリー・ブーリン(Mary Boleyn:1499年 / 1500年頃ー1543年)の妹(諸説あり)であるアン・ブーリン(Anne Boleyn:1501年頃ー1536年)との結婚を画策して、ローマのカトリック教会と対立し、1534年に国王至上法(首長令)を発布の上、自らを英国国教会(Church of England)の長とするとともに、カトリック教会から英国国教会の分離を行った。


セントバーソロミュー病院の北翼(North Wing
→ 2025年12月15日 / 12月19日 / 12月21日 / 12月22日付ブログで紹介済)にある
大広間の最奥の壁に掲げられている
ヘンリー8世の肖像画のアップ
<筆者撮影>


ヘンリー8世が宗教改革の一環として実施した修道院解散(Dissolution of the monasteries:1536年ー1539年)政策に基づき、イングランド国内にあった多くの修道院が解散、そして、財産没収の憂き目に遭った。

セントバーソロミュー修道院から分離したセントバーソロミュー病院は、貧民救済病院として生き残ったものの、修道院からの収入の道が絶たれたため、一時は経営難に陥った。


ナショナルポートレートギャラリー(National Portrait Gallery)で販売されている
アン・ブーリンの肖像画の葉書
(Unknown artist / 1535 - 1536年頃 / Oil on panel
543 mm x 416 mm) 


そこで、貧民救済病院として生き残ったセントバーソロミュー修道院は、1546年12月27日にシティー・オブ・ロンドン共同体(City of London Corporation - 正式名:Mayor and Commonalty and Citizens of the City of London)から認可を受ける合意に調印したことで、ヘンリー8世による再設立を受けることになった。


セントバーソロミュー病院の北翼にある
大広間の左側の窓に設置されているステンドグラス -
1546年12月27日に、ヘンリー8世がロンドン市長に対して、
セントバーソロミュー修道院(病院)の支援を約束する書状を手渡す場面が描かれている。
<筆者撮影>


そして、1547年1月、セントバーソロミュー修道院は、法的に「ヘンリー8世設立・シティー・オブ・ロンドン・ウェストスミスフィールド救貧院(House of the Poore in West Smithfield in the suburbs of the City of London of Henry VIII’s Foundation)」と命名された。


1546年12月27日に
ヘンリー8世とシティー・オブ・ロンドン共同体の間で交わされた
セントバーソロミュー修道院に関する合意書
ヘンリー8世がシティー・オブ・ロンドン共同体に対して
セントバーソロミュー修道院の支援を約束する書状) -
セントバーソロミュー病院博物館内に展示されている。
<筆者撮影>


ヘンリー8世による修道院解散政策に基づき、セントバーソロミュー修道院の敷地は、英国国教会の小教区として再編されて、セントバーソロミュー病院の敷地内にあったセントバーソロミュー・ザ・レス教会(The Hospital Church of St. Bartholomew the Less → 2026年1月5日 / 1月15日付ブログで紹介済)が教区教会となる。

一方、セントバーソロミュー病院を分離させられたセントバーソロミュー修道院は、そのまま放置されることとなった。


ナショナルポートレートギャラリー
(National Portrait Gallery)で販売されている
メアリー1世の肖像画の葉書
(Master John / 1544年 / Oil on panel
711 mm x 508 mm) 


テューダー朝の第4代イングランド王メアリー1世(Mary I:1516年ー1558年 在位期間:1553年-1558年)による統治時、セントバーソロミュー修道院は、修道院として復活。


ナショナルポートレートギャラリーで販売されている
エリザベス1世の肖像画の葉書
(Unknown English artist / 1600年頃 / Oil on panel
1273 mm x 997 mm) -
エリザベス1世は、王族しか着れない
イタチ科オコジョの毛皮をその身に纏っている。
オコジョの白い冬毛は、「純血」を意味しており、
実際、エリザベス1世は、英国の安定のために、
生涯、誰とも結婚しなかったので、「処女女王」と呼ばれた。
エリザベス1世の」赤毛」と「白塗りの化粧」は、
当時流行したものである。


そして、テューダー朝の第5代かつ最後の君主であるエリザベス1世(Elizabeth I:1533年ー1603年 在位期間:1558年-1603年 → 2023年6月24日 / 7月2日付ブログで紹介済)が、セントバーソロミュー修道院を英国国教会の教会(セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会)へ変えている。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の入口を示す看板
<筆者撮影>

英国国教会の教会となったセントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の一部は、その後の2-3世紀に渡り、鍛冶場(blacksmith’s forge)、学校、家屋、印刷所やレース / 縁取り工場(lace and fringe factory)等に使用された。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の時計塔(Clock Tower)は、
1628年に建てられた。
<筆者撮影>


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の最初の修復工事は、1863年から1868年に掛けて行われ、その後、英国の建築家であるサー・アシュトン・ウェッブ(Sir Aston Webb:1849年ー1930年)が担当した大規模な修復工事が、1884年から1921年にかけて実施された。

なお、サー・アシュトン・ウェッブは、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)の外壁やヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)等の設計も担当している。


セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会の建物入口
<筆者撮影>


幸いにして、セントバーソロミュー・ザ・グレイト教会は、第二次世界大戦(1939年ー1945年)中、ロンドン 空襲による大きな被害を被ることはなく、1950年に Grade I listed building に指定され、現在に至っている。


2026年2月16日月曜日

アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー(Agatha Christie Official Calendar 2026)- その15

2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
「アガサ・クリスティー 2026年オフィシャルカレンダー」のうち、
2027年1月のカレンダーに描かれている
エルキュール・ポワロシリーズの長編第28作目「鳩のなかの猫(Cat Among the Pigeons)」(1959年)-
画面左手前には、ボブ・ローリンスンが
中東のラマット王国
王家に伝わる宝石を握り部分に隠したテニスラケットが、コートの端に置かれている。
画面右奥からテニスラケットへ向かって近づいて来ているのは、
ボブ・ローリンスンの姪で、テニスラケットの持ち主であるジェニファー・サットクリフだろうか?
更に、画面左奥には、彼女が学んでいるメドウバンク校の校舎が見える。


アガサ・メアリー・クラリッサ・クリスティー(Agatha Mary Clarissa Christie:1890年ー1976年)の作品を出版している英国の HarperCollinsPublishers 社から、2026年オフィシャルカレンダーが出ているので、前回に引き続き、順番に紹介したい。


2026年カレンダーの場合、カレンダー用に新たに描き起こされたエルキュール・ポワロシリーズのイラストが使用されており、デザインについては、Diahann Sturge-Cambell が、また、イラストに関しては、Mr. Stephen Millership / Central Illustration Agency が担当している。


14番目は、2027年1月のカレンダーに該る「鳩のなかの猫(Cat Among the Pigeons)」(1959年)である。


アガサ・クリスティーが執筆した長編としては、第51作目に該り、エルキュール・ポワロシリーズの長編のうち、第28作目に該っている。


2025年に英国の HarperCollinsPublishers 社から出版された
アガサ・クリスティー作「鳩のなかの猫」の
愛蔵版(ハードカバー版)の表紙
(Cover design and 
illustration
by Sarah Foster / 
HarperCollinsPublishers Ltd. ) -
小説のタイトルの上に留まっている鳩達と
床の上に静かに座り、鳩達を狙っている猫が描かれている。


中東のラマット王国(Ramat)では、若き国王であるアリ・ユースフ(Prince Ali Yusuf)は民主化を進めていたが、国王に対する革命(coup d'etat)が勃発する。

自身に迫る危機を事前に察したアリ・ユースフ国王は、彼の親友で、彼のお抱え飛行士でもあるボブ・ローリンスン(Bob Rawlinson)に対して、数十万ポンドの価値にもなる王家に伝わる宝石を密かに国外へ運び出すことを依頼した。アリ・ユースフ国王からの依頼を受けたボブ・ローリンスンは、咄嗟に姉のジョアン・サットクリフ(Joan Sutcliffe)と姪のジェニファー・サットクリフ(Jennifer Sutcliffe - 肺炎(pneumonia)が治った後の転地療養を兼ねている)が2ヶ月間滞在しているホテル(Ritz Savoy Hotel)の部屋を訪ねたが、生憎と、彼女達は留守だった。そこで、ボブ・ローリンスンは、姪のジェニファーが使っているテニス用のラケットの握り部分に宝石が入った包みを隠すと、ホテルの部屋を出た。ボブ・ローリンスンとしては、自分の行動を誰にも見られていないつもりでいたが、実際には、彼の行動は、何者かに見られていたのである。


母親のジョアン・サットクリフと娘のジェニファーは、数十万ポンドにものぼる宝石が自分達の目と鼻の先にあるとは夢にも思わず、ジェニファーの学校入学に合わせて、ラマット王国から英国へと帰国した。

その後、アリ・ユースフ国王は、ボブ・ローリンスンと一緒に、飛行機でラマット王国を脱出しようと試みたが、途中で事故により墜落した結果、2人とも亡くなってしまう。


それから約2ヶ月後、ボブ・ローリンスンの姪であるジェニファー・サットクリフは、ロンドンにある有名な私立女子校であるメドウバンク校(Meadowbank School)へと通っていた。

メドウバンク校は、英国屈指の名門校で、王族の子女達が学ぶ一方で、革新的な教育システムも採り入れていた。亡くなったアリ・ユースフ国王の従姉妹で、彼の婚約者でもあったラマット王国のシャイスタ王女(Princess Shaista - スイスに留学中)も、新入生として、メドウバンク校に入学していた。


メドウバンク校の創設者で、校長も務めるオノリア・バルストロード(Honoria Bulstrode)は、夏季学期の始業日の行事を滞りなく進める中、引退と自分の後継者の選定を考えていた。

オノリア・バルストロードにとって、数学の教師であるミス・チャドウィック(Miss Chadwick)は、メドウバンク校創設以来の彼女の盟友であったが、学校を率いるタイプではないと考えており、事実上、彼女の後継者候補からは外されていた。そのため、彼女は、歴史とドイツ語の教師であるエレノア・ヴァンシッタート(Eleanor Vansittart)を、後継者の最有力候補として考えていたのである。


そんな最中、夏季学期が始まる前に完成したばかりの室内競技場(Sports Pavilion)において、深夜、銃声が鳴り響き、体育の教師であるグレイス・スプリンガー(Grace Springer)が殺害される。

後日、ラマット王国のシャイスタ王女が誘拐される事件が発生すると、更に、オノリア・バルストロードの後継者の最有力候補であるエレノア・ヴァンシッタートが、後頭部を砂袋で強打され、第2の被害者となると、続いて、フランス語の教師であるアンジェール・ブランシュ(Angele Blanche)も、後頭部を砂袋で強打され、第3の被害者となった。


こうして、一見関係ないように見えたラマット王国での出来事とメドウバンク校の出来事の2つが、次第に深く絡み合って行くのであった。


エルキュール・ポワロは、
英国の Orion Publishing Group Ltd. から2023年に発行されている
「エルキュール・ポワロの世界」と言うジグソーパズルの中央に立っている。
<筆者撮影>


なお、本作品の場合、推理小説と言うよりは、サスペンス小説に近く、探偵役を務めるエルキュール・ポワロ(Hercule Poirot → 2025年10月11日付ブログで紹介済)は、物語の終盤に入ってから(全体の 2/3 辺りを過ぎたあたりから)登場して、事件を解決する役目を担うにとどまっている。